第八話:「転校生、白津智紀」
教室の扉を開けるまでに、智紀は何度も深呼吸を繰り返していた。
心臓の鼓動が、やけに耳の奥で響いている。
昨日まで床を四つ足で歩いていた自分が、今日はこうして“人間”の姿で立ち、歩き、言葉を話そうとしている。
(大丈夫。練習した通りに、声も出る。言葉も通じる。問題ない)
それでも、背中には薄い不安の膜が張りついて離れなかった。
この扉の向こうにある“日常”に、自分の足音が混ざっていいのか――そんな気すらした。
意を決して、扉を開ける。
ガラリ――。
ざわめいていた教室が、わずかに静まる。
担任の女性教師が、ちらりと時計を見てから軽く手招きした。
「はーい注目。今日からこのクラスに入る転校生を紹介します。
白津智紀くん。みんな、仲良くしてあげてね」
教壇の隣に立たされると、教室の空気がやけに眩しく感じた。
「白津智紀です。よろしくお願いします」
一礼しながら口にしたその声は、少しだけ裏返った。
けれど誰も笑わなかった。むしろ、空気がわずかに柔らいでいくのが分かった。
――それにしても、どうしてこんなに視線が集まるんだろう。
淡い銀白色の髪に、陽光を映すような琥珀色の瞳。
まるで絵本から抜け出したような美しい容姿。
どこか現実味のないその姿に、誰もが“見惚れる”のと“距離を測る”の間で揺れているようだった。
「席は……そうね、篠原の隣が空いてるね。窓際の列、一番後ろから二つ目」
その言葉に、智紀の視線が自然と向いた。
そこには、黒髪の少女――篠原結月が座っていた。
彼女は視線を一度も上げず、机上のプリントに静かに目を落としたままだった。
横顔には淡々とした静けさが漂い、近寄りがたい空気をまとっていた。
(……結月ちゃんの隣か)
わずかに胸がざわつく。
席に着くと、彼女はやはり一度も視線を寄越さなかった。
(今の僕は、もう“犬”じゃない)
机ひとつ分の距離。それだけなのに、触れられない透明な壁があるように思えた。
――それでも。
この日、教室という舞台に初めて立った智紀の目に映ったのは、かつて見たことのない「社会」の輪郭だった。
* * *
休み時間。
最初に声をかけてきたのは、ふんわりとした栗色の髪の少女だった。
「えっと……白津くんだよね? はじめまして、水沢結花っていいます」
「は、はじめまして。よろしくお願いします」
「何か分かんないことがあったら、いつでも聞いてね。このクラス、みんな優しいから」
その声は春風のように柔らかくて、気がつけば緊張していた肩の力がすっと抜けていた。
しばらくして、後ろからもう一人、男子が声をかけてくる。
「俺は藤宮圭介。結花とは幼なじみで、結月とは――まあ、よく一緒にいる。よろしくな」
「よろしくお願いします」
「……結月もさ、ちょっとは助けてやれよ。隣なんだし」
圭介が笑いながら声をかけると、隣の席の結月がちらりとこちらに顔を向け、少しだけ眉をひそめた。
「……なんで私が」
「ほら、そういうとこ」
「別に困ってなさそうだったし」
そのそっけなさに、圭介は苦笑し、結花は小さく笑いを漏らした。
(……それでも、こうして人と会話しているんだ。ちゃんと、溶け込もうとしてる)
“白津智紀”としての存在が、少しずつ形を持ち始めている気がした。
* * *
ふと視線が吸い寄せられる。
隣の席の彼女――結月が、無言のまま窓の外を見ていた。
その横顔は、まるで世界から一歩離れたところにあるように静かで、触れがたい。
“ここ”にいながら、まるで“ここ”にいない人のようだった。
(……僕は、まだ、そこにいない)
彼女の世界の中に、“僕”はいない。
“シロ”だったころの記憶だけが、彼女の隣に残っている。
そしてその“記憶”は、今――自分以外の姿をして、家に残されている。
◇ ◇ ◇
チャイムが鳴る。午後の授業が始まる。
教室に再びざわめきが戻る。
でも、胸の奥に残る距離感は、音では消えなかった。
(この場所で、僕は――何になれるんだろう)
それがわからないまま、ノートを開く。
教科書をめくる。隣の結月は、何も言わない。
教室という舞台の中で、物語の幕が静かに上がり始めていた。
皆さんこんにちは紗倉です!
最後までお読みいただきありがとうございます。
新キャラ登場です。
圭介と結花には結月と智紀の恋のキューピット役を担ってもらえたらなーと期待しています笑
っていうのと、圭介たちについては完全に私がこんな友達がいてくれたら心強いって気持ちで登場させました!
(私自身人見知りなので、こういう積極的な人が側にいてくれると非常に助かる…)
それでは皆さん、また次回のお話でお会いしましょう!




