第九話:繰り返す夢
苦しい。
今でも覚えている、あの夜の始まりは、そんな感想だった。
眠っていたはずの私の視界は暗闇ではなく、
充満する黒煙と、それをぼんやりと照らす橙色の光に満ちていた。
何が起きているのかわからなかった。
呼吸は圧迫され、視界は異様に狭い。
天井が低く、覆いかぶさってくるような感覚。
すべてを支配する閉塞感と、耳鳴りに似た轟音。
どこかで、金属が軋むような音がしている。
――また、だ。
息を吸おうとして、激しくむせた。
喉の奥に突き刺さる、焦げた匂い。
鼻腔を焼くような熱と、苦く重たい煙。
(寒い……?)
違う。
寒さじゃない。
皮膚がじりじりと焼ける感覚だった。
――ああ、たぶん。
私、死ぬんだ。
何故か思っているのに、どこか冷静で、
少し離れたところから自分を眺めている感覚があった。
身体を動かそうとすると、何かに引っかかる。
立ち上がろうとしても
足元は不安定で、傾いている。
地面が、ゆっくりと斜めに沈んでいく気がした。
玄関のドアもベランダに出るためのはきだし窓も
どちらにあるかわからない。
どこから来て、どこへ向かえばいいのか。
遠くで、誰かの叫び声がした。
「――っ!」
声にならない声。
泣いているのか、怒鳴っているのかも判別できない。
そのとき、光が見えた。
遠く、小さな光。
白く滲み、頼りなく揺れている。
(助かる……?)
そう思った瞬間、強烈な音が響いた。
――バン、と。
衝撃で視界が揺れ、
天井から何かが剥がれ落ちてくる。
違う。
これは――
ぱちぱち、と乾いた音。
炎が、壁を這っていた。
天井は薄く、壁は脆い。
(……あ)
煙が一気に濃くなる。
電灯が割れ、火花が散った。
この場所が――
私の、大切な場所が、焼き尽くされている。
パラパラと天井が崩れ落ちる音。
何かが壊れ、砕ける音。
次の瞬間、炎と煙が一気に降り注いだ。
「きゃっ!」
視界が真っ赤に染まり、
熱と衝撃で身体が弾き飛ばされる。
床に叩きつけられ、息が詰まった。
咳が止まらない。
涙も、鼻水も、すべてが混ざる。
死にたくない。
死にたくない。
恐怖の中で浮かんだのは、
驚くほどありきたりな、その感情だけだった。
ガラスの砕ける音。
冷たい夜の空気が、一気に流れ込む。
外から、誰かの声がした。
「中に子どもがいるぞ!」
腕を掴まれる。
強い力で、引きずられる。
声にならない叫び。
次の瞬間、身体が宙に浮いた。
窓から、外へ。
冷たい夜風。
地面に叩きつけられる衝撃。
世界が反転し、暗転する。
最後に見えたのは――
炎に包まれる、あの場所。
***
はっと、目を覚ました。
胸が苦しい。
息が浅く、指先が冷たい。
暗い部屋。
天井は、崩れていない。
火も、煙も、ない。
――助かった。
そう思った瞬間、
胸の奥に、重たい何かが沈殿した。
あの頃より伸びた黒い髪を強く握ってしまう。
たぶん、同じだ。
生き残ってしまった人間の目。
助かったはずなのに、
どこにも帰れない目。
膝を抱え、
音を立てないように息を整えた。
私の夜は、まだ終わらない。




