第二十五話:はじめてのありがとう
その後、担任によって車が用意され、ようやく帰路についた。
玄関前では、結月の母がふたりの帰りを待っていた。姿を確認するや否や、深々と頭を下げる。
「このたびは、本当に……ご迷惑をおかけしてしまって」
「いえ、大丈夫です。無事にシロくんが見つかってよかったです。ただ、次からはお家でしっかりお留守番してもらわないとですね」
担任はやんわりと笑みを浮かべながら、結月の腕に抱かれているシロへと視線を向けた。だがシロはふんと鼻を鳴らし、ふてぶてしく顔を背ける。
代わりに、結月が肩を落としながらぺこりと頭を下げる。
「……すみません。普段おとなしいからって、私が油断してました」
「そうね。でもそれは私も同じ。犬を飼ってる身として、ちょっと楽観的に構えすぎてたかもしれないわ」
苦笑しながらそう返すと、担任は今度は智紀に目を向ける。
「それに白津さんも、今日は最後まで本当によく付き添ってくれたわね。お疲れさま。ありがとう」
「……はい」
その返事は短く、どこか力が抜けていた。声には、一日分の疲れがそのまま滲んでいる。
――
担任を見送ったあと、玄関先で母がそっと結月の肩に手を置いた。
「本当に……驚いたわ。シロがふたりを追いかけて家を抜け出して、しかも途中でいなくなったなんて。でも、無事でよかった」
「……うん。ごめんね」
「結月のせいじゃないわ。お母さんの責任よ。たぶん戸締まりが甘かったのね。ごめんね……でも、どうやってあんな遠くまでついてきたのかしら」
「……ほんと、不思議」
言葉少なにそう答える結月。その真相を知っているのは、傍らに立つ智紀だけだった。
――
遅めの夕食を囲んだものの、食卓には重たい沈黙が流れていた。
結月も智紀も、心も体もすっかり疲れ切っていた。ただ黙々と箸を動かすばかりで、ときおり茶碗を置く音だけが静かな空間に響く。
とくに智紀は、いつも以上に無口だった。体は鉛のように重く、意識もぼんやりと霞んでいた。
――
食事を終えて自室に戻ると――
智紀のベッドの上には、例の白い犬が堂々と丸くなって寝ていた。
「……呑気に寝てるし」
ぽつりとこぼした声に、アズライルが目を開け、尻尾を一度だけゆらりと振った。
「なんだ、怒ってるのか? いい刺激になっただろ」
「……君のおかげで、どれだけ大変だったか。結月ちゃんが、どれだけ不安そうだったか、見てたくせに……」
珍しく感情をにじませた声に、アズライルは気怠げに欠伸をひとつ。
「なに怒ってんだよ。むしろ感謝してほしいくらいだけどな」
「……は?」
「人間ってのはな、弱ってるときほど心を開きやすいんだよ。だから、ああいう状況を作ってやっただけさ。お前があの女との距離を、少しでも縮められるようにな」
「……そんなの頼んでない」
「そうだな。でも、行動を起こさないお前のせいだ」
「僕は……僕なりに、一生懸命やって……」
そのとき、アズライルの尾がぴたりと止まった。
「……そんなふうに、自分を納得させるしかないんだな」
声は落ち着いていた。だがその音色には、どこか冷ややかなものが混じっている。
「会話もできず、距離も詰まらず、ただ空回って。それでも、“頑張ってる”って言えば、少しは救われるのか。……だったら、せいぜいそうしてろよ。時間があるうちにな」
白い毛並みがふわりと揺れ、空気に溶けるように消えていく。
代わりに現れたのは、闇をまとうような黒髪の青年だった。
肩にかかる髪先がわずかに揺れるたび、周囲の温度が下がったような錯覚を覚える。虚無を湛えた黒曜石の瞳が、智紀を静かに見下ろしていた。
その眼差しに宿るのは、怒りでも憎しみでもない。ただ、乾いた諦めと倦怠。
「……お前に残された時間をよく考えることだ。頑張ったけど何も意味がなく終わりました、なんてつまらない結末見せられるぐらいなら……俺が代わりにお前を演じてやる」
言葉は静かだった。けれどその一音一音が、まるで冷えた針のように智紀の胸に刺さっていく。
「……っ」
智紀は息を呑んだ。逃げることも、反論することもできなかった。
と、そのとき――
扉をノックする音が響いた。
「……白津。わたし」
結月の声だった。
智紀は我に返り、驚きに肩をすくませながら慌てて扉を開ける。
「どうしたの?」
その口調は、いつも通りの穏やかさだった。
ドアの向こうで、結月はわずかに俯いたまま、照れくさそうに口を開いた。
「……今日は、ありがと」
短くそう言ったあと、ふと視線を上げる。そこに、ベッドの上で丸くなっている白い犬の姿が映る。
「……あれ?」
小さく首を傾げたその瞬間、智紀の背に冷たい汗が伝う。
(やば……)
ついさっきまで人間の姿だったアズライルのことが、脳裏をよぎる。まさか見られていたんじゃないか、あの姿を――
「……こんなところにいたのね」
結月の呟きに、智紀はほっと息をついた。視線を戻すと、アズライルはすでに何事もなかったかのように、ベッドで無表情に丸まっている。
「探してたのよ…」
結月はそっと手を差し出しながら、優しく呼びかけた。
「おいで、シロ」
けれどシロ――アズライルは、ぴくりとも動かない。耳すら揺れない。
その様子に、結月の表情が少し曇った。
「……そっか。今日は、あなたに懐いてるみたいね」
そう言いながら、結月は一歩近づく。
「悪いけど、今夜はこのまま、シロと一緒に寝てくれる?」
「……うん、大丈夫だよ」
「ありがとう。……おやすみ」
静かにそう言って、ドアが閉じられる。足音が遠ざかっていく中、智紀はしばらくその場に立ち尽くしていた。
「……“ありがとう”、か」
ぽつりと漏らした言葉に、ふっと笑みが浮かぶ。
たったひとこと。それでも、胸の奥に確かなあたたかさが残った。
そのとき、ベッドの上のアズライルが唐突に、くしゃみのような鼻息をひとつ。
「ほらな。言ったとおりだったろ」
いつもの気怠げな、どこか皮肉めいた口調。
「……どうかな。僕は、あんな形で距離を縮めたかったわけじゃないけど」
「理想と現実は違うもんだ。だが、得た結果がすべてだろ? “ありがとう”の一言、お前の宝物じゃねえの?」
ふと、笑みがこぼれる。
「……うん。そうかもね」
(アズライルのやり方を許す気にはなれないけど――結月ちゃんの役に立てたのは、やっぱり嬉しい)
灯りを落とし、ベッドに腰を下ろすと、隣ではアズライルが再び丸くなった。
――この夜、智紀の胸の奥には、わずかだけれど確かに、“前に進めた感触”が残っていた。
静けさが深まっていく中、部屋の片隅で白い犬がゆっくりと瞳を閉じた。