第十一話:歩いてみよう
梧桐家の朝は早い。
菖蒲さんは朝五時には起きて、朝ごはんの支度や洗濯を始めているし、
じいちゃんは日課だという鍛錬に励んでいる。
木刀を千回以上振るらしい――正気の沙汰とは思えない。
俺自身、朝が極端に苦手というわけではない。
特別な用事があるわけでもなかったが、自然と布団を抜け出していた。
パタパタと階段を降り、台所へ向かう。
「あら、おはよう〜。和ちゃん、はやいわね〜」
「おはよう、菖蒲さん」
台所には、魚の焼ける香ばしい匂いが満ちていた。
庭で採れたらしい鮮やかな夏野菜が、まな板の上に並んでいる。
「もう少しかかるから、朝の涼しい時間にお散歩でもどうかしら?」
「そうだね。昨日は夕立で酷い目にあったし、ちょうどいいかも」
台所の窓から外を覗き、差し込む日の光を確かめる。
雨上がりの空は、嘘みたいに澄んでいた。
「七時くらいには朝ごはんにするから、それまでには帰ってきてね〜」
きゅうりを洗いながら、手を止めずに見送ってくれる。
そのまま玄関へ向かい、靴箱の前で足を止めた。
昨日の雨でぐちゃぐちゃになったスニーカーが目に入り、
「……うわぁ」
と思わず声が漏れる。
けれどその隣に、見慣れたスポーツサンダルがぽつんと揃えて置かれていた。
引っ越しの荷解きを、先にやってくれていたらしい。
(あとで、ちゃんとお礼言わないとな……たぶん、菖蒲さんだ)
そう思いながら、サンダルに足を通す。
玄関を出ると、朝の空気がすっと胸に入ってきた。
昨日より、少しだけ呼吸が楽だった。
玄関を開けると、鮮やかな朝顔のグリーンカーテンが視界いっぱいに広がった。
その奥で、半裸の老人が木刀を振っている。
……半裸で、木刀を振る老人。
じいちゃんだった。
一振りごとに、乾いた風切り音が空気を裂く。
普段は甚平や着物に身を包み、どこか飄々としているのに、
今は無駄のない動きで、まるで別人みたいだった。
こちらに気づいたじいちゃんが、木刀を止めて近づいてくる。
「おはよう。随分早いな」
「おはよう。学校行くの早いし、こんなモンだよ」
口では軽く返したけれど、
間近で見ると、想像以上に鍛え上げられた身体に思わず視線が泳ぐ。
年齢を考えると、正直ちょっと引いた。
それに気づいたのか、じいちゃんは怪訝そうに眉をひそめる。
「朝ごはんまでには帰るから、少し散歩してくるよ」
「おう。気をつけていってこい。
夕立の後で増水しとる。足元も悪いから、川の方には行くなよ」
「……わかった」
ただそれだけのやり取りなのに、
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
久しぶりの感覚だった。
「さて、どうするか……」
大きな門をくぐり、舗装の甘い道に出てから立ち止まる。
スマホを確認して、思い出した。
――電波、悪いんだった。
(迷子になったらシャレにならないな……)
苦笑しながら顔を上げると、
昨日の夕食の光景がふと頭をよぎった。
真夏。
同居人である冷たい視線を放つ女の子。
そういえば、彼女が通っている中学校。
俺も、夏休み明けから通うことになる場所だ。
(どうせなら……)
理由は、特別なものじゃないけどただ、この場所をもう少し知っておきたかっただけだ。
逃げ場でも、仮の居場所でもなく、これから“通う場所”として。
そんな軽い気持ちで、自然と足が前に出ていた。
東京と違って電車のレールの歌は聞こえてこない。
朝の光の中、まだ起きていない町を歩きながら、
俺は静かに動き出していた。




