第二十六話:「一緒に出掛けてみたい」
校外学習の翌朝。
窓の外は、春らしい柔らかな光で満ちていた。
昨日のあれこれが嘘みたいに、教室はいつも通りのざわめきを取り戻している。
でも、私の胸の中には、まだあの一日の余韻が残っていた。
――白津の、あの言葉。
『ずっと側にいるから。君を置いていったりしない。』
不意に思い出す。あのとき、自分がどんな顔をしていたのか、もう曖昧で思い出せない。
でも、胸の奥にぽつりと灯ったものだけは、はっきりと残っていた。
(……なんで、そんなふうに言えるんだろう)
信じるには、まだ時間が必要だ。
簡単に心を預けたくなんてない。
でも、それでも。
(……あのときは、嬉しかった)
不安でどうしようもなかったのに、白津の声が救ってくれた気がした。
気づけば、あの声や目が、ときどき頭に浮かぶようになっていた。
嫌いなはずだった。
信じないって、決めたのに。
なのに、白津の言葉だけは、するりと心の奥に入ってきた。
……だから。
ちらりと視線を横にやる。
静かに教科書をめくる白津の横顔。
ほんの少しだけ、心を許してもいいのかもしれない――
そんな思いが、言葉にならないまま、胸の奥でゆっくりと膨らんでいた。
「……結月、行くよー。次、音楽室でしょ?」
結花の声が弾んで響く。
「あ、うん……ごめん、今行く」
慌てて教科書をまとめ、椅子を引く。
カーテン越しの光が、きらきらと教室に降り注いでいた。
廊下に出て、結花と並んで歩く。
けれど、心の中は落ち着かなくて、つい声を落としてしまう。
「……ねえ、結花」
「ん?」
「……あのさ…男子って何もらったら嬉しいと思う?」
唐突だったのか、結花が目を丸くする。
「…葵さん? えーと…」
「じゃなくて、白津…」
その名前を口にするだけで、少し息が詰まった。
結花の足が止まる。
「え、……ええ!! どうしたの、急に」
「……昨日、迷惑かけたから。そのお礼。」
「お礼」って言葉にすると、途端に胸の奥がちくりとした。
私にとって「ありがとう」って、簡単に言える言葉じゃない。
でも、あのとき助けられたのは事実で。
嫌いだとか男だからとか、そんな言い訳を捨てて、白津に向き合ってみたくなった。
目を逸らして小さく続ける。
「……なんでも喜んでくれそうだけどね。でも、本人に聞いてみたら?」
結花はそう言って笑ったけど、すぐ首を振る。
「……無理……」
「なんで?」
言葉に詰まる。
理由を説明できない。
喉の奥がぎゅっとして、声が出なくなる。
でも、結花は私のそんな様子を見ても、怒ったりはしなかった。
くすっと笑って、優しい目を向けてくれた。
「お礼も大事だけど、まずは友達として白津くんを認めるのが先じゃない?」
「……そうだね」
そのひと言が、胸の中の小さな棘をゆっくりと溶かしていくように思えた。
⸻
夕方。
制服を脱いで、私服に着替えた。
階段を下りてリビングに入ると、ソファに座る白津が見えた。
テレビはついていたけれど、画面をぼんやり見ているだけみたいだった。
その横顔が、静かな水面みたいに落ち着いていて。
(……今なら、言えるかも)
胸がドクンと鳴る。
呼吸を整えて、声を出した。
「……あのさ、白津くん」
白津が少し驚いた顔をして、こっちを見た。
でも、その瞳はやっぱり穏やかで。
「なに?」
「……なにか欲しいもの、ある? この間のお礼させて」
言った瞬間、心臓が跳ねる。
恥ずかしくて視線を外した。
沈黙が落ちる。
長いような、短いような時間が流れて。
「お礼なんて。僕は当たり前のことをしただけだよ」
その声に、ほっとするような、でも少しだけ期待を裏切られたような気持ちになる。
会話がそこで終わるかと思ったとき。
「……あ、でも、もしも叶うなら……僕、結月ちゃんと出かけてみたいな」
「……え?」
思わず顔を上げる。
その言葉が頭にじんわり染みていく。
(……二人で、出かける?)
脳裏をかすめたのは――葵の顔。
(……葵がいるのに)
胸の奥がざわざわする。
でも、お礼をしたいって言い出したのは私で。
「……ちょっとだけ、考えさせて」
それが、精一杯だった。
⸻
夜。
自室でベッドに腰掛けて、スマホを手にした。
「葵」の名前をタップする指が震える。
(…言わなきゃ)
呼吸を整えて、コール音を聞く。
『……もしもし? どうしたの、珍しいね。結月から電話してくれるなんて。』
いつも通りの声が、逆に怖い。
だから、なるべく淡々と話した。
一つずつ、必要なことだけ。
話し終えたあと、少しの沈黙。
胸がぎゅっとなる。
『そっか。僕のことは気にしないで。楽しんでおいでよ』
「……え?」
あまりにあっさりした声。
拍子抜けしてしまった。
『だって、白津くんはただの友達なんでしょ? だったら問題ないよ。ヤキモチは妬くけど。』
軽い口調に、思わず小さく笑いそうになる。
「……うん。ありがとう」
通話を切ると、ぽつりと息を吐いた。
(…そうだ。ただの友達なら)
自分に言い聞かせるように天井を見つめた。
でも、胸の奥では何かが揺れていた。
智紀を信じてみたい気持ち。
でも信じて裏切られるのが怖い気持ち。
また同じ思いをするくらいなら、ただの友達でいい。
いつ裏切られても大丈夫なように。
でも、胸に残る小さな違和感は、不快なものじゃなかった。
(……悪い人、じゃない。……きっと)
そんな思いが、静かに胸の中に残っていた。
外では、春の夜風がカーテンを揺らしていた




