第一話:語れない願いの在処に
夢を見ていた気がする。
誰かを呼ぼうとして、声にならなかった。
その人の目が、ひどく寂しそうだった気がする。
でも、内容は思い出せない。
起きた瞬間に霧のように消えてしまって、今はもう、形を留めていない。
けれど、ひとつだけ確かに残っていた。
“胸の奥が痛い”という感覚。
(この感じ、前にも……)
ふと、頭に浮かんだのは、冷たい雨の匂いだった。
……そうだ。あのときも、同じ気持ちだった。
雨が降っていた。
冷たい風と、濡れたアスファルトのにおい。車の音、人の足音、傘に跳ねる水の音。
そのどれもが、大きすぎて怖かった。
子犬だった僕は、ただじっと、濡れた地面の上でうずくまっていた。
動けば、何かが壊れそうで。声を出せば、また捨てられそうで。
そんなときだった。
目の前に、ひとつの傘が差し出された。
その傘の下にいたのは、僕よりもずっと小さな女の子。
制服のすそも髪の先も濡れていたけれど、彼女は気にする様子もなくしゃがみ込み、僕をまっすぐ見つめた。
「そんな顔しないで。……私が、一緒にいてあげるから」
その声は、震えていた。
どこか、無理をして笑っているみたいに聞こえた。
それでも、なぜか痛かった。胸の奥が、ぎゅっとなった。
(この人のそばにいたい)
そのとき、僕は初めて「願い」というものを知った。
◇ ◇ ◇
今、あのときの温もりに包まれている。
場所は、彼女の部屋のベッドの上。
制服のままプリントに目を通している彼女の隣で、僕は丸くなっていた。
そっと撫でてくれる手のひらの温かさは、変わらない。
でも――。
最近、彼女の目の奥が、ふいに遠くを見ていることがある。
誰かと電話をした後。スマホを見つめているとき。玄関をくぐった直後。
その目から、彼女の“心”が一歩だけ遠ざかっているのを感じる。
そして僕の鼻は、そのたびに“あの匂い”を察知していた。
甘くて、鈍く濁った匂い。
一度嗅いだら、絶対に忘れない。それは……僕がもっとも嫌う匂い。
(……まただ)
撫でる手が、よそよそしくなる。
彼女は笑う。でも、その笑みの下に、何かがひび割れているのがわかる。
言葉にできないまま、僕はただ尻尾を振ってみせるしかなかった。
吠えたって、泣きたくたって、届かない。
僕の声は、彼女には“鳴き声”でしかないのだから。
(人間だったら)
最近、その言葉が頭を離れない。
この手で、彼女の肩を抱けたなら。
この声で、「泣かないで」って、言えたなら。
そうしたら、彼女は少しでも救われるだろうか。
(このままじゃダメだ)
そんなふうに思う夜が増えた。
彼女が苦しんでいることを、僕は知っている。
だけど何もできない自分が、情けなくて仕方なかった。
◇ ◇ ◇
夜。
隣で眠る彼女の寝息は穏やかで、それだけが唯一の救いだった。
顔を寄せ、そっと鼻先を近づける。
彼女の指先が、夢の中でふれるように僕の毛に触れた。
(ああ……やっぱり)
この人の隣で、生きていたい。
それはもう、ただの恩返しじゃなかった。
「守りたい」なんて言葉じゃ足りなかった。
それ以上の何か。名前のない感情が、胸の中で静かに脈を打っていた。
◇ ◇ ◇
――虚空の世界。
白い髪の女神が、地上を見下ろしていた。
まるで壊れた映写機のように、彼女の視線の先に“犬”と“少女”の一夜が映し出されている。
その様子を、彼女は瞬きもせず眺めていた。
「……想い、ね」
かすかに目元が細まる。
「どこまで行っても、同じことを繰り返す。
ほんとうに、愚かで愛しい存在」
そう言ったその声には、どこか懐かしさが滲んでいた。
女神はそっと手をかざす。
その指先に、淡い光がともる。
「なら、見せてごらんなさい。白津智紀――
“人間になりたい”という願いの、その先を」
微笑むその瞳には、ただの観察者以上のものが宿っていた。
こうして、世界はまた動き出す。
無知なる犬に、感情と知恵と、そして人間の“かたち”を与えるために――
――全ては、ここから始まる。