第十七話:「犬ではない僕の、はじまり」
帰り道の空気は、昼間よりもぐっと冷たくなっていた。
アスファルトに落ちる影が長くなり、風は少し湿り気を帯びて、季節の移ろいを静かに告げている。
その隣を歩くアズライルは、犬の姿のまま、特に何も言わず、軽やかな足取りで歩いていた。
智紀はその横顔をちらりと見てから、ぽつりと呟く。
「……ねえ、アズライル。こんなふうに話してて、平気なの?」
「何がだ?」
「犬が喋ってるように見えたら……おかしいって思われるんじゃ……」
「心配すんな。人間の目には、俺はただの犬にしか見えねぇ。声も届かないし、口も動いてるようには見えねぇよ」
「……そんなの、反則だよ」
「ふっ。悪魔ってのはな、反則の塊みてぇなもんだからな」
得意げに尻尾を一振り。何気ない仕草が妙に堂に入っていて、智紀は苦笑した。
「ってことは、周りから見たら僕が一人でブツブツ喋ってるように見えるってことだよね…?」
「まあ、そうなるな」
「それ……けっこう恥ずかしいんだけど」
「気にすんな。お前、元からちょっと変なやつだしな」
「……ひどい」
軽口の応酬。でも、それだけで少しだけ気持ちが楽になる自分がいた。
智紀は少し黙って歩いたあと、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさっき……クラスの子に“どこに住んでるの?”って聞かれて、とっさに“駅の近くのアパート”って答えちゃってさ」
「ほう?」
「本当はそんな記憶ないのに、すごく自然に出てきた。……まるで、自分でも本当にそこに住んでるって思い込んでるみたいだった」
アズライルは立ち止まり、こちらをちらりと見上げる。
「そりゃ、“人間としての設定”ってやつだ。俺が仕込んどいてやった」
「……設定?」
「人間ってのは、記憶と履歴の生き物だ。名前だけじゃ足りねぇ。生まれも育ちも、何が好きで何が嫌いか、そういう“らしさ”が積み重なって初めて人間としての“存在”になる」
「……まるで、作られた人格みたいだね」
「その通り。だが便利だろ? 聞かれたら自然に答えが浮かぶ。何も知らなくても、“知ってるふり”ができる」
智紀は黙っていた。
足元に視線を落とすと、自分の靴音がアスファルトに微かに響いた。
(僕って……本当に“ここ”にいるのかな)
“誰か”が創った“誰か”として、ただ日々をなぞっているだけなんじゃないか――そんな不安が、胸の奥にじわりと広がる。
「……ねえ、アズライル」
「ん?」
「結月ちゃんには……彼氏が、いるんだよね」
アズライルは少し声のトーンを落とした。
「ああ。いるな。橘葵。他校の三年だ」
「どんな人なの?」
「一見すりゃ、爽やかで気さくな優男。女子にはモテるし、教師ウケもいい。だがな、中身は腐ってる」
「……」
「浮気癖はあるし、自分の思い通りにするためなら平気で人を蹴落とすタイプだ。」
「どうして結月ちゃんはそんな人と…」
「さぁな。ただ一つ言えるのは
篠原が“恋人”として付き合ってるのは、多分もう……好きだからじゃない」
智紀の足が止まった。
アズライルもその場で振り返り、静かに言葉を続けた。
「人間ってのは、“昔は優しかった”とか、“本当は違うはず”って幻想に縋るのが得意だからな」
智紀は黙っていた。
でも、その心の中では、ざらついた何かが確かに芽吹きはじめていた。
「篠原結月は今、お前のことを“信じてはいけない男”だと思ってる。男という存在そのものが、あいつの中では“敵”なんだ。だからどれだけ笑いかけても、優しくしても、届かない」
「……」
「だがな」
アズライルの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「“今は”そうでも、未来までそうだとは限らない」
智紀は、その言葉を胸の奥で繰り返した。
「その心、砕けるかもな。拒絶されて、傷つくかもしれねぇ。それでも、お前は行くんだろ?」
智紀は黙っていた。
でもその沈黙が、何より雄弁だった。
「犬だったくせに、“人間になりたい”なんて、ややこしい感情を覚えちまったんだからな」
その皮肉に、智紀はふっと息を吐き、少しだけ笑った。
「……結月ちゃんを、助けたい。あの子が、あんな顔をしなくてすむようにしたいんだ」
その声に、アズライルは小さく鼻を鳴らす。
それは、どこか諦めにも似た、それでいて肯定する響きだった。
「だったらまずは、“恋人様”の正体を見極めることだな。知りたいか? 奴の裏の顔」
智紀は、静かに頷いた。
「……教えて」
アズライルの口元がにやりと吊り上がる。
白い犬の顔に浮かぶそれは、明らかに“悪魔”の笑みだった。
「了解。悪魔のオマケ付きで暴いてやるよ。覚悟しとけ。お前の知らない現実ってのは、案外ドロドロしてるもんだからな」
風がふっと吹き抜ける。
茜に染まる街の中、ふたりの影が静かに伸びていく。
智紀は、前を向いた。
拳をそっと握りしめながら、一歩を踏み出す。
(……届かないかもしれない。でも、それでも)
誰よりも近くにいた、あの笑顔の記憶を信じて。
――それが、“犬”ではない白津智紀の、最初の一歩だった。