プロローグ:天より視る者
願いは、静かに世界へ落ちていった。
誰にも気づかれず、けれど確かに拾われていた――
それは、“運命”と呼ばれるものの手によって。
◇ ◇ ◇
風も、光も、音も存在しない。
夜とも昼ともつかない空間に、ひとつの影が座していた。
まるで絵画のように静止したその空間において、
人ならざる存在が、虚ろなる天の座より地上を見下ろしている。
白銀の髪が、風もないのに宙を舞い、瞳は時計の歯車のようにきらめいていた。
時間さえも従えるような、静かな圧を纏いながら――その神秘は、女の姿を取っていた。
彼女は、ただ黙って“観察”していた。
◇
地上――一室の光景。
ベッドに腰掛ける少女と、その傍らに丸くなる白い犬。
少女は無言で教科書をめくり、犬はそれを見上げていた。
言葉はない。けれど、確かに通じ合っていた。
少女の手が背中に触れるたび、犬の尾が小さく揺れる。
“その一瞬”が、どれだけ貴いものか。
彼は言葉を持たずとも、きっと知っていた。
だが――。
(もっと、そばにいたい。もっと……)
そう思ったとき、世界は、彼の声なき祈りを拾い上げた。
◇
高みの存在――彼女が、微かに眉を動かした。
「……人間になりたい?」
彼女の声は、無機質でありながら、どこか懐かしげだった。
「“その身”の輪郭さえ、まだ曖昧なのに。ふふ……愚か」
冷ややかに言いながらも、彼女は少しだけ笑った。
目の前の犬に向けられた言葉――
だがその響きには、別の何かが混じっていた。
(思い出すわね)
彼女の視界に、過去の残像が滲む。
◇
――夕暮れ。薄紅に染まった空の下。
山道で、少年が少女の前に立ち塞がっていた。
粗末な刀を構えた野盗たちが、ふたりを囲む。
刃が閃き、肉を裂く音がした。
少年が崩れ落ちる。少女の悲鳴。
血に濡れた手で、彼女は必死に命を繋ごうとする。
だが、少年の瞳には微かな安堵が灯っていた。
最後まで、彼は――守ることだけを選んだ。
(どうして……)
少女の問いに、少年はただ、微笑んだ。
その目だけが、永遠に残っていた。
◇
現在。再び、虚の空間へ。
彼女は過去の幻を見届けたあと、指先をわずかに動かした。
「また……同じ眼をしてるわ」
かつての誰かと、今の“彼”を重ねながら。
「……面白くなりそうね」
天の座より、光も音もない世界に小さく綻ぶ声が落ちる。
「白津智紀。今度こそ、“最後まで”見届けてあげるわ」
その名を告げた瞬間、周囲の空間に音が生まれる。
“カチリ”
まるで歯車が噛み合うような、小さな音。
それは、止まっていた時計の針が再び動き出す音だった。
彼女の手が宙に浮かぶ。
天と地を結ぶ因果の糸が、静かに“ずれた”。
◇
そして――。
少女と犬のいる部屋で、時がふっと揺れる。
少女は気づかない。だが犬は、何かを感じたように首をもたげた。
(……あれは?)
部屋の空気が、ごく一瞬、変わった気がした。
でも、それはすぐに元に戻ってしまう。
少女の指が、また彼の背に触れる。
「……バカだよね、私」
つぶやく声。
けれど犬には、その言葉がまるで宝石のように思えた。
(……やっぱり、そばにいたい)
犬は黙って頷いたように、ただ尾を振る。
その毛先が、光を弾いて一瞬だけ輝いた。
それは、神の手が起こした“奇跡の前触れ”――
まだ誰も知らない、物語の胎動だった。
◇
虚空の中、神はただ呟く。
「……さて。どんな結末を、今度は描いてくれるのかしら」
今度こそ、その全てを――
見届けるために。