第二十二話「見知らぬ面影」
朝の空気はまだ少しひんやりとしていて、六月の終わりとは思えないほど清々しかった。
バスが出発する校門前には、生徒たちのにぎやかな声があふれている。
制服の上に羽織った私服のパーカーやウインドブレーカーが揺れ、遠足の高揚感を隠しきれない顔が並んでいた。
智紀は、その輪の中でどこか所在なさげに立っていた。手に持ったリュックの肩紐を何度も握り直しては、小さく深呼吸をする。自分でもなぜこんなに緊張しているのかわからなかった。ただ、胸の奥がそわそわと波立って落ち着かない表情をしていた。
「……どうした? そわそわして。つか、なんか疲れてね?」
隣に立つ圭介が、ふと声をかけてくる。
「え? あ、うん……実はちょっと眠れてなくて…」
「なんかあったのか?」
「楽しみすぎてというか……」
智紀の言葉に、圭介がぷはっと吹き出す。
「いや、小学生かよ! しかもただの校外学習だぞ」
「でも、結月ちゃんとのお出かけだし……」
「……まぁ、それは確かに」
圭介は苦笑しながらも、気さくな笑顔でリュックの紐を引き直した。
「でも、天気は晴れ。班もいい感じ。しかも今日の見学場所って、けっこう有名なとこらしいぜ」
「歴史的な建物が多いんだよね……」
「そうそう。なんか、昔の武家屋敷がそのまま残ってるとかなんとか」
「……へぇ」
どこか、胸の奥がざわつく。
歴史ある街並み――そこに、心当たりがあったわけではない。
けれど、遠い記憶のなかで、何かが微かに引っかかるような感覚があった。
「集合〜! バスに乗るぞー!」
担任の声が響き、班ごとに整列が始まる。
智紀は、結月たちの元へ歩み寄ると、そっと小さく会釈をした。
結月はというと、淡々とした表情のまま、軽く頷くだけ。
それでも、その目元にほんのわずかな柔らかさが見えるような気がして、智紀の胸に小さな安堵が広がった。
——バスに揺られること、およそ一時間。
座席に身を沈めた智紀は、興奮を抑えきれない様子で窓の外を見つめていた。
「……うわぁ……!」
小さく息を漏らしながら、思わず窓ガラスに手を添える。
車の列が高速道路を駆け抜け、視界に広がる緑の斜面や遠くの山並みがすごいスピードで後ろへと流れていく。
そのすべてが、智紀にとっては未知の世界だった。
「え、そこまでテンション上がる!?」
斜め後ろの席から圭介が顔を出して笑う。
「初めてバス乗る人、俺、初めて見たわ」
「う、うん……普段、歩くか電車ばっかりだったから……」
「お前ほんと、いろんな意味で規格外だな。なんかもう、そういうとこ、嫌いになれねぇよ」
茶化すような口ぶりだったが、圭介の声はどこか嬉しそうだった。
智紀はというと、車内のざわめきの中で、まるで夢の中にいるような感覚に包まれていた。
座席が揺れるたび、体がふわりと浮かぶ。
窓の外に広がる街や川の景色が、まるで映画のワンシーンのように次々と移り変わっていく。
「これが、バスってやつなんだ……」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に向けたわけでもなかった。
ただ純粋な感動が、胸の奥から溢れ出たのだ。
その隣で、結月は窓の外を静かに眺めていた。
耳元にかかる髪が、わずかに揺れている。
表情に大きな変化はないが、それでも時折見せるまばたきのタイミングや、わずかな頬の動きに、智紀は何度も視線を奪われてしまう。
(結月ちゃんと、同じバスに乗って、同じ景色を見てる)
それだけのことが、奇跡のように思えた。
——ただ並んで座っている。
たったそれだけなのに、胸が痛いほど嬉しかった。
「なぁ、ちゃんと水分持ってきたか? はしゃぎすぎて酔ったら、俺は面倒見ないからな?」
圭介のからかう声がまた飛んできて、智紀は慌てて首を振った。
「だ、大丈夫だよ! たぶん!」
「“たぶん”ってなんだよ、“たぶん”って!」
そんなやり取りに、前の座席から結花が小さく笑い声を漏らす。
「なんか、修学旅行の前日の弟を思い出すなぁ」
「僕、そんなに子どもっぽいかな……?」
「……うん。わかりやすいくらい」
結月の言葉に、少しだけショックを受けつつも、なぜかそれが嬉しくもあって、智紀は小さく笑った。
(こんな時間が、ずっと続けばいいのに)
車内のざわめきの中、胸の奥に静かに灯る想いを感じながら、バスは目的地へと進んでいく。
目的地の街へ到着すると、班ごとに見学コースへと散っていった。
智紀たちの班は、旧家の屋敷群と、その裏手に広がる庭園へ向かうことになっていた。
石畳の道を歩きながら、結花が嬉しそうに声を上げる。
「わぁ……ほんとに時代劇の世界みたい!」
「たしかに。瓦屋根の造りとか、すごいな」
圭介がスマホで写真を撮りつつ、感心したように呟く。
智紀はといえば、視線をさまよわせながら、どこか落ち着かない様子で歩いていた。
(……このあたりの景色、なんだか……)
ふと、道の先に目をやったとき。
風に揺れる淡い薄紅色が、視界の端に飛び込んできた。
「……桜……?」
それは、季節外れに咲いていた一本の桜の木だった。
普通なら、もうとっくに散っているはずの時期。
けれどその木は、ほんのわずかに残る花弁を枝先にたたえ、静かに陽を浴びていた。
(この桜……知ってる……)
一歩、また一歩と引き寄せられるように近づく。
記憶の中で、誰かと並んで見上げていた気がする。
あの優しい風、あの場所、あの温もり。
(……ここで、×××と)
自分がまだ「」だった頃。
よく二人で見上げていた、桜の木ーー。
《本当に綺麗ですね。どこの桜よりもずっとー》
誰かわからない。
その顔も声も。
それなのに確かに智紀はその女を知っていた。
「ゆき…」
その記憶が、ふいに――断片となって溢れた。
「智紀くん?」
結花の声に振り返ることもできず、その場に立ち尽くしたまま、智紀は静かに涙を流していた。
目を見開いた結月が、ふと足を止める。
彼女の目にも、その桜は見えていた。
「……どうしたの?」
その声は、冷たくも、拒絶でもなかった。
ただ、問いかけるような、どこか不安を帯びた声音だった。
智紀は慌てて目を拭いながら、小さく笑ってみせた。
「あ、ごめん……なんか、変だよね」
「……ううん」
結月は、しばし桜の木を見つめたあと、そっと視線を逸らした。
「その木……少しだけ、懐かしい気がする」
その呟きに、智紀の胸が静かに高鳴る。
(……僕と、同じだ…)
それは、確信にはならなかった。
けれど確かに、何かが心に触れた瞬間だった。
「……さ、行こうか」
結月が先に歩き出す。
その背中を、智紀はいつもより少しだけ近くに感じながら、静かに後を追った。
その日見上げた桜は、まるで忘れかけていた想いを、そっと照らしてくれているようだった。
——小さな希望が、花びらのように胸に降り積もっていく。