第三話:ヒエラルキーは正しく把握しよう
濡れた荷物で座席を汚さないように、後部座席の足元にそっと置いた。
数ヶ月ぶりに会う祖父――梧桐竜胆は、記憶の中と変わらなかった。
齢七十を超えているはずなのに、眼光は今も猛禽類のように鋭い。
身長は俺と十センチほどしか違わないのに、その存在感は大木のように重く感じられた。
それに比べて、窓ガラスに映るびしょ濡れの自分は――まるで、濡れた捨て犬みたいだった。
竜胆はハンドルを握りながら、どこか満足そうな顔をしている。
目的を果たしたとでも言いたげに、当たり前のように紙タバコに火を点けた。
「じいちゃん、俺、タバコ嫌い」
「あぁ、悪い悪い。忘れてた」
慌てて灰皿に押しつけ、申し訳なさそうに笑う。
ほんとうに、ただ忘れていたのだろう。
窓を少し開けて煙を逃がすその横顔に、
俺は言いようのない罪悪感を覚えた。
――他所者は、俺の方なのに。
渡された少し大きめのタオルで頭を拭く。
おひさまの匂いがして、胸の奥が少しだけ温かくなった。
父のジェットコースターみたいな運転に慣れていた俺にとって、
竜胆の穏やかなドライブは、ほとんど別世界のようだった。
雨風に叩かれる窓を横目に、流れていく田園風景が、
いつの間にか心臓の鼓動と同じリズムになっていく。
昨日より少しだけ穏やかになるようにと祈りを携えて、
俺は今日から――帰る場所へ進んでいくのだった。
⸻
わかっていたことだが、久しぶりに来た祖父母の家は、
まるで時代劇に出てくる武家屋敷のようだった。
切り取り線のように長く伸びた塀と、聳え立つ大きな門。
太めの筆文字で書かれた『梧桐』の表札は、まるでこの土地の“句読点”のようで、
その存在だけで周囲の田園風景から切り離された異空間を作っていた。
少し坂になった入り口に車を停めると、
「少し待っとれ」
と竜胆が言い残し、勢いよく外に出ていく。
雨に打たれながら、重そうな門を押し開ける姿はどこか不器用で、
その背中に年齢を感じて、少しだけ切なくなった。
住まいとは少し離れた蔵のような車庫に車を入れる。
鉄の匂いが満ちたその空間には、やたらと黒塗りの車が多かった。
「……何かの集まりでもあるのか」
ぼんやりと呟くと、竜胆が振り返って笑った。
「どうした? 着いたぞ」
車庫からそのまま住まいへも行けたが、
なぜかそれは“いけないこと”のような気がして、
車庫に置かれていたビニール傘を開き、砂利道を転ばないように歩いた。
「いいのか? 濡れるぞ」
竜胆は不思議そうに言いながらも、黙ってついてくる。
大きな引き戸を開けると、広い玄関が迎えてくれた。
土間には行列のように革靴が並び、
俺が運び込んだ湿った空気に、ほのかな香の匂いが混じる。
傘を仕舞いながら顔を上げると、
「まあ、おかえりなさい」
廊下の奥から軽やかに歩いてきた祖母――梧桐菖蒲は、
まるでおひさまのように微笑んでいた。
「やだ、ずぶ濡れじゃないの! 風邪引いちゃうわ!
お風呂、もう準備してあるから、和ちゃんはこっち!」
パタパタと軽い足取りで背中を押していく。
その後ろをついてきた竜胆に、菖蒲がふと振り向いた。
「竜胆さんは――客間」
その声色が、先ほどより少しだけ冷たくなった。
背筋にひやりとしたものが走る。
どうやら、じいちゃんはまた仕事をサボったらしい。




