第十六話:「犬と悪魔の放課後」
ホームルームを終えた教室に、帰宅準備のざわめきが広がっていた。
智紀は静かに鞄を手に取り、席を立つ。その瞬間——
「ねえ白津くん、今日どこまで帰るの?」
「よかったら途中まで一緒に帰らない?」
数人の女子が、笑顔で近づいてくる。
(……まただ)
昼休みのざわめきを思い出しながら、智紀はそっと視線を逸らした。
「ごめん、ちょっと用事があって……」
小さな声でそう言い、ぎこちなく笑って教室を出ようとする。
「おーい、白津」
背後から呼びかけられて振り向くと、圭介がいた。
「今帰るとこ? そういえばさ、お前ってどの辺住んでんの?」
一瞬、「結月ちゃんの家」と答えかけたが——
斜め後ろから感じた鋭い視線に、背筋が凍る。
振り返らなくてもわかる。結月が、無言でじっと睨んでいる。
(……まずい)
「えっと……駅の近くのアパート。親戚がしばらく貸してくれててさ」
「へー、そうなんだ」
圭介は特に気にした様子もなく、軽く頷いた。
ちょうどそのとき、結花がやってきた。
「どうだった?」
問いかけに、圭介は肩をすくめて首を振る。
「ダメだった。方角同じなら一緒に帰れたのになーって思ってたけど、残念」
「ごめんね……」
「いやいや、智紀が謝ることじゃないって。今度またどっか遊びにでも行こうぜ。この街、案内してやるよ」
「うん」
「じゃあ、帰ろっか。圭介くん。またね、結月! 智紀くん!」
結花が手を振りながら教室を出ていく。圭介もそれに続いて手を振る。
「じゃな、気をつけて帰れよー」
智紀も手を振り返しつつ、ふと結月に目を向けた。
「……一緒に帰る?」
結月は一瞥だけくれて、小さく首を横に振る。
「……別に。ひとりで帰れば」
それだけを残して、背を向ける。
(……そうだよね)
小さく息を吐き、智紀は校門を出た。
空は茜色に染まり始めていた。
帰り道、誰もいない歩道を歩きながら、智紀はうつむいていた。
結月の冷たい反応、圭介の言葉、昼休みに口走ってしまった「好き」という一言——
あれは正しかったのか、間違いだったのか。考えれば考えるほど、わからなくなっていく。
(人間になれれば、全部うまくいくと思ってたのになぁ……)
「はぁ……」
ぽつんと立ち止まり、沈みかけた太陽が背後から長い影を伸ばしているのを感じた。
そのとき——
「随分と浮かない顔だな? せっかく念願の人間になれたってのに」
聞き慣れないはずなのに、どこか耳に残る、皮肉めいた声。
振り返ると、そこには一匹の犬が座っていた。
銀白色の毛並みに、鋭く光る琥珀の瞳。——それは、どこか智紀自身を模したような姿だった。
「……アズライル」
犬の姿のまま、アズライルはふんと鼻を鳴らす。
「その辛気臭ぇツラを見るに、絶賛苦戦中ってとこか?」
智紀は黙ったまま、俯いて足元を見つめた。
アズライルは尻尾をゆるく振りながら、くくっと喉の奥で笑う。
「ま、そりゃそうだよな。お前みたいな犬が、人間様の恋愛ごっこに飛び込んだところで、うまくいくわけねぇだろ」
「……恋愛とか、そんなんじゃないよ……。僕は、ただ結月ちゃんが笑ってくれたらって……それだけで」
智紀の声は、かすかに震えていた。
「でも、全然うまくいかない。話しかけようとしても、いつも怖い顔されて、冷たくされて……」
視線を落としたまま、ぽつぽつと言葉がこぼれる。
「笑ってほしいだけなのに。優しくしたいだけなのに。それすら届かない。なんでこんなに……うまくいかないんだろう」
アズライルは鼻で笑った。
「くくっ……いいぞ、もっと嘆け。人間になったからって、全部がバラ色になるとでも思ってたのか?」
「……ちがう、そんなふうに思ってたわけじゃない」
「だったらなんだよ? 笑ってくれると思った? 撫でてくれるとでも? 犬だったころの延長線でうまくやれると、本気で信じてたんじゃねぇのか?」
鋭い言葉が、痛みのように胸を刺す。
智紀は唇を結び、拳をぎゅっと握った。
「違う……って思ってた。でも、こんなにも何も伝わらないなんて……」
胸の奥に広がるのは、もやのような焦りと虚しさだけだった。
「“好き”って言ったのも、間違ってたのかな……」
そう呟いた声は、ほんの少しだけ掠れていた。
アズライルはふっと笑う。
「間違ってるかどうかなんて、お前が決めることじゃねぇ。あの女がどう思うか、それだけの話だろ」
「…結月ちゃんは、」
言いかけた言葉が喉につかえる。
「……結月ちゃんは、僕を、嫌いみたいなんだ」
その言葉に、アズライルは一瞬だけ目を細めた。
「……結月ちゃんは、僕を、嫌いみたいなんだ」
その言葉に、アズライルは一瞬だけ目を細めた。
「ふん……だったら、お前がこれからどうするか、だな」
低く吐き出すように言い、アズライルは智紀を見上げる。
「嫌われたままでいいのか? それとも、どうにかしたいのか?」
「良いわけない…犬だった頃みたいに結月ちゃんと笑って、仲良く過ごしたい…」
「だったらいつまでもうだうだ悩んでないで、せいぜいその曖昧な優しさで足掻いてみろ。まだ何も始まっちゃいねぇよ」
そう言い残して、アズライルはふっと背を向けた。
その背は、まるで「ついてこい」とでも言っているようだった。
茜色に染まる帰り道。夕陽がアスファルトをじわりと照らす中、智紀はその背を見つめる。
足元には、何の答えも落ちていなかった。
けれど、それでも。
(そう、だよね…、)
(頑張らなきゃ、少しでも結月ちゃんに近づけるように)
小さく拳を握って、智紀は前を向いた。
——まだ名も知らぬ“好き”という感情を、抱えたまま。




