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再び、路上へ

作者: コルシカ

   再び、路上へ


               コルシカ


 暗い部屋に蛍光灯をつけて、僕は暮らしている。

 デジタル時計に目をやると四時と表示されているが、朝か夕方かの区別さえ判然としない。

 プラズマテレビに映し出されたプレイステーションのゲーム画面が、僕にとっての現実だ。そういったことは、もう受け入れなきゃいけない。なぜならこの部屋の外に存在する本当の――僕以外の人間が認識している――現実は、僕にとっては意味をなさない。

 「自分自身が身を置いていない現実」など、何の価値があるのか。考えすぎるな、心をすり減らすだけだぞ。

 人間が求めて止まないもの、たとえば愛を僕は感じない。理由は、僕自身が人や物事に愛を求めなくなったからである。

 森羅万象、人間が神に背いて創造した物や行為は、すべて醜悪と憎悪に満ちている。一見それは人懐っこそうに僕に近づいてきて、どんなに素晴らしいかを訴えるのだが、その実、薄皮一枚剥ぐと軽薄そのもので、僕の矮小な煩悩を肥大させるだけの役割しかもっていない。

 もう、何も信じない。そして愛さない。

僕の住むこの星を照らす太陽もその光を与えるだけだが、その「無償の愛」に満ちた事象をも僕は嫌悪する。見返りを求めないとは、どれだけ気味悪い現象かを皆認識すべきだ。

警戒しろ。自然の営みを模倣するボランティアの偽善に騙されるな。

僕は、絶対この部屋を出ない。誰が来たって出るものか。


        一


「けっこう立派なお家ですねえ」

六十代の夫婦に案内された男女一組の男の方が、感心したようにいった。黒いセルフレームの眼鏡をかけ、ネイビーのスーツを着ている。年の頃は三十くらいか。

「いいえ、いいえ。古い家ですので……あちこちなぶっとったら、でかくなってしもたんですわ」

夫婦の夫が言い訳とも謙遜ともつかない、ため息混じりの応対をした。

「プロフィール拝見しました。由緒あるお家柄なんですね」

二十代なかばの眼鏡男の連れの女が、明るくハキハキした調子でいった。

ライトグレーのパンツに白いブラウス。健康で前向きな内面が現れていて、誇るようだ。

「そんな、もったいない。ずっとうちは百姓でして。で、あの、雨戸が閉まってる二階の部屋が、あの子の部屋なんですわ……」

老夫婦の妻は、疲れ切った表情が耐え切れずに出てしまっている。

「なるほど。じゃ、中でお話お聞きしましょうか。河野さん、車の中に書類忘れていないですか」

「大丈夫です!」

「そしたら、小山田さんも河野さんも、座敷に上がっておくんなまし」

小山田と呼ばれた男は、軽く相槌をうって隣りの河野と共に田舎建ての一軒家に入っていった。

 老夫婦が案内した和室は、年季の入った仏壇が奥に鎮座しており、欄間等日本家屋独特の美しさを感じさせた。塗り壁の側面上部には、代々の当主のモノクロ写真が飾られている。

 「大友さんのお宅は、ほんとに古いお家ですね!あんなにおじいちゃんとおばあちゃんがたくさん……」

 河野は彼女への依頼人である大友義成に、屈託のない笑顔で話しかけた。

しばらくして妻の春江が煎茶を振るまい、客人になれた身のこなしで末席についた。

 「家も続けばええっちゅうもんとちゃいますね。なまじ田や畑があって、息子を甘やかしてたら、こんなんなってしまいまして……学校行けやの、働けやのいうたら大暴れですわ。

 ええわええわで目つむっとったら、もう三十にもなろうかってゆう歳でしょ。わしは世間さまの目が気になって、気になって」

 「わかりますよ、うん、わかります」

 小山田は眼鏡の奥の目をしばたかせて大友義成の弱音に応じながら、ファイルされた書類を点検していた。

 「息子さん、義人さんの引きこもりの期間ですが、ずいぶん長いんですね。ええっと、中学三年の夏休みくらいから外に出なくなってきた、と」

 小山田は、逐一確認するように大友夫妻の顔を交互に見ながらいった。

 「もう十五年ですよ。一言で十五年いうてもねぇ……生まれた赤ちゃんもええ大人になろうかっちゅう長さですわ」

 「とくに思春期からの十五年って、人生が凝縮されてますから!普通色んな経験をしなくちゃいけない期間なんです」

 黒髪を肩まで伸ばした河野は、髪が揺れるほど強調して十五年という年月の貴重さを説いた。

 「あきませんかねぇ?こんなに長かったら、義人はもうあきませんかねぇ?何とかなりませんやろか」

 義人の母は、まるで彼らが帰依する阿弥陀如来に手を合わすがごとく、すがるような声で小山田と河野に訊く。

 「お母さん、何とかなると思いましたので、今日義人君に会いに来てます。

ところで河野さん、十五年前って、あなた生まれてた?」

 「生まれてますよ!もう十歳でしたし!どんだけ子どもに見るんですか、私を」

 小山田の冗談とも真面目とも分からぬ返答に、大友夫妻は安心したように笑った。河野は「もう!」といってふくれている。

 「義人君の中学校の成績ですけど、ほー、かなりいいじゃないですか。国語とか社会は5ですもんね。

 体育も4、これならいじめとか受ける人種には見えないなあ」

 「ですやろ?わたしらもなんで義人が……って最初は思とったんですわ。それが、一年経ち二年経ち・・・・・・こんなにあの子が引きこもってまうとは」

 父の義成も薄くなった後頭部を撫で付けながら、困惑が隠せない。

 「まずは、私たちが義人君に直接会いましょう!彼と対話して今後の対処を決めます。

 ほら、小山田さん、何お菓子食べてんですか!行きますよ、二階」

 「ほいほい……」

 小山田は机の上の書類を一応まとめておいて、せんべいを頬張りながら河野の後についていく。

 大友夫妻には勇ましい女の子である河野に対して、年長の小山田はひどく頼りなく見えた。

 「お父さん、教育委員会の人ってあの女の子ですか?」

 「いや、男の人って聞いてたから、あのメガネの小山田さんちゃうんかな……」

 「じゃ、ボランティアの人が河野さんっていう女の人?」

 「うーん、最近は女の方が強いからなあ。お役人はやっぱりのんびりしてはるわ」

 両親の不安を暗喩するかのように、河野の後に続く小山田が階段を踏み外し、「うお?」と短く頓狂な声を上げた。

 「こんにちはーっ!義人君、ドア開けてくれる?ニュースタート事務局の河野です。話だけでも聞いてくれないかなぁ」

 「……」

 勢いよく二階にある義人の部屋のドアをノックした河野であるが、中の住人から反応がないのを確認すると、ややむっとして小山田に振り返った。

 「おうい、義人君。この女は怪しいものじゃない。ボランティアのお姉さんだからさ、ちょっとドア開けてよ」

 「……」

 「まあ、そうきますわね」

 そう呟いて、そそくさと階段を降りようとする小山田に、

 「ちょっとー、あっさりあきらめないでくださいよー」

 と河野が彼の背広をひっぱった。

 「仕方ねーじゃん、機嫌悪そうだし……彼」

 「だから、こういうケースはたいがいそうなんです!粘り強く説得してくださいよ」

 「……」

 部屋の中で義人は、ドアに耳を近づけて二人の会話を聞いていた。

これまで自分を部屋から引っ張り出そうとした連中とは違う。まずチームワークがなっちゃいないし、人を人とも思わぬ態度じゃないか。

わかった、わかった、とめんどくさそうに男の声が近づく。

「あー、自己紹介忘れてました。県の教育委員会から左遷されてきた小山田信幸です」

「もう、開き直らないでちゃんと話してくださいよ、小山田さん!ご、ごめんね義人君……」

 だって事実じゃないのー左遷の話は、などとドアの外で同年代の男女が起こしているしょうもないいさかいに、義人は無性に腹が立ってきた。

ボランティアの河野と名乗る女はともかく、この小山田という男は教育委員会――左遷らしいが――からよこされているからには、公務員だろう。まったくこの頃の役人はまったくなってない。自分たちの税金で小山田が生きているならば、まさに社会いや大友家に巣食う寄生虫ではないか。

「しまった義人君、もう7時じゃないの!あのさー中日と巨人がナイターやってんだけど、中日の先発誰?大野かな、柳かな……わかるでしょ、インターネットでちょいと見てよ」

「いい加減にしろ!帰れよ!」

ドアを反射的にバン!と開けた義人の前には、目と鼻の先にびっくりした顔の河野がいた。義人は、顔中が赤面してゆくのを実感する。

肩まで伸びたボサボサの髪、運動しないため不自然に太った醜い身体、週一回しか着替えない上下のスウェット。

 それに対して、この女の爽やかないでたちはどうだ。健康的な顔色としなやかなボディライン――コンマ一秒で義人の脳内でコンプレックスが滲み出した。

「は、はじめまして……河野です」

「……ど、どうも」

硬直した義人と河野の横を、小山田がすり抜けていく。当たり前みたいに義人のデスクトップパソコンでマウスをカチカチいじりはじめた。

「何だよ、もう3点も取られてんじゃん!やだな、三連戦の初戦だよ、危機感もてよー」

「……おじゃまするね」

「ど、どうぞ……」

落ち込んだみたいにしおれた仕草の河野に、なしくずし的に義人は二人の入室を許してしまった。河野はうつむいたままパソコンにかじりついている小山田のもとに直行し、ためらいなく背中をバン、と叩いた。いて!と悲鳴をあげた小山田をひっぱって、河野は義人の前で頭を押さえつけるみたいに謝らせた。

「ごめんね……なんか、この人がこんなで」

「こんな、って何よ。無事ご対面できたじゃない」

「もう、頼むからしゃべんないで!……」

河野が半泣きになっているので、義人はなぜか申し訳ない気分になり、

「こちらこそ、なんていうか……僕のせいで」

と謝罪してしまった。

「どういたしまして!」

小山田が笑顔で答える。

「もう、死にたい……」

 河野は顔を両手で覆って、情けなさそうにうめいた。

 「ところで、この部屋ってさー」

 小山田がジロジロ見回すと、薄暗い部屋の全貌が徐々に明らかになってきた。

 何年も敷きっぱなしになっている布団。うず高く積まれたマンガ本とDVD・CDが何本も塔のようにそびえ立っている。

 雨戸を閉め切っていてエアコンを効かせてあるため、部屋の空気は澱んでいて現在は夏か冬かも判断できない。

 「うっとうしいからさ、次におれたちが来るまでに掃除しといてくれない?」

 「……いやですよ」

 義人は、長く伸びきった前髪を掻き分けて、イヤミたっぷりに小山田の申し出を断った。

 「だって、こんなにマンガあるのに、どこに何があるかわかんないでしょ。せっかくプレステのゲームとかアニメのDVDあるのに、見たいときにすぐみれないじゃん!」

 「……あの、だから、僕はわかるんです。ほっといてください」

 「え、あんたがわかっても、おれがわかんないじゃん」

 「はあ?」

 落ち込んでいた河野がビクッと顔を上げて叫んだ。

 「小山田さんがマンガ読んでどうすんですか!」

 「だって義人君、重症患者ですよ?根気よく説得しなさい、っていったのあなたですよ河野さん。

 彼がまた亀みたいにこもっちゃったら、おれヒマでしょ……そのときマンガとかDVD見るんだから」

 「……あの、どこから怒っていいのかわからないけど」

 義人が肩にフケが積もったスウェットを震わせて、口を挟む。

 「河野さんも義人君もね、あんたら全くわかっちゃいねーんだよ」

 初めて小山田が、毅然とした声で言い放った。河野と義人が、思わず居住まいを正す。

 「義人君はさ、おれたちに部屋のドアを開けてくれたでしょ?それは彼の外の世界に出たいっていうメッセージなんだ。

 だけど、十五年もこの薄汚ねー部屋から出てなかったんだよ、彼。そのギャップを埋めてあげなきゃだめでしょうが。そりゃ義人君は何百回何千回とこの部屋から出るシュミレーションはしてたと思うよ、彼の頭ん中だけで……それでも出れなかった、でも出たいからおれたちが来たんだよ。

 義人君のこの部屋と外の世界の違いを教えてあげたいのよ、おれは。

 そのためにはまずはこの部屋がどういう要素で出来上がってるのかデータをインプットしなきゃいけないの!」

 きょとんとした義人、そして河野を見やった小山田はニコと笑う。

 「……なーんてね!」

 河野ががっくりとうなだれて、聞こえよがしのため息をついた。

 「お、小山田さん、でしたよね……?僕、あなたたちみたいな人ダメなんです。そっとしといてください、さっきの話だってでたらめじゃないか!

 全然意味ないよ!そういった前向き、っていうかこうあるべきだ、みたいのぞっとするんだ。

 社会なんかクズでしょ。そんなとこ僕は行く気がないし、想像したくないし――」

 義人は興奮するな、と自分を叱咤しながら太りきった身体を痙攣させつつ抗議した。

 「ね、落ち着いて。私たち、じゃない!私は義人君のこと真剣に向き合うつもりで来ててね……」

 狼狽してしどろもどろの河野の肩を、小山田がポンと叩く。

 「河野さん、帰ろう。あんまし突き詰めると、先もたないよ。

 義人君ね、あんた何でもあーだこーだって決め付けない方がいい。

 クズだと思い込んでることが、大事なことだってあるしさ。意味とかね、そういう観念的なとこはさー、あんたの頭ん中で適当に作り上げりゃいいじゃない。

 今日なんか出来すぎ!こうしてあんたに会えただけでもたいしたもんだ。でかした、小山田!最高、おれ!」

 「もう、なんでこうなっちゃうの……」

 河野がハンカチで顔を押さえると「おっ、懐かしのハンカチ王子だ」と小山田が指を指す。

 「帰れ、もう帰れよ!」

 「はいはい。『君子交わるは淡き水の如し』ってね。じゃあ、また」

 よいしょ、よいしょと小山田はグズる河野をドアの外に押しやる。

 「会わないぞ、もう来ても部屋に入れないからな!」

 義人の怒号が農家住宅に響き渡り、バァン!というドアを閉める音が次に続いた。

 「お父さん……またや」

 一階で様子を覗っていた母親の心配そうな呟きに、父の義成は溜息をつく。

 「毎度のことやな。あ、どうも」

 階段から先ほどと別人のように意気消沈した河野と、超然とした小山田が降りてきたからだ。

 「やりましたよ、お父さん。侵入成功」

 「ほんまでっか!」

 小山田が出したいかがわしいVサインを、義成が思わず二度見して叫んだ。

 「まあ……結果的には、ですが」

 と河野はか細い声で、それを認めた。

 「信じられへん。なんまいだ」

 母親は仏頼みという日頃の習慣から、念仏まで唱えてしまっている。

 「なかなか順調なスタートですよ。信心の賜物ですよね、お母さん。

 じゃ、河野さん今日はこのへんで撤退ね」

 小山田がファイルを抱えて玄関の革靴を履き始めたのを認めると、義成が驚愕を隠せない様子で、

 「ちょ、お、小山田さん!詳しいこと聞かせとくんなはれ。夕飯でもご一緒に」

 と引きとめようとした。それを小山田は手で軽く制して、

 「戦は退き時が肝要です。また後日……功名立てますよー」

 とさほど嬉しそうでもない口調で靴を履き終えた。

 「ごめんなさい、この人カッコつけるの好きなんで」

 代わりに河野がペコペコ謝ると、義人の母親が「なまんだぶ、なまんだぶ」とお経を唱えるので、その場は変な空気になってしまった。

 

        二


 奴ら、土足で入ってきやがった。

 僕の部屋に、この聖域に。同じ空気を吸いやがった。

 メガネの小山田って男が気に食わない!何が「わかっちゃいねー」んだ。

 僕は、分かってる。何もかも、分かってる。

 ゴミみたいな社会に寄生して、国民の税金で飯食ってる奴はブタだ。

 そうさ、僕だってブタでクズだってことも分かってる。その辺の現状認識の甘いバカと一緒にするんじゃないぞ。

 でも、このむず痒い心の違和感は何だ?この澱んだ、誰も寄り付かなかった部屋にほのかに漂う女の移り香だ。

 ああ、女!河野とかいう正義と健全を振りかざす雌――ボランティアって高みから僕を見下ろし、軽侮し、そして今この瞬間僕の精神に君臨する傲慢さはどうだ。

 さぞ、あんたは得意だろうな……バカな役人の小山田を踊らせて、あんた被害者ヅラして悲劇のお姫さま気取りだもんな。不遜でデリカシーのない小役人とコンビ組まされた私ってなんて可哀相。それでも、めげないわ。私には信念があるんですもん。

 社会を変える。

ニートやフリーターに自主自立の気質を啓発し、勤労の素晴らしさ、社会の構成員としてその能力を如何なく発揮せしめ、ミクロ単位からマクロ規模への化学反応を実現させるのよ!

大友義人は、誰もが唾棄すべきニートいえ、競争社会から見棄てられた子羊。神の旗を振る、この河野だけはあなたを見棄てはしない。義人は私がかざす旗を仰ぎ見、自らの行いを悔い改め、立派に社会復帰を果たすでしょう。

 ならば義人はただの愚人ではない。この私、河野を崇拝し、第二第三の義人を導くための道標であらねばならない!

社会不適格者の烙印を押されし若人が目指すサクセスストーリーを体現した生きる証――彼の口からはボランティアから受けた恩恵の数々が神話のごとく語られ、人から人へと善のエナジーが波紋のように広がるはず。

なってやろうじゃないか河野さん、僕があんたの子羊に!あんたが僕の頭をなでなですることが、腐ったニートや低所得者たちへの単なるデモンストレーションとしてもだ。もう落ちるところのない場所まで落ちちまった僕なら、もう腰が引けたりはしない。……僕は、最低のニートになってやる。


        ※


「どうしたの。元気ないじゃない」

小山田が半袖シャツ姿で、マンガを読みながら義人に訊いた。部屋には義人と小山田しかいない。肩を落とした義人は、視線をノートパソコンからそらさずに鬱陶しそうな空気を醸し出している。

 「関係ないでしょ。小山田さんには……そんなことより仕事しなくていいんですか?マンガばっかり読んでて」

 「いいの、いいの。これがおれの仕事なんだから。あんたもちゃんと手を抜かずにニートやりなさいよ」

 むっ、と義人は言葉が詰まったが、ここで感情的になればヤツ(=小山田)のペースだ。冷静な仕草を装う。

 「僕が社会復帰しないと、小山田さんの仕事終わらないですよ。出世なんかもできないんじゃないかなぁ」

 精一杯のイヤミを言ってやったが、

 「おれ、左遷されてこの仕事やってんの。だからあんたがどう転ぼうとおれ自身の出世には影響ないよ。

 あんたが社会復帰したらそれはそれで、出世しないでそれなりの職場に配属されるし、ニートのままでもここでマンガとかアニメ観れるじゃん。だから腰すえていくよー」

 小山田はニコ、と笑顔でマンガ「涼宮ハルヒの憂鬱」の第2巻を読了し、それを本棚に戻すやうず高く積まれたマンガの山からおもむろに第3巻を抜き取った。バランスを失ったマンガの山が、バサバサと崩れ落ちる。

 あーあ、と無気力な小山田が適当にマンガを積みなおし始めた。

 「あの、今日は……」

 義人は細心の注意を払いながら、小山田にさぐりを入れてみる。

 「あ、気づいた?おれの半袖シャツ。今日からクールビズなんだよねー。ガチガチのネクタイしねーでいいから楽だわー」

 「ち、違いますよ!河野さんはどうしたんですか!」

 小山田は大人しい義人が珍しく大きな声を上げたので、ギョッとした。

 (やばい――気付かれた?)

 人間と接する経験のなさがコミュニケーションのぎこちなさに表れてしまう。義人は、自分が河野という女に尋常なく興味を抱いていることを小山田に露呈したのではないか、と背中に冷や汗が流れるのを感じた。

 「冗談じゃない、もー。河野さんはボランティアだから今日は別のニート君のとこに行ってるんじゃないかなあ」

 (よかった――馬鹿は所詮馬鹿だ)

 しかし……「別のニート君」とは何者だ?河野は、僕専属のボランティア・スタッフではないのか?僕は数多い河野が担当するニートのワン・オブ・ゼムに過ぎないのか?義人は再び思考が錯乱した。

 「こ、河野さんはもう……?」

 「え、いやまた来ると思うけど」

 「ほんとイライラするわー。小山田さんたちのローテーションとか知りたい、って意味で河野さんのこと聞いたんです!

 そのへんちゃんと説明してもらわないと」

 合理的な言い訳ができたので、義人は一気に失地回復とばかりに小山田との会話で優位に立った。小山田も思うつぼというか、

 「えー、えっと今週の予定は、河野、こうの……あっ県への回答書期限切れてる!」

 とおろおろし始めた。「あ、あさって河野さん来ますよ。オレは来れないけど」やっとスケジュールを見つけた小山田がほっとした様子で答えた。

 ――明後日、河野さんだけがこの部屋に来る。

 義人は体内から血の気が引き、愕然となった。

 「お、小山田さん来ないんですか?」

 「うん、病院行かなきゃいけないし」

 そうなんだ……と視線を落とした義人を察した小山田が、

 「そんな、さびしがることないじゃない」

 と肩をぽん、と叩く。本当に気がきかん男だ。

 「正直に、言いますけど」

 「え、あ、うん」

 「僕の部屋、女の人だけ来たことないんです……」

 「そうなんだ」

 「……そうなんだ、じゃないですよ」

 義人はどもりながら、自分が女性と接することが苦手であることをできるだけスマートに回りくどく小山田に説明した。

 「なんだ、いい練習になるじゃん。女の子とのコニュニケーションとか。河野さんあんたと同世代だし、いろいろお話しててよ」

 「それができんから苦しんどるんじゃろうが、アホ!」

 まったく義人の意を察してくれない小山田に、思わず罵声を放った。

 「え、ご、ごめん……」

 「小山田さんみたいなドキュンじゃないんですから、僕は。そりゃ自意識過剰だなんて百も承知なんだけど……」

 「ドキュ?何、それ」

 ネット用語発でDQNとも書くドキュンとは、ヤンキーいわゆる不良で女を道具のように利用し棄てる下品な男の蔑称である。「目撃ドキュン!」という番組でヤンキーを多く取材し、彼らが純粋であることをクローズアップした放送内容だったため、それに反発したネットオタクたちが「所詮下等種族が」と露骨に嫌悪しだした経緯から形成された言語らしい。

 「オレ、不良なんかしたことないよ!酒タバコもしないし……女にだってモテるわけないじゃんこの風体で」

 義人は改めて小山田を見直した。たしかにどこにでもいそうな風采の上がらぬ男と言えぬことはない。しかし、この男にはどこか要領の良そうな雰囲気があり、おしゃべりも下手であるとはいえず、大学卒であればそれなりのインテリでもあるだろうから、バカな女をたぶらかして寝るくらいのことはしているような気もする。

 「だって、河野さんとも楽しそうにしゃべってたし。小山田さんは女好きな気がします」

 ま、さ、かー。と小山田はマンガを脇に置きなおして、

 「河野さんには怒られてるの。あの子気が強いしきっちりしてんじゃん、だからオレみたいの好かれてるわけないし。

 それから、女の子ってオレ苦手なんだよなー。ほら、ガンダムとか三国志の話しても全く通じないじゃん。戦国大名誰が好き?とかね、好きな音楽でも浜崎あゆみとかさー、話通じないよ。別人種ですねあれは。うん。ニール・ヤングのアフター・ザ・ゴールドラッシュの良さを語り合えないじゃん。政治経済の話なんか興味ないし、それに――」

 とだらだら女の悪口を言い始めた。そ、それじゃあ、と義人が会話をさえぎって、

 「僕も別に恋愛とか……そういうのしなくてもいいんですね?」

 え?と小山田はきょとんとして、

 「急にどうして恋愛の話なんかすんの?」

 「いや、女が嫌いだって小山田さんが言うから」

 「あー、その流れね。いーんじゃない?あんたが女嫌いなら。オレなんかに聞かなくてもオッケーよ。イッツオーライ。

 だいたいさー生涯独身って人もいるじゃんよ。ライト兄弟とかニーチェとか、あ、シャーロック・ホームズも女嫌いだよ」

 「え、えへへ……」

 「な。わはは!」

 小山田がドン、と義人をつつくと二人で大笑いした。

 「あんた笑ったとこ初めてみたけどさー。いい顔だよね。これからも笑った方がいいよ」

 小山田が素っ気なく言った一言が、義人にはわずかだが嬉しかった。


         ※


 二日後、義人を訪ねたのは河野だった。

 「……」

 あれほど女を意識しないでおこうとしても、生身の女を目にしてしまえばどうしても赤面し、言葉がつまる義人だった。

 河野は白のストレッチの効いたパンツに、ピンクでフード付きのルコックのスエットを着ている。

 「今日は蒸し暑いね」

 「……はい」

 消え入りそうな声でようやく返事する。具合でも悪いの?と身を乗り出した河野の首筋からシャンプーとおぼしきピーチの香がし、義人はまた俯いてしまう。

 「ごめんね」

 「……はっ?」

 河野から唐突な謝罪を受け、義人は少なからず狼狽した。おれ、何かキモイ動作したかな……。

 「女一人だとリラックスできないよね。私だってそう。女子高短大って女ばっかできてるから。男の人と話するの苦手なんだ。

 小山田さんみたく誰でも人見知りしなければいいんだろうけど。たまに、私こういうボランティア向いてないのかなって思ったりするんだ」

 「そそそ、そんなことないっすよ。僕の都合でこうやって来てくださってるのに。僕はそりゃひきこもり歴長いから、女の人苦手なのは当たり前で」

 義人が慌てて河野をなぐさめると、

 「ありがとう。義人君優しいのね」

 と微笑んだ。義人の胸が息苦しくなる。

 「ど、どういたしまして」

 パソコンの画面であらゆるエロ画像を見尽くした義人だ。それでも生身の女の一言に見苦しいほど動揺する事実が信じられなかった。

 「私、中学時代に男の子からちょっといじめられてさ。それから今でも苦手引きずってるんだ」

 「は、はあ。そうですか」

 「臆病者でしょ、私」

 「そんなことないっすよ」

 と言いながら義人は自分の内側から「言ってしまえ」「今しかないぞ」という声が波のように押し寄せるのを感じていた。

 「私、大人しかったから。からかいやすかったんだと思う。ちょくちょく物を隠されたり、でそれで困る私を見て楽しんでたのかなって……」

 「あの!ぼ、僕も」

 言葉を中断された河野がびっくりして義人を見る。

 「いや、なんでも……ないです」

 「いいのよ、続けて」

 河野に促された義人は、口の中が乾いているのを自覚しながら言葉をつないでいった。

 「きっかけが、その……ひきこもっちゃったことのですが、僕も女の子に嫌われた……いやホントに嫌われたのかどうか疑問なんすけど、それなんですよ。

 中学でちょっといいカンジになった同級生の女の子がいて、ですね――なんかCDの貸し借りとか、まあ、してたんですよ。

 そんで、ああ……席替えがあって、遠くに離れちゃったんですねその子と。そうだ、いいカンジになったきっかけってのが、教室で隣りか前かで近かったんです……。

 で、席が離れてからってもうずっとその子のことが頭から離れなくなっちゃって。授業中とかおかまいなしにその子をじーっと見てたわけですよ。ね、キモイですよね?

 それからしばらくしてクラスの別の女子が「大友君、奈緒子のこと好きなんでしょ?」って」

 「奈緒子ってその女の子の名前?」

 「そそそ、そうなんです。それで頭真っ白になっちゃって。バレてるやん、これでオレおしまいやん、ってフラフラしちゃって。

 学校休みました。怖かったんですよ、クラス中が僕をバカにしてるみたいで。一週間、一ヶ月――もう忘れたかな、いや大友のヤツ女子に振られたくらいで何ヶ月も休みやがってって言われてるんやないか、不安で不安で……」

 「義人君、これ」

 河野に差し出されたペットボトルのお茶を勢いよく飲んだ義人は、このお茶は河野が持参したものだと知ってまた顔が赤くなった。

 「あ、はー、あり、がとうございます」

 「つらい思いをしてきたのね。それで、今まで?」

 「まあ。そんなところです」

 義人は他人に自らの汚点、とくにひきこもるに至った理由を話したことがなかったので、思いがけない爽快感を感じている自分が意外だった。また河野を見込んで自分が河野に救われるというストーリーを演じようと決めたからには――この告白は一つのターニング・ポイントになるであろうことも俯瞰した位置から自覚していた。

 「小山田さんに……このこと言った?」

 河野の問いに、義人は自分の答えを出すコンマ数秒後の展開を期待して、

 「いえ。こ、河野さんだから言えたんだと思います」

 とことさら河野と秘密を共有する形にもっていくように強調したつもりで答えた。河野は純情そうな目を輝かせて喜んだ。

 「私を信用してくれたんだ。ありがとう」

 「いえ、そんな・・・・・・」

 「これからも相談してね」

 「はあ」

 義人なりに、事態の展開には不満ではなかった。河野をすでに一人の女として明確に認識してしまっている今となれば、心理的に貸しをつくるのは悪くない。問題はここにいない小山田と今後どう接するかだが――。

 「義人君、気を悪くしないで聞いてくれる?」

 思考を中断して、戸惑い気味に問いかける河野の小さな顔を見やる。

 「構いませんけど……」

 小山田さんってさー、と幾分河野も気さくに話し始める。

 「あの通り、ちょっと変わってるってゆーか……まあ鈍感なとこもある人なんだけど、それなりに実績がある人なのね」

 「実績?」

 「そう。あの人の気持ち、考え方はよくわかんないんだけど、義人君みたいに長い間外に出られない若い子たちを、うまく外に出してあげる技術?そういうのある人なんだ小山田さんって」

 具体的には、という義人の問いに河野は、

 「その、引きこもりの子たちに外に出る自信をつけさせる、ってゆーのかな。小山田さんが、その子たちの外見からきっちり変えてくれるの。髪形とかファッション。そういうの」

 と提案に近い説明をした。

 「……意外ですね」

 「でしょ?あの人婚活の指導も片手間にやってるみたいだから。その仕事の流用だと思う。だから」

 河野は義人の汗ばんだ手を取って、

 「私には男の子のファッションとかそういうのわかんないし、外見だけでも小山田さんに変えてもらうのっていいと思わない?

 もちろん、気持ちまで許してってことじゃないの。心は私たちで通じてたらそれでいいし……でもチームのリーダーは小山田さんだし、私も少しはあの人と仕事のバランスを取りたいの――あ、ごめん。完全に私だけの都合だよね」

 とたどたどしくいった。

 (心は私たちで通じてたらいいし――か)

 義人はどぎまぎしながら思った。これは案外、小山田を出し抜けるチャンスかもしれない。河野は異性との接触経験は自分と同じゼロに近いと見た。ならば異性経験の豊富な――と見えなくもない小山田に自分の外見を変える機会を与えることによって、より河野と自分の内面での共感度が上がる可能性が高くなった気がしたからだ。

 ここで初めて、義人はありえない可能性を想像することができた。すなわち、

 (自分が外見が垢抜けて自信がつき、外の世界に出て行ければ、河野と付き合うことができるかもしれない)

 という輪郭のはっきりした希望である。

 「そ、そうですね。僕も見てくれがこんなじゃ、外に出る出ないの問題にもならないなって考えてたとこですから……その提案は、はい、河野さんだけの都合じゃなくて、ええ、いいアドバイスだと思い……ます」

 河野はその言葉を聞くや、ぱっと表情を明るくして、

 「ほ、ほんとに?ありがとう!これって、すごい前進だよ!すごい、すごい!私たちホントにがんばろうね!うん、すごいよー」

 と無邪気に義人の手を取ったまま喜んだ。

 (これは――やれそうな気がしてきたぞ)

 いろんな意味でだが、と義人はじっとりした手を気にしながら河野のぬくもりを味わっていた。


         三


 「そこの『センゴク権兵衛』の8巻取ってくれる?」

 「……」

 二日後。小山田が義人を訪ねて来たとき、河野の提案の引継ぎをしてくれているものと思っていたが、意に反して小山田は寝っ転がってマンガを読みふけっている。

 「わはは」

 屈託なくマンガを読んで笑っている小山田を見て、義人は当初の緊張が馬鹿らしくおもえてきて、むしろ腹が立ってきていた。

 「あの……」

 「うん」

 「今日は河野さんの提案の件、どうなってるのかなって」

 「わはは」

 「ちょっと!聞いてるんですか!」

 は、はいっ!と反射的に小山田が起き上がって正座した。あきらかにうろたえている表情に義人は自分が話題の主導権を握れたことにやや安堵する。

 「河野さんの……ちょっと待ってね」

 と言いながら小山田はファイリングされた引継票とおぼしき書類をあわてて目で追っている。

 「……あ~イメチェンの件ですね。それって今日じゃなきゃダメ?」

 「一応、今日のつもりで外出できるカッコをしてるんですけど」

 ポロシャツにチノパン。暑い時期に外出しても気にならない服装に義人は着替えて今日を迎えていた。

 「おお~そういえばちゃんとした服着てるもんね」

 小山田は改めて義人を眺めて「じゃ、これから行きますか」と腰を上げた。

 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ……」

 今度は義人の方が及び腰になって、

 「とはいっても!僕ずっと部屋にこもってることが多いから……心の準備ってやつが」

 と困った表情で訴える。

 「大丈夫!義人君がおれを部屋に入れたときに心の準備はできてたんだって。ずっと変わりたかったんだよ」

 小山田がポン、と義人の肩を叩く。

 「え?そうなんですか?」

 「そうだったんですよ」

 もしかして、と義人はまじまじと胡散臭い小山田のメガネ顔を見つめなおした。

 (こいつ、すごいやつ……なのか?)

 「でも、行く前にセンゴク権兵衛の8巻だけ読み終わってからでもいい?」

 (……のわけないか)

 今一瞬小山田ごときを買いかぶった、と義人は断定した。

 「で、何から始めれば……」

 ふてぶてしくわざと訊く義人に、

 「そうねえ。何から始めたらいいのかおれも悩むんだけど」

 と小山田はサッと義人のだらしなく垂らした前髪を分けて、現れた両目を見つけたと同時に微笑んだ。

 「やっぱし、このうっとうしい髪の毛切っちゃおうか」

 義人はあわてて前髪を元に戻しながら、

 「え、えっ?小山田さんが、ですか?」

 とうろたえた声を上げた。

 「まさか~。おしゃれな美容室に知り合いの店長がいるんで、その人に切ってもらうんだ」

 美容室!と短く叫んだ義人は、

 「ちょっと……ハードル高くないですかね……」

 と自信なさげに後ずさりする。

 「え?大人なら美容室で切ってるでしょ。義人君はどこで切ってもらってたの?」

 「自分で風呂場で切ってました」

 「おう……そ、それはすごい」

 でも、と小山田は気を取り直して、プロにカットしてもらうと立体的な髪型になるし、短くしても伸びたとき様になるので任せてみたほうがいいといった。

 そしてスマホでその美容室に連絡し、平日だったためすぐ予約が取られたのだった。

 二人が連れ立って階段を降りてゆくと、一階でテレビを観ていた義人の両親が仰天して、

 「義人!どっか出かけるんか!」

 と思わず立ち上がった。

 「うん……ちょっとそこまで」

 「そこまでって!外出てくるんか?」

 小山田は、平然としたものだ。

 「これから暑くなるんで、義人君を散髪に連れて行こうと思いまして」

 「小山田さん、ほんまだっか!そりゃええ。さんぱっちゃで按配してもらっとくなはれ」

 「了解です!じゃ、行こうか」

 義人は父親の狼狽と歓喜が入り混じった話し方が恥ずかしかったが、それはそうだよな、十四年ほとんど外に出てないんだから、と納得もした。

 玄関の引き戸を小山田が開けたとき、まぶしい日光が義人の眼前にひろがった。初夏の日光は紫外線こそ強くないものの、かすかな蒸し暑さとこれから本格的な夏が訪れる活発さを予感させる。

 庭の土のにおいは昨日の夕立で、より有機的な香りを鼻腔に伝え、そこを通り過ぎると小山田の車、マツダ・アクセラ23Sのメタリックレッドのボディがアスファルト上に義人の家側に寄せ駐車してある。

 路上!あれだけ忌み嫌った下界の路の上は義人のくたびれたスニーカー越しに確かに存在していた。

 だがそれは暗く湿った部屋で想像していたような凶暴な印象ではなく、多くの人々が暮

らす生活の基盤であり自動車をも受け入れる大らかささえ感じることができた。

 小山田の車の助手席に座り、ゆっくりと発進してゆくとたちまち街の風景がくるくると変化してゆく。

 「久しぶりのお外はどうでしょうか?」

 小山田が運転しつつ、義人に訊く。

 「……リアルって、やっぱりバカにできませんね」

 わはは、と小山田は少し笑って、

 「だよね。視覚聴覚臭覚とか、頭ン中のシュミュレーションとは情報量も違うし」

 としみじみいった。

 「ですね……」

 おれは、太陽が照らす路上に再び戻ってきた。それがなんとも誇らしい気がして、義人は小山田に気づかれないように少し笑った。


         ※


 「いらっしゃいませ~。あ、小山田君!お待ちしてましたよ~」

 清潔な美容室に到着し、小山田が扉を開けると中から小柄でやせ形の店長とおぼしい人物が愛想よく挨拶してきた。

 「店長、ご無沙汰してます。今日は僕じゃなくこの子をお願いしたいんです」

 「オッケーです。例の予約の件ですね。じゃ早速切っていきましょうか」

 店長は田中という金髪を短くした人物で、小山田より三歳上で小山田が大学時代から髪を切ってもらっているらしい。

 「よろしく、お願いします……」

 初めて座り心地の良い散髪椅子にもたれ、不安で義人の語尾が小さくなる。

 「さ~て、どうしましょうかね」

 店長が髪型の希望を訊いてきたので、

 「じゃ、じゃあ!毛先を揃えるくらい……」

 「バッサリ短くしてください!あとはお任せで」

 「わっかりました~。じゃあ周りは刈り上げてツーブロック、前は流す感じなんかどうでしょう」

 そのまま義人は仰向けに椅子を倒され、伸びきった髪の毛をシャンプーしてもらうことになった。

 はじめは小山田と店長にちょっと腹が立ったが、あまりのシャンプーの気持ちよさにもうどうでもよくなってきた。

 シャンプーが終わると店長は小山田と世間話をしつつ義人の頭髪のあちこちにピンを挟んでいった。ピンで持ち上げられた髪の毛の周りを電動バリカンで優しく刈り上げていく。

 鋤ハサミで量を調整し、長さを整える等おびただしい量の髪の毛が切り落とされていった。

 無精ひげも丁寧に剃ってもらい、眉毛の形も整える。最後にもう一度シャンプーして乾かしたあとワックスで髪型を整え、義人の美容室初体験は終わった。

 「こういう感じになりました~」

 「おお……」

 「悪くないじゃん」

 鏡に映る義人の新しい髪型そして義人自身は別人のようだった。

 清潔に短く整えられた髪に、無精ひげを剃って眉毛を整えた精悍な好青年がそこにいた。

 「今みたいにワックスやムース、スプレーで整えてもいいし、めんどくさかったらなにもつけなくてもサマになるように切っときましたよ~」

 「なんてゆうか……うまいこと切ってもらって、ありがとうございます」

 店長に義人もついお礼の言葉が出る。

 「これならおしゃれな帽子なんかも似合いそうだね」

 と小山田も嬉しそうだ。

 散髪代は小山田が経費で支払ってくれ、二人で美容室を出た。初夏の爽やかな風が短くなった髪に心地よい。

 「心機一転したところで、洋服も買いに行きますか!」

 小山田の提案に「……いいですね」と義人も賛成した。

 「そうそう。鉄は熱いうちに打て、ってね」

 再び車に乗り込んだ二人が向かった先はイオンモールである。小山田の歩く後に付いて行くと大型ショップのユニクロに入ってゆく。

 「ユニクロでイメチェンできるんですか?」

 「もちろん。最近のユニクロは品質、デザイン、コスパが最高だからね。あと無印良品でもう一セット揃えるよ」

 怪訝な顔をする義人に、

 「今着てる義人君の洋服ってさー」

 と小山田は生地の余ったところをつまみ、

 「サイズ感がよくないんだよね。だらしなく見えちゃうっていうね」

 と説明した。

 ユニクロで小山田が選んだテーパードの効いたワンウォッシュのジーンズを試着したとき、

 「なんかウエストがきついんですけど……」

 と義人が小山田に訴えると、

 「いいのいいの。ジーパンはウエストが履いてるうちに少し伸びるから。できるだけジャストサイズを選ぶのがコツ」

 そうなんですか、と店員と裾合わせしている義人にいった。そして何より、と小山田はいう。

 「これから義人君痩せていく計画だから。こういうファストファッションでまずは体裁を整えてね。体型がいい感じに引き締まったら、もう少しいい服を買いましょう」

 「え、僕痩せられるんですか?」

 狐につままれたような顔をする義人に、

 「だいたい外に目が向くようになったら間食とか食事とかに執着しなくなるんだよね。だからすぐきついな、と思えるジーンズも楽に履けるようになるよ」

 と小山田は笑った。たしかに、これまで義人は太ってもいいように大き目のサイズの洋服を選択しており、結局太ってはその大き目の洋服も小さくなり着れなくなるの悪循環であった。その悪循環を断つ、ということだ。

 無印良品でもジャストサイズのチノパンを買った。

 トップスはオーバーサイズに作られているライトグレーのポロシャツとネイビーのクルーネックTシャツを一枚ずつ。靴下、クリーム色のコンバースのスニーカーも買った。

 ポロシャツとジーンズにスニーカーをその場で着替えた義人は、

 「……なんだか、普通ですね」

 と拍子抜けした感想を漏らした。

 「それでいいの。定番のファッションとサイズ感と清潔感。ちょっと鏡見てみなさいよ」

 小山田に勧められてイオンモールの大きな鏡に映る自分の見てみると、

 「……こんなに変わるものなんですね」

 つい自分でも「ちゃんとしてる初めての自分」に義人は驚いた。

 二人でスターバックスに入り、休憩のアイスコーヒーを飲みながら小山田は、

 「人って変われるんですよ。まあ『人は見かけじゃない』なんていうけどね、おれには寝言に聞こえますね。

 だいたい身だしなみもちゃんとできない人を信用できますか?それから生活習慣は体型に現れるし……いやまあ義人君はこれから改善するので除外ですよ、それから顔だって損得しか考えてない奴とか性格の悪さなんて表情に出てきますよね」

 とバッサリ言い切った。チラ、と義人が小山田の顔を見てみると、ハンサムではないかもしれないがこざっぱりしている。だぶだぶのシャツやズボンを履いていない。態度に自信があるように見える。

 それに自分だって、と己を鑑みると太ってはいるものの、髪を整え洋服を清潔感あるものに変えただけで、スターバックスなど一人では到底敷居が高かった飲食店に、小山田に連れられてではあるが、入店し飲み物をオーダーし、歓談(?)さえしているのである。

 「物事が変わるのは一瞬ですよ」

 感慨にふけっていた義人の心を見透かすように、小山田が笑った。


       ※


 「すごーい!義人君別人みたいじゃん」

 二日後一人で義人の家を訪れた河野は、文字通り目を丸くして義人の変身を絶賛してくれた。

 「そ、そんな……小山田さんの言われる通りに身なりを変えていっただけですよ。まだ太ったままだし」

 義人は、照れながらも満更ではなかった。河野はしなやかな肢体に沿うようなピンクのルコックのジャージを身に着けており、チラチラ観察しながら義人は彼女の反応をうかがっていた。

 「えー?ダイエットもする予定なんだ!すごいよ、すごい進歩だよ!

 私もいろんなひきこもりの人のお世話させてもらってきたけど、義人君くらい変わった人って初めてかも」

 (初めて、か……)

 義人は官能的な意味に河野の言葉の語尾を変換させると、改めて自尊心を満足させた。

 「でも……」

 と河野は伏し目がちに視線を落としつつ、

 「小山田さんって、やっぱすごいよね。たった一日で義人君を変えちゃうんだもん。

 私だといつまでたっても部屋にこもってた義人君の前でおろおろしちゃって、全然役に立ってないところだったもん」

 と自嘲的につぶやいた。

 「そ、そそそんなことないですよ!」

 あわてて義人は河野をかばう。

 「き、きっかけは河野さんが小山田さんの助けを借りて身なりから変えてみれば、ってゆうアドバイスをくれたからこうできたわけですし……小山田さんだけなら、あの人マンガ読んでダラダラしてるだけだったし。

 河野さんの発案がなかったら、小山田さんも僕も動かなかったわけなので……。

 河野さんのおかげっていうのは大きいと、思います、はい」

 「なぐさめてくれるんだ。優しいね、義人君は」

 河野は少し元気を取り戻したように、微笑んだ。

 (物事が変わるのは一瞬ですよ)

 なぜかそのとき、義人の脳裏に小山田の言葉が蘇った。

 河野に対して精神的優位を得ることができた現在においては、この女から好意を得ることもたやすい。義人はそう考えた。まさに物事が変わるのは一瞬だ。

 「小山田さんが義人君をいい感じに変えてくれたし、外にも連れ出してくれたし、私にできることなんてないかもね」

 河野はそれでも弱気なことをいっている。

 「そ、そんなことはないですよ!外に出られたのだってたったの一回ですし、これからできたら普通に外出できるように河野さんにはアドバイスしてもらいたいですし……ダイエットだって、河野さんみたいにスマートになりたいですから」

 義人は、そういって河野を慰めた。

 「そう……かなあ?私ってそんなにスマートじゃないよ」

 「そんな、そんな。僕みたいなみっともない身体ではないです。動くときも軽そうで羨ましいな、と思ってずっと見てました」

 そういって義人は照れてうつむいた。もちろん河野に自信をつけさせる演出であることは言うまでもない。

 「ありがとう。義人君に気を遣わせちゃうのって、反対だよね。でも嬉しいな」

 河野は俯いていた顔を上げて笑顔を見せた。

 「今日は、近くのコンビニにでもお茶とか買いに行かない?ちょっとでも外に出る練習を兼ねて」

 「い、いいですね。僕もこの間小山田さんに連れてってもらってから結局外に出てなかったですから……練習に、はい、なります」

 (これって、デートになるんじゃないか?)

 生まれてから一度も異性と外出、しかも一対一で歩いたことのない義人の心臓はにわかに鼓動が早くなった。

 「義人君すごい頑張り屋さんだよね!一度外に出れたからって習慣化するのは難しいんだ。

 ちょっと外に出る機会を少しずつ増やしていってこれまでの日常を変えられたらいいよね」

 二人で二階の義人の部屋を出て、階段を降りてゆくと一階の義人の両親が農作業から戻って休憩しているところだった。

 「おお!義人、今日も外に出かけるんか?おとうちゃん、義人また部屋から出てきてくれたでー」

 義人の母が驚いて、彼女の夫すなわち居間でお茶を飲みながらTVを観ていた義人の父を呼ぶ。「何やて!」とびっくりしたような声を出して義人の父は小走りに玄関まで出てきた。

 「これはえらいこっちゃ!すごいやんか、部屋からやっと出てくるようになった思たらこないだの小山田さんから間置かんと、また外出れるて!

 河野さん、息子をよろしゅうおたのもうします!」

 「ちょっとコンビニにお茶買いに行くだけや。おおげさに騒がんといてや」

 (みっともない……)

 義人は河野の前で両親がテンションを上げまくっているのが恥ずかしかったが、考えてみれば何年もひきこもっていた自分を矯正すべく河野や小山田に依頼したのは両親であり、これまでの試みがことごとく徒労に終わっていたことを鑑みれば仕方がなく、感謝こそすれ邪険に扱うべきではないと思った。

 「お父さん、お母さん、義人さんすごく頑張っておられるんですよー。微力ながらお手伝いさせてもらいます」

 河野の明るい返答に、義人の両親はまた感無量らしく「なまんだぶ、なまんだぶ……」と念仏を唱え始める。

 「なんか、いつもすみません……」

 義人が恥ずかしそうに河野にいうと、

 「ううん、そんなことないよ!ご家族みんなで長い時間悩んできたんだもん。嬉しくてあたりまえだよ」

 と河野も喜んでいる。

 (河野さんいい人だな)

 義人は素直にそう思った。小山田には身なりを変えてもらったり、部屋から出してもらったりと実質的な脱ひきこもりの助力をうけているものの、その欲望のありかが定かではなく、その点河野は義人をより良く変えていくことに喜びを感じているような気がして、また清楚な美人であるところも大いなる加点となり思慕はいっそう強くなっている。

 「うーん……外はやっぱり気持ちいいね」

 二人で街路を歩きながら、しなやかに伸びをする河野は、義人にとって紫外線以上にまぶしかった。

 「な、何かあたりまえみたいに外に出てるのが不思議です」

 「そうだよ!でも、あたりまえのことでもずーっとできなかったことに義人君は挑戦してるんだもんね。尊敬―」

 (ち、近い……)

 隣で義人をのぞきこむように顔を近づける河野に、またどぎまぎさせられる。

 そして、初夏の路上!前に小山田と外出したときは主に車移動であったので、自分の足で道を歩いていることに義人は少なからず感動した。

 隣には若い女の子がいて、たかがコンビニかもしれないが並んで歩く。

 薄暗い部屋でどれだけ好きなゲームやアニメを堪能しても感じ取れない五感。雨上がりの路上から立ち上る独特の道のにおい。五月の薫る風。そしてその風に乗って河野の髪からほのかに流れてくるシャンプーと制汗剤の柑橘系で甘く爽やかな香り。

 (これがリア充……)

 義人が嫌悪し、縁のないものと断じきっていた現実は圧倒的情報量だ。

 河野と並んで歩いていると、たまに河野の手のひらが義人の手のひらに当たることがあるが、その小ささ柔らかさはバーチャルでは感じることができない感覚である。

 「義人君、何買ったの?」

 「は、はい!フルーツオレを買いました」

 フルーツオレ美味しいよねー、と河野はスポーツドリンクを差し出して、

 「ちょっと交換しよ?」

 といってきた。

 (か、か、か、間接キスやんけ!)

 義人は軽いパニック状態に陥った。しかし、だ。この好機を逃せばラッキーはこの先いつ訪れるかわからない。

 「ど、どうぞ……」

 「ありがとー」

 河野のスポーツドリンクは飲みなれたアクエリアスのはずだが、彼女の口に触れたペットボトルからはまさに甘露のごとき甘さが流れ込んだ。

 「フルーツオレ、お風呂の後に飲んだらもっと美味しいのにね」

 河野の風呂上がりの姿までも脳裏に再現した義人は五感の処理速度が追い付かず、

 (リ、リアルすげー!)

 と脳に翻弄される他なかった。

 河野は愛媛県出身で、大阪の短大を卒業し、奈良県のNPO法人で働いているらしい。実家の近所には道後温泉があって、「あ、夏目漱石の」と義人が口を挟むと「良く知ってるねー」と喜んだ。

 「ずっと一人暮らしなんだけどね。寂しくなる時もあるよ。義人君のご家族とかたまに羨ましく思うもん」

 「うちの両親なんて、めんどくさいだけで……それより一人暮らしでしたら、お友だちも呼べるし自由でいいんじゃないですか?」

 「私、友だちほとんどいなくて。誰も奈良のアパートに呼んだことないんだ」

 そういって、河野は困惑したような表情を見せた。一方の義人は心中でガッツポーズの連打である。

 (僕が最初のお客さんになっていいですか?)

 「いやいやいや、いえるかいそんなもん!」

 「どうかした?」

 「……いや、なんでもないです……」

 そんなこんなで二人してコンビニまで歩き、自宅に帰ってきたら一時間は経過していた。楽しい時間はあっという間に過ぎる。

 「さて、今日はまた一歩前進できたし、私はこのくらいにして帰ることにするね」

 河野はハンカチで汗を拭きながらいった。

 「ありがとうございます。でも、最近小山田さん見ないですね。交代で来て下さるようになったんですか?」

 すると河野は意外そうな表情で、

 「あれ?小山田さんの怪我と病気のこと言ってなかったのかな」

 と義人に思いがけないことをいった。

 「怪我……病気……いや、聞いてないです」

 そっかあ言ってなかったのかあ、と河野は考え込むような仕草をした。

 「小山田さんね、五年くらい前に交通事故に遭ってるんだ。通勤災害っていうの?車で停まってるとこをすごいスピードでぶつかられちゃって。そこからすぐ頸椎ヘルニアになって、パニック障害……だったかな?併発しちゃって。何年もお仕事出たり休んだりしてるんだよ」

 そういえば小山田の後頭部下の首にはいつも肌色の湿布が貼られていたことを、義人は思い出した。

 「あの人、自分のことはほとんど話さないんで、河野さんに教えてもらうまで知りませんでした」

 「小山田さんらしいっちゃらしいんだけどね。もうそろそろお仕事でお休みできる期間?私もお役所のことはよくわかんないんだけど、それが切れちゃうから、お仕事辞めるっていってたよ」

 小山田がいなくなる。河野と二人きりになりたいのでいなくなってほしいと思ったことはあったが、本当にいなくなるとは……義人は少なからぬ不安と衝撃を受けた。

 河野に劣情を抱いていられるのも、実は小山田が日々のサポートプログラムで存在しているからこその安心感から出た余裕であった。

 「そ、それは急なことなんですか?小山田さんがお仕事辞めるっていうのは」

 「まだ一ヶ月くらいはあるんじゃないかな。

六月に辞めるってちょっと聞いたけど」

 「そうなんですね……」

 ときに適当で場当たり的な態度で傲慢そうに見えたりする小山田にも抱えているものがある。河野が帰った後も義人は小山田の心中を推し量っていた。

 いっそこの部屋で自殺したいと長い間思い悩んでいた自分は、外に出て生活する人たちはみな充実し楽しんでいると想像し、根拠のない嫉妬と軽蔑を向けていた。

 しかしあの若く健康的な河野でさえ学生時代はいじめめいた迫害を受けており、それを今の職業に就くための原動力に変換していた。

 現在進行形の肉体的精神的苦痛を受けながらも何食わぬ顔で外に連れ出してくれ、身なりを変身させ、自信をもたせてくれた小山田のことをしばし義人は黙考していた。



 「なんか、元気なさそうだけど、どうした?道に落ちてたものでも食った?」

 数日後、部屋に訪ねてきた小山田に何と訊いていいかわからず、義人は曖昧な態度を取り続けていた。

 「今日はしんどいみたいなら……」

 「い、いえっ!帰らないでください」

 「え?うん。マンガ読もうかなって思っただけだけど」

 相変わらずの小山田に、義人は大きなため息をついた。

 「小山田さんこそ、調子は大丈夫なんですか?」

 「調子?いいときなんかないよ。常に曇天。ときどき豪雨災害」

 え、と思わず義人が顔を上げるといつもの口調で小山田は答えた。

 「河野さんから聞いたんだって?おれの怪我のこと」

 「ええはい……ご、ご迷惑だったでしょうか私生活とか昔のこと探られるのって」

 小山田はかぶりをふって、

 「とーんでもない。芸能人じゃあるまいし、隠すことなんかないもんね。

 おれの過去のことで義人君の役に立つことがあるんなら、何でも聞いてよ」

 とからっと笑った。

 「あの……自動車事故で怪我と病気になったってゆうのは……」

 「本当。役場に通勤してるときにね、信号で停まってたら、ケータイいじってる女の子がノーブレーキでぶつかってきちゃって」

 「……」

 「衝撃がすごかったよね。やっぱりぶつかった方もぶつかられた方も車は廃車になっちゃったし。

 で、翌日から吐き気が止まんないの。常に船酔い状態ってゆうの?それから頸椎、つまり首の神経がやられてるってことがわかってさ。首が痛くて眠れなくなっちゃって。今でも右手の人差し指と親指は感覚がないんだよ。ずっと正座して足がしびれることってあるよね?あんな状態になってんの」

 「あの、パニック障害、とかにも?」

 「そう、いまもたくさんお薬飲んでるよ。心療内科と医大のペインセンターに行ってるんだけど、鬱と痛みの神経ってすごく近くにあるんだって。

 職場や私生活で何の不満もなかったのに、いきなりある日会議室のドアが開けられなくなっちゃって、怖くて。

 あとパソコンのキーボードの並びが怖くなったりいろいろあったなあ」

 淡々と語る小山田の様子は病人のそれとは見えない。首に貼られた肌色の大きな湿布がその痕跡を示しているだけのようだ。

 「そんな目に遭ってらっしゃったんですね。

 普段そんな素振りが見えなかったんで、元気な人だと思ってました」

 義人の感想に、「まあ、そう思うよね」と小山田は苦笑し、

 「河野さんが一人で義人君の家に来てたときは、家で寝込んでるんだ。今でも一週間に二、三日は仕事休んでるから」

 といった。

 「お仕事ももう辞めちゃうって……」

 「そう。もう病気で休める期間が終わっちゃうから。サラリーマンは役に立たないとクビだから」

 と麻痺が残るという右手で首を切る仕草をした。

 「ひどいですね……」

 「うーん、交通事故被害者にとってはひどいと思うかもしれないけど、会社としては働かない人にお給料あげられないもんね」

 社会に出たことがない義人にとっては、そのあたりのルールがわからない。

 「世の中って理不尽なことが多いですね」

 「そうだね。外の世界は怖いよー」

 小山田は自分だけではなく、病気等で苦しんでいる人が不審死を含めて年間約十万人自殺していることや、地震や自然災害で犠牲になった人、交通事故死する人なんかも万をもって数えるくらいいる、といった。

 「なんだか、外に出るのが怖くなってきました……」

 「誰だってみんな不安だっていうじゃん。そういうことを含めていってるんだと思うよ。

 でもさ、外には楽しいこともいっぱいあるし」

 小山田の言葉に、義人は河野のことを思い出した。あのかわいらしい笑顔、しなやかな身体が自分のものになるのなら……。

 「お、いいことあったの?表情が緩んでるよ」

 「はいっ?そ、それほどのことはないんですけど!小山田さんはずっと外の世界で生きてこられてよかったことはありましたか?」

 うーん、そうだなあ、と小山田は思い出すように考えて、

 「そりゃ、いいこともあったよ。数え切れないほど。受験で合格したり、友だちと遊んだり。それと同じくらい気に食わないことなんかもあるわけだけど、思い出っていつも自分の味方だからさ。いいことだけ思い出しちゃうよね」

 と笑った。でもね、と小山田はほろにがい口調で、

 「おれって、子どもの頃からそこそこ自分の努力で何事も切り開いてきたって自負があったわけ。

 勉強でも、遊びでも、仕事でも、出来ない奴って結局努力が足りない怠け者だと思ってたんだけど」

 といった。明るい話の熱量が下がり、義人も少し身構えて小山田の方を見た。

 「でも、いざ自分が突然の事故で、いっちゃあ自分には何の責任もない事故でだよ、何もかも思い通りにできなくなってからね、『おれって傲慢だったんだな』とは反省したよ」

 「反省……」

 「そう。おれはむかしから自分の行先は自分で決めて旗を振って、その矢印の方向に迷わず進んでいけたんだ。

 それができない人は、言い方は悪いけど、無能だと感じてたし。

 でもそうじゃなかったんだよ。旗を振ることも、もっといえば旗を持たされない人だって多いって、事故で自分が機能不全になって気が付いた。

 何ヶ月か寝たきりになって、息をしてるだけの身体になったときにそんなこと考えてたけどね」

 「やっぱり、お仕事に復帰してから周りの反応も変わったんですか?」

 義人が遠慮しつつ訊くと、小山田は手のひらを出してくるっと裏返した。

 「手のひら返し。意味わかるかな?これまで優しくてちやほやしてた人たちがこぞって冷たくなって、攻撃してきたんだ」

 人は悲しくも他人の不幸を喜ぶ。怪我と病気で以前のように仕事に来れなくなった小山田を、人事や同僚たちはネチネチと非難した。

 人事は出たり休んだりは迷惑だとして、強制的に何ヶ月も出勤停止にしたり、同僚たちは怠け者だと陰口を楽しんでは、日々のストレス解消に手負いの小山田をネタにした。

 また、時々思い出したように小山田を狭い相談室に呼び出し、「完全に怪我と病気が治るまで仕事に出てくるな」と怒声罵声を浴びせた。悔し涙を流しながら、その場から帰宅させられたこともあった。

 昇進試験を受けさせられて、落とされる。そのようなパワハラは日常茶飯事となり、頸椎ヘルニアとパニック障害はこういったパワハラによってさらに重症化することになる。

 「こんなの、生き地獄じゃないですか」

 義人は知らず知らずのうちに手が震えているのを感じた。

 「ほんとにね。『完全に治ってから仕事に出てこい!』なんて因縁つけてるようなもんだよね。

 休職する期間もなくなったことだし、人事はおれを辞めさせにかかってるから、まあお望み通り『辞めます』という流れになったってことなんだけどさ」

 「そんな結果になって……悔しくないんですか?」

 「そうだなあ。悔しいとかむかしに戻りたいっていうような負の感情は五年間で味わいつくしたというか……そこを超えて今に至ってるって感じかな。

 たしかに大学出て一年専門学校に通ってやっとこさ試験に合格した役場だけどさ、こうなってみると、縁がなかったのかなって」

 「縁、ですか」

 「そう。ま、自分で横領とかさ、飲酒運転とかでクビになるなら自業自得だけどね、こういう不運から流れが止まんなくなって辞めるってことになったってのは……何か目に見えない大きなものが、こっち行け、って強く矢印の向きを変えたような気がして。

 おれ、そんな信心深い方じゃないんだけど、そういうふうに思っちゃうよね」

 小山田は、かつて自分が旗を振ってその矢印の方向に自らを鼓舞し進んできたといっていた。

 それが今では激流に抗った結果、風の吹く方向に、光が差す方向に自分の行先を任せるようになった。それは人にとって成長なのか、諦観なのか、義人にはわからない。

 「そういうのって、なんか、僕には経験がないので圧倒的だったっていうか……何しろ十何年も部屋に閉じこもってましたんで、小山田さんの経験っていうのは大変だなあ、って感じるのと同時に羨ましいとも感じてしまって。

 僕のひきこもり期間には平穏無事というか、痛い目にあってはいないんですけど、それと引き換えに大きな感動も挫折もなくて。

 それって人間が若いうちに経験すべきことをすっとばして歳だけ取ってるってゆうか。なんてゆうんでしょう、自分こそみっともないな、って聞いといてなんなんですけど思っちゃいました」

 小山田はちょっと驚いた表情を目にたたえたが、すぐ普段の口調に戻って、

 「そっか。そう感じるのも、勇気出して外に出て外見とか変えてみた義人君だからこそ言える言葉じゃないのかな。

 人ってさ、悲しいかな失敗からしか学べないから。おれのそういう話を聞いて「羨ましい」って思えるのは間違いなく義人君の成長だと感じたし」

 といって、でもさ、と間を空けて考えてから、

 「自分と他人を比べちゃいけないよ。これだけは約束して」

 と笑った。

 「それって」

 義人は痛いところを突かれた思いで、

 「いつも僕がやってることなんですけど」

 といった。

 「そうだよね。誰でも人と比較しちゃうよね。あいつはハンサムだの美人だの、お金持ちだの頭がいいのって。

 だけどね、残念ながら誰も自分以外の何物にもなれないから。おれは義人君の髪型や洋服を変えたけど、あれは義人君のいいところを引き出してブラッシュアップしただけであって、他人を意識はしてないんだ。

 あくまで義人君が自信をつけて何か自分の強みを生かせるようにする基礎作りだから。

 他人のいいな、って思うところを部分的にマネしようとするのはいいんだ。「まなぶはまねぶ」これ、おれの好きな言葉だし。

 でも、他人のコピーは誰もできないし、仮にできたとしてもいいことひとつもないよ。だって」

 他人もどこかしら絶対悩んだり苦しんでるから、と小山田は話を落とした。

 「そうですよね。やっぱり近道なんてないんですよね、自分の殻を破ることには」

 「まあ、おれは宇宙の真理とかは知らないし、どこかの誰かが手をかざしてくれるだけで生まれ変われるなんて奇跡があるのかもしれないけど……自分の経験だけを信じるなら、やっぱり何度も転んで痛い目に遭って、それで『そういうことだったんだ』ってわかるしかないのかな、って思うよ。

 回り道に見えてそれが一番の近道だった、っていうお決まりの結論になるんだけど。

 おれが怪我と病気でいろいろ今に至っていなければ、義人君を部屋の外には連れ出せなかったと思うしね。義人君が変わるきっかけも、十何年部屋に閉じこもって悩み続けたからおれや河野さんとの出会いでブレイクしたんだろうし。

 神様ってね、まあ仏様でもいいんだけど、そういう意地悪なとこがあるの。

 すべては必然だよ、としかいえないよね」

 困ったように小山田は肩をすくめてみせた。

 二人の間に静寂がつと流れ込んだが、義人にとってそれは不快なものでななかった。

 それからやや間を置いて、

 「僕なりに、自分の未来を考えたりすることもあるんですよ」

 義人は少し背筋を伸ばしたような姿勢に改めて恥ずかしそうにいった。聞かせて、と小山田が応じる。

 「中学も……一応は卒業したことになってるんですけど出てなくて社会経験もない自分ですから、今さらサラリーマンとかはしんどいかな、って思うんです。

 で、僕一人っ子ですから父親が持ってる田畑を耕して専業農家として継げたらいいなって思ってまして。

 もっと外に出られるようになって、農業のこと勉強して、できるかわかんないんですけど農協の若い人たちとの意見交換とかして少しでもいい形でうちの田畑を続けていけたらな……なんて」

 「それ、いいんじゃないかな!」

 上目遣いで小山田を見守っていた義人は予想外の好反応に驚いた。

 「いや、現実的でいいと思うよ!もともとたくさん農耕地をおうちがもってらっしゃるんで、義人君がもっと外に出られるようになればマイペースでお父さんのアドバイスも受けながらできる家業なんだし。

 うん、それありだと思うなー」

 小山田は腕組みして納得したようにうなずきを繰り返している。

 「でも、せっかくここまで前向きになれたってゆうのに、小山田さんが来月でいなくなっちゃうんで……そこが不安というか」

 「大丈夫、大丈夫。そこは河野さんもいるし、新しい担当も来ることになってるからね。

 引き続き少しずつ社会復帰できるように計画はおれもたててあるから」

 河野が継続して義人をサポートしてくれるのは嬉しいが、新しい担当はどんな人なんだろう。部署は違えど機能不全になった小山田を批判したような同僚であれば、信用できないような気もする。

 「あの、新しい担当の方って……」

 「ああ、そこは心配しないで。優しい男性です。おれより二つほど若いけど、人を見て判断するような野暮なやつじゃないし」

 すなわち小山田を弾劾するような人間ではない、ということだ。

 そういえば、と義人は思い出したように、

 「小山田さんって、何歳でしたっけ?」

 と訊いた。

 「三十八歳」

 「え、そんなにいってたんですね」

 「わはは、お世辞でもまだまだお若いですねっていいなよ。いや、年齢のわりに若く見えるってことなのかな?」

 といって小山田は小さく笑った。つまり新担当の男性職員(山縣という名だそうだ)は三十六歳ということになる。

 「山縣君はおれみたいにマンガとかアニメ好きだし、友だちでもあるから後任を本人に打診したら『いいですね』っていってくれたよ。

義人君が拗ねても部屋でマンガやアニメのDVD観たり、ゲームしてたらいいホワイトな環境だって伝えたら『引き受けます』って即答してくれたんだよね」

 「ひどい……人を何だと思ってるんですか」

 とはいえ、良さそうな人が担当してくれそうなので、義人は心中で安堵した。

 「そういうことで、もう残り一ヶ月しかないけどさ、何かおれにしか力になれることはない?」

 小山田が訊く。改めてそういわれても義人は困惑してしまう。

 「今日知ったことですし、なんでしょうね、小山田さんに力になってもらうこと……」

 「もう辞める人間だから、多少の無茶でも聞けるよ」

 多少の無茶、と聞いて義人は河野のことを再び思い出した。

 「恋したいとか」

 「なっ!こ、こ、こ、恋ですか?」

 図星である。急転直下心中を射当てられたことに動揺を隠せない。

 「河野さんに告るとか」

 「はいっ?な、な、な、なんで僕が河野さんに……」

 意外に真剣な表情でいった小山田が義人を見守っているので、なぜか義人は恥ずかしさがおさまってきた。

 「……知ってたんですね」

 「まあね。義人君わかりやすいから」

 小山田はここで初めてリラックスした態度にもどって笑った。

 「河野さんとはかれこれつきあいも長いし、お役に立てると思うけどね」

 「……お願いしてもいいですか」

 もちろん、と小山田は請け合って、

 「でも恋愛はコミュニケーションでも上位にランクインする難易度だから。

 チャレンジの部類に入るけど、それでも義人君頑張れますか?」

 といった。

 「こんな相談できるのは小山田さんだけだと思いますし、ここで小山田さんが辞めるはなんかタイミングを感じました。

 勝負かけてみます」

 恋愛経験のない義人が一人で河野に好意を打ち明け、それを受け入れてもらえる可能性は限りなく小さい。

 二人でリハビリだと義人の両親に告げて、近所のコメダ珈琲まで車を走らせた。

 小山田は頭脳労働で疲れたといい、シロップたっぷりのアイスコーヒーにミニ白ノアールを注文。義人はダイエットのため、無糖のアイスコーヒーを注文した。

 「敵を知るには己を知る、という言葉があってだね」

 ミニ白ノアールを早くも食べきった小山田がおもむろに切り出した。

 「そ、孫子ですか?」

 「それ。義人君の立場はいわばハンディを背負っているわけだけれども、それを逆手に取る」

 「そ、そんなことができるんですか!」

 できる、と小山田は断言した。

 「今、義人君は脱ひきこもり中で、リハビリ途上だといえるんだけれども、さっき聞いた話でおれは勝機を見出したね」

 「さっき聞いた……あ、できればそのうち農業を継ぎたいっていうあれですか?」

 そう、それ!と小山田はストローでコーヒーを吸い込んで、

 「結論から言ってしまえば、義人君を『長いひきこもりから脱する努力をしつつ、将来の堅実な計画を実現させるべく苦闘している健気な青年』という路線で推していくことになる」

 と一気にいった。

 義人は驚愕した。普段から「義人君すごいよ」「尊敬する」などと河野がいっていた言葉で自分が「いけるかもしれない」と漠然と思案していたことを、小山田が的確な言葉でコンパクトに表現しきっていたからだ。

 「はい……それ、なんかいけそうな気がします」

 でしょ~、と小山田は得意顔で胸を張った。

 「河野さんはね、ああ見えて庇護欲、いや失礼、母性本能が強い女だからね。

 それに加えて『河野さんに隣にいてもらって、僕に力を貸してくれたら嬉しいです』なんて彼女の自尊心をくすぐる台詞でダメ押しですよ」

 「でも、そんなにうまくいきますかね」

 「だから、おれが辞めるギリギリまで義人君と作戦は練る。

 それとダイエットも順調そうだし、外見のブラッシュアップも同時進行でやってこう。

 なんだかんだいっても人は見た目も大事だからね」

 すらすら河野攻略作戦を開披する小山田に、義人は目を丸くした。

 「す、すごい……小山田さんって恋愛方面でもモテたりする方じゃないですか?」

 「いや全然」

 真顔で即答である。

 「失敗からしか人は学べないっていったよね。恋愛は惨敗から学ぶものなのである」

 「なんか不安になってきましたけど……でも説得力ある作戦だとはホントに思いました!」

 「まあ、思いつきで作戦を立てたのは事実なんでね。でも何事も熟考するよりパッと第一印象で立てたプランの方が有機的なんだよ。

 勢いやドライブ感は大事。はい、ここ試験に出ますよ」

 夜に悶々と悩んだ末に時間をかけて書いたラブレターは良くない、と義人も聴いたことがある。小山田のように午前中に臨機応変に富んだ策を生み出すのはある種才能であり、伊達に交通事故前は職場でエースと呼ばれていたわけではない。

 そこでだよ、と小山田はやや前傾姿勢になって声をひそめる。

 「戦の勝敗は兵家の常。河野さんへの告白を断られることも考えられるよね」

 「まあ……そこは否めないと思います」

 「そこのフォローもバッチリしますよ」

 「はいっ?ホントですか!」

 小山田は、さも当然という表情で、

 「今どき告白はリスクが高いからね。リアルに付き合うカップルってのはLINEやデートで親密度を上げてお互いを知ってから付き合おうとなるわけだから」

 と負けを見越したようにいった。

 「そういわれると複雑なんですけどね」

 そこでだ、と小山田はわずかに周りを見回してから、

 「交際を断られたときは、

『気持ちを伝えられただけで悔いはありません。河野さんのお気持ちを考えずに失礼しました。

 虫のいい話で恐縮なんですが、これからも僕の担当でいてくださいませんか?

 それで、これも虫のいい話なんですが友だちとして接して下されば……』

 みたいな感じで締めくくるわけですよ」

 とやや早口で説明した。

 「友だちとして、ですか……」

 チッチッチッ、と指を左右に振った小山田は不満そうな義人に、

 「いいですか、これは一時的な撤退であって戦略的撤退なんだよ。

 河野さんに義人君の真摯さ誠実さを開披して、彼女の心の中に『義人君の思い』という橋頭保を築くことが目的だから。

 多くのカップルは友だちから恋人になるパターンも多いです。ここは『河野さんに義人君を友だちとしてキープさせる』わけです。

 自尊心の強い河野さんは義人君を見る目が変わりますよ」

 と悪そうな顔をしていった。

「つまり、短期決戦で決まらないときは、長期決戦に方向転換するということですか?」

 「その通り。でもそのときは、いつまでも河野さんに拘泥する必要はないよ。そのテクニックを駆使すれば他の女性にもアプローチ転用は可能だから。

 何人か同時に連絡取りながら、義人君が選ぶ立場になれるしね」

 義人はびっくりして、

 「そ、そ、そ、そんなの浮気じゃないですか!それ人としてどうなんですかね……」

 と小山田に詰め寄った。

 浮気?と小山田は鼻で笑った。

 「結婚してたり、彼女がいる人が他の女の子に手を出すのを『浮気』という。

 つきあってさえいないのに、複数アプローチできなければ、一人の情勢を見極めるのに何年かかると思ってんの」

 「それはそうですけど……」

 「しかも、その多方面アプローチのいいとこは、『多人数と連絡を取ってるので、余裕が生まれる』ところなんだ」

 「余裕、ですか」

 「そう。Aさんから連絡が遅れているとして、Bさん、Cさん、Dさんがいるから焦らない。

 余裕のある人が基本的にモテるからね。Aさんだって、義人君がどーんと構えてると『心が広い人だな』って好印象をもつってわけ」

 たしかに、と義人はまた小山田の理論に感心した。

 一人の女を思いつめて、一挙手一投足に一喜一憂していれば、完全に主導権は相手のものである。

 しかし複数の女と連絡を取っていれば、別の女と会話を進めるのであって、あれこれ思い悩んだりジリジリする熱量は減るであろう。

 とはいえ、と小山田は口調を整えて、

 「あくまで、河野さん攻略に失敗した時の戦略だから。どう?気分的に楽になったでしょ?」

 といった。

 「三国志の諸葛亮孔明は、『戦をするときは必ず負けたときのことも考えて事を起こさねばならない』といってましたもんね」

 「さすがオタク!良く知ってる。曹操もよく『勝敗は兵家の常』といってるしね。

 でも、もちょっと踏み込んだことをいわせてもらえればさ」

 小山田はコメダ珈琲の窓の外をちらと眺めて、

 「おれとしては究極的に義人君は勝敗や損得勘定を度外視した生き方を知ってもらいたいんだよね」

 といって視線を戻した。

 「勝敗……損得勘定……」

 「そう。今の世の中、コスパとか勝ち組やら負け組やら世知辛いカンジになってるけどさ、本当に人生で成功するって『楽しむこと』なんじゃないかなってつくづく思うんだよね。

 抽象的な言い方をすると『結果より過程を楽しむ』ことにみんな無関心だから」

 古来からある日本の言葉に「雅」というものがある。それは花が咲いている「今」を楽しむ心である。短歌を詠んでいて、歌の出来の良し悪しよりも「歌を詠んでいる今」を楽しむ心である。

 「もちょっと具体的にいうとね、弓で矢を的に向けて射るとするよね。まあ弓道なんかは的に当たるか当たらないかの競技なんだけど、おれとしては『弓を射ること自体が楽しい』という境地に達したいわけ。

 的に当たる当たらない、ってのは執着になっちゃうから。一度的に当てたら次も当てたくなる。外れたら気分が悪くなる。

 もう弓を射る楽しさなんて飛んでっちゃってるから。弓を射る所作、弓から矢を放つときの緊張感、その『今』を楽しむことが『雅』だって思うから。難しいこといってるかな」

 「いえ……なんとなくわかる気がします」

 義人は小山田の「雅論」を聞いて意外な気持ちになっていた。

 「まあ河野さんと付き合えるか付き合えないかは、結果論だからわかんないんだけどね、おれとしては義人君が『人を好きになる』ってことを楽しんでくれればそれで成功なわけ。

 こういえば身も蓋もないんだけど、もう大局でいえば義人君は勝ってるんだ。でも戦術レベルでは戦いは始まったばかりなので、詰めていきますよ~」

 自分が恋愛で「勝っている」?義人の内心はさらに動揺した。義人の思う恋愛の勝ちとは、河野と付き合い、自分を尊敬させ、彼女の肉体を支配するまでを指していた。

 たしかに小山田がいうように勝つまでに楽しい思いはしたい。それに異論はない。でもそれまで楽しいだけで己のこの思いを満たせるのか。それが問題であった。

 (難しいことはいい。おれは河野さんをものにする)

 義人はアイスコーヒー(無糖)をストローでズズズ……と飲み干して小山田に続き立ち上がった。


         ※


 「水軍殲滅作戦」というコードネームが名付けられた、義人が河野と付き合うプロジェクト。

 由来は河野が愛媛県出身で戦国時代の「河野水軍」の末裔なのではないか?と小山田が勝手な推測をしたからだ。

 そんなことを言い出したら山梨県出身の小山田は小山田信茂の末裔で、ギリギリになって主君の武田勝頼を裏切った(現在では諸説ある)ような気もするが、乗りかかった船だ。

 小山田が指示したのは、河野の担当回でできるだけ彼女の指示に従順に言うことを聞き、気分を良くさせ、観察をせよということだった。

 「女は気分で動く」、とフェミニスト界隈が聞けば総攻撃を受けそうなアドバイスを小山田は最重要課題と位置づけた。

 具体的には論理性を偽装した感情を優先するということで、河野は例にもれずど真ん中ストライクでそのタイプだという。

 「河野さんにいろいろアドバイスを受けているうちに考えていたんですが……うちの家業、っていっても専業農家なんですけどね、それをいつか継げればいいなって思って」

 小山田に先に告げていた将来設計をあたかも河野の献身のおかげで思いついたようにいってみた。河野の反応は予想を上回るものであった。

 「えっ、え~!それすごいよ!できる、今の義人君なら夢物語じゃないよ!地に足ついた現実路線だよ!」

 「そ、そうでしょうか……やっぱり毎日生き生きしてる河野さんを見てると、自分でもできる範囲のことができるんじゃないかと思ってきて……」

 さりげなく、河野へのよいしょも忘れない。

 「そんな、私なんて小山田さんにはぜんぜん及ばないひよっこだし……」

 「でも、僕の容姿を変えてみようって、小山田さんに内緒で提案してくださったのは河野さんですよね。

 あれからここまで来れたわけですし……」

 「そっか、はじまりはそうだったよね。なら私も少しは胸を張ってもいいのかな」

 そういって、河野は卑屈を感じさせる笑顔を見せた。

 (この人は、自分の手柄がほしいんだ)

 義人は急に河野のことがかわいそうになってきていた。

 ここまで義人が大きく前に歩き出すことができた推進力は、小山田の力によるのは間違いない。でも小山田は自分の手柄には一切こだわらなかった。功績は河野に譲り、辞める前に義人の恋愛相談にも乗り、計画もたててくれた。

 (小山田さんと河野さんって、こんなに差があったんだな……)

 最初は逆だと思っていたが、と義人はひきこもっていた自分の人を見る目のなさが情けなかった。

 だが、河野の脆弱さを発見したことで、自分の心に余裕が生まれたのは確かである。

 もう恋に盲目だった自分はいない。

 「何だか義人君、急に成長したみたいで私なんかもういらないのかも、なんて思っちゃうな」

 河野の感情は理論を超越して、義人が何かのきっかけで心の持ちようが変わったことを察知していた。

 (『河野さんの自尊心をくすぐるんだ』)

 小山田のたてた基本戦略を、義人は共有している。

 「そ、そんなことないです!河野さんのアドバイスや指導でやっとここまでこれたんですから……河野さんに今いなくなられちゃうと僕が困ります」

 義人は「常に河野さんの下手に出ろ」という小山田の戦術を実践している、と思った。

 「そう?まだ私にできることなんて、あるかなあ」

 「大ありですよ……農業を始めたいっていってもまだ僕の頭ン中だけの絵に描いた餅で。

農協の人たちとかとコミュニケーションを取りたいと思っているので、その手助けとかしてもらえればうれしいです」

 それを聞いた河野は感極まったのか、目にうっすらと涙をにじませて、

 「ありがとう!そういう前向きなお手伝いならいくらでもさせてもらうよ!

 でも、うれしいなあ。義人君の方から具体的に手助けのお願いをしてもらえるなんて、初めて会ったときからすれば信じられない進歩だよね」

 といった。

 もちろんこのような提案は、小山田とケーススタディとして示し合わせていた模範解答なので義人にも河野の反応は想定内である。

 「農協や青年会議所で親切そうな人を何人かあたってみるね!

 ところで、今日はどこか外に出てみる?」

 「そ、そうですね……そろそろ暑くなってきましたので、イオンモールにシンプルな帽子を買いに行きたいんですけど……河野さんはご迷惑ではありませんか?」

 河野はそれを聞いて嬉しそうにかぶりを振った。

 「ううん、迷惑どころか!人ごみに慣れたり買い物をするのも、ひきこもり解決の大きな前進だからね。さっそく出かけようか」

 もう義人が出かけるときに、両親もいちいち感動しなくなっていた。

 「気いつけていってきなはれや」

 とかつて義人が学校に登校するときに声をかけていたような様子で、自分を見守ってくれている両親に、義人は少しいいことをしているような気になった。

 地方ごとに一つは建設されているイオンモールは巨大であり、多数の店舗が入っているため地方生活の利便性を向上させた。

 小山田と少しずつ買い足している洋服もここに行けば清潔感あるカッコよく丈夫な商品が安価で手に入る。

 河野と買い物を名目としたデート兼観察にも違和感なく使用できる施設である。小山田の策定した「水軍殲滅作戦」でもここをおおいに利用することを推奨していた。

 「最初の帽子なら、黒のキャスケットなんてかわいくないかな?

 黒ならどんな洋服にも合うし、ハンチングよりキャスケットの方が今っぽいよね」

 河野が喜々として勧めてくれた黒のキャスケット帽は、キャップよりややボリュームのあるフォルムでファッションとしてこなれ感が出ている。

 「あ、なかなかいい感じですね……河野さんが選んでくれた帽子ですし、これにしようかな」

 専門店街の帽子店で、二人してショッピングをしている様子を客観的に見ると、まるでデートである。

 しかし義人はショッピングをしながらも河野の好む言動や行動を一歩引いた眼で観察していた。

 「わ~なんか嬉しい!この前の洋服を選んだのは小山田さんだったから、やっと義人君のファッションを選べた」

 黒のキャスケットを購入した義人は、ごきげんな河野を見て、

 (やっぱり小山田さんと手柄を競っているのかな……)

 と冷静に判断した。振り返ってみれば、「小山田さんはなんて言ってた?」とか「これは小山田さんには内緒だけど」というような河野のスタンドプレーは随所に見られた。

 義人は、小山田と「水軍殲滅作戦」を計画するにあたって河野の行動を観察してきて、

自分に対する親切なヘルプは河野自身のキャリアの実績づくりに過ぎないのではないか、という疑義をもつようになった。

 それでも、だ。

 (河野さんは、魅力的な女だ)

 と己の想いを変えることはなかった。これが人生における罠なら罠でもいい。この恋を成否関係なく完結させることが、小山田のいうところの「雅」ではなかろうか。

 恋を楽しむ。義人は諾否に関する執着を手放しつつあった。

 河野の希望で、購入した帽子のタグを切り店を出る前に帽子をかぶってみた。

 「わ~、似合う!なんかどんどん義人君垢ぬけてくるね」

 「そうでしょうか……」

 「うんうん、初めて会ったときとは別人みたい!」

 「やっぱり、なんてゆうか、外見を整えると余裕みたいのが出てきますね。人に見られても大丈夫ってゆうか……人は見た目が九割って本もありましたし。読んでませんけど」

 河野はまじまじと義人の身なりを見つめている。その視線はクライアントというだけでなく、異性としての意識が幾分か潜在意識の中に混じっているのは間違いないのではないか。

 休憩で一階のスターバックスに二人で入る。ダイエットで無糖のアイスコーヒーを頼んだ義人に対し、河野はキャラメルフラペチーノを頼み、

 「えへへ、これ自分へのご褒美」

 なんて、自分にご褒美あげてばっかなんだけどね、といたずらっぽく笑った。

 (河野さんは、かわいい女だ)

 義人は恋愛経験がないので、ちょっとした河野のしぐさにもときめいてしまう。小山田は「それはそれとして楽しめ」といった。恋愛は自分にない部分を異性の中に見つけ、それを愛でるものなので、おおいに河野に惹かれればよい、その分作戦に信憑性がでるからだという理屈である。

 「義人君、ダイエットも順調だね。外見もスッキリしてきてるもんね」

 「はあ……痩せると倦怠感も少なくなるって小山田さんが教えてくれたので、一石二鳥かなと」

 「ちゃんと継続できてるとこがすごいよ!

 私なんかついつい甘いもの食べちゃう」

 河野はそういうものの、体型はスマートである。太らない体質なのかな、と義人は河野の身体を想像する。胸がドキドキしてくるが、それをも楽しめ、と己に言い聞かせる。

 「小山田さんは、抗鬱剤の副作用で二十キロ以上太ったそうです。で、痩せてまたリバウンドして痩せてを繰り返して今のカンジみたいですよ」

 「悔しいけど、小山田さんみたいな苦労は私してないからなー」

 河野が悔しい、といった。やはり小山田と自分を比べてあがいているのだと義人は確信した。

 「若い頃の苦労は買ってでもしろ、っていうの正解だよね。やっぱり人間として私と小山田さんじゃ厚みが違うもん」

 「あ、ご、ごめんなさい……そういう意味でいったんじゃなくて」

 「そんな、こっちこそごめんね、私が勝手に小山田さんみたいにできないのが不甲斐ないって思っちゃって」

 河野がついに本心をさらけ出した。これも小山田との作戦では想定内のシナリオである。

 「こ、河野さんは今でも十分にがんばっておられると思います……人間だれでもそれぞれ立場や個性だって違いますし。

 小山田さんはなんか癖が強いから僕にとっては苦手なんです。その点河野さんは優しくて年齢も近いから安心します」

 「ありがとう。なんか気を遣わせちゃったね……」

 そういって照れたように笑った河野だが、明らかに嬉しさは表情から見て取れた。

 (小山田さんとさりげなく比較して、河野さんを持ち上げると効果あり、か)

 義人は徐々に手ごたえを感じ始めていた。


         五


 そうこうしているうちに二週間が経とうとしていた。小山田の退職まであと二週間である。

 小山田が有給休暇を消化しながら、義人と河野が二人きりでリハビリ訓練をする機会を捻出し、「水軍殲滅作戦」を河野がいないリハビリ回だったり、時間外にLINE通話で着々と進行させる小山田と義人だった。

 「なんか、小山田さんを落として河野さんの気を惹いてすみません……」

 「いいのいいの!おれなんかいなくなっちゃう人間なんだから、気にせずどんどん落としちゃって」

 小山田は自尊心やプライドみたいなものを、どんどん放棄していっているように見える。

 「ただでさえ首やメンタルがしんどいのに、余計なプライドなんかは重いだけだよね。人間、自分がバカだと思われてるのが一番楽なんだから」

 なんだか仏教徒みたいだな、と義人は思ったが、小山田の献身を活かすには自分が河野を射止めることである。

 「そろそろ、機は熟してきてると思うんです」

 「ほう、そう感じる理由は?」

 「ボディタッチが増えてきて、逆に僕に甘えるような言動をすることが目立つようになりました。河野さんの仕事を褒めたら、あからさまに機嫌が良くなるのを隠さなくなりました」

 「ふうむ……」

 小山田は少し考え込んで、

 「河野さんは『仕事ができる自分』が一番好きな人だからな……。彼女が担当する他のひきこもりの子たちはなかなかうまくいってないらしい。

 手柄として義人君だけは囲い込みたいという無意識のサインだとも受け取れるが……つまり無意識の罠かもしれないぞ」

 といった。

 「罠でもいいんです」

 義人がいいきったとき、小山田はハッとしたように表情を真剣なものに変えた。

 「はなから勝算の低い作戦です。知ってか知らずかわかりませんが、河野さんの懐に飛び込むくらいのリスクを取らないと、僕の立場では河野さんの心をつかむことができないと思います」

 「そうか……虎穴に入らずんば虎子を得ずということか」

 小山田も義人の覚悟に、納得した様子で答えた。

 「この罠を告白の時ダシに使っても悪くない……やってみるか」

 「はい」

 とはいえ、と小山田はリラックスした表情を取り戻して、

 「何事も初めてのことだからさ、仮に河野さんと付き合えるようになったとしても、付き合いが長続きしないかもしれないよ。

 一度陥落させた城を維持する方法まで、義人君には教えてないからね」

 後付けみたいになっちゃうけど、と笑った。

 「もともと勝算の低い告白ですから。でもそれをしないと僕の未来はないわけで……」

 「うんうん」

 「失敗からしか学べない、って小山田さんから聞いて。それなら好きになった人に思いを伝えることから何か得るものがあるんじゃないかと。

 矢を的に当てる当たらないを超えた『雅』でしたっけ?人生を楽しむ資格が自分にあるかどうかの実験だと思ってもいいかなって」

 「驚いたな!」

 小山田は一度手をうって、義人の言葉に感心した、といった。

 「その心境に達してるなら、もう義人君は『勝ってる』よ。いや、勝ち負けみたいな陳腐な概念を超えてる。

 実験結構。失敗大いに結構。もう人生謳歌しちゃってるじゃん。おれや河野さんは、もともと義人君の手助けをするために来た人間だからさ。そこでこういうことできるのってお互い最高だよね」

 小山田のいうとおり、河野に告白しようとしている義人は当初の高揚感が影をひそめていた。生まれてはじめての告白に緊張は禁じ得ないがその行動によって自分がどう変化するのかの方に興味の軸が移動しているような気がしていた。それを人生の謳歌と大袈裟によぶのかは理解できないが。

 「よし、次にでも作戦を決行するか。場所はどこがいい?」

 「僕の部屋だとお互い逃げ場がないような気がしますので……外でいきたいと思います。

 公園でも喫茶店でもいいですが、僕がひきこもりから脱することができた河野さんの功績をアピールできる狙いもありますし」

 「いいね。外に出るトレーニングプログラムとして、河野さんに決めさせるのも手だよ。あくまで河野さんのフィールドで話を進めた方が、彼女もペースを乱されずに済む」

 「大丈夫でしょうか……」

 「うん。なるようになる。なんとかならないようでも、それはそれでなんとかなる。そんなもんだから」

 なんだか変な言い回しをした小山田に、義人はちょっとした安心を感じた。


         ※


 いよいよ河野に告白をすると決めた日がやってきた。

 河野はいつもどおりピンクのルコックのジャージ上下の仕事着、義人はネイビーのポケット付き無地のTシャツにチノパンという肩の力を抜いたファッションである。

 「おはよう。最近は気分も安定しているようだし、どっかお散歩も兼ねて出かけようか?」

 相変わらず河野には、義人の心中を推し量る技量が欠落している。小山田ならば一目で義人の緊張を言い当てたことだろう。

 ただ、今日は河野のその鈍感さに気分が楽になったのは事実だ。

 「は、はい……お天気もいいことですし、いつもどおり散歩してお茶とかできればうれしいです」

 その日は河野が事業所の公用車に乗ってきており、近所のスターバックスまでお茶しに行くことになった。

 義人は再び踏みしめる路上を意識した。

 誰も入れることがないと決めたカーテンを閉めた自室から、太陽が照らす路上でスニーカーを履いて、これから恋の告白をする。

 なんと人間らしい行為なのか!

 暮れなずんでゆく文明の落とし児として、ひきこり生活をしていた日々はもう遠い。

 もちろん、河野は運転席で義人のそのような感慨には気づくはずもない。

 「気持ちいいね~」

 雲ひとつない五月の空は、爽快で吸い込まれそうになる。写真家で空の写真を撮り続けているような人は、このような気象の表情を一瞬にとらえたいのだろうか。

 「どうかした?エアコンの温度、涼しくしようか?」

 「い、いえ大丈夫です……」

 車はやがてスターバックスコーヒーの駐車場に停まった。

 「こんな天気のいい日だから、テラス席にしよっか?」

 河野が笑顔で提案する。そしてトレーニングとして義人と河野の飲み物を注文してきてほしい、といった。

 「ア、アイスコーヒーのラージ一つと、抹茶フラペチーノのラージを無脂肪乳で……」

 ひきこもり連中のみならず、スターバックスの注文を苦手とする人は多い。そのために店舗から足が遠ざかる人さえいるという。

 (やっぱり進化してるよな)

 河野から預かったお金で支払いをして、できあがった飲み物をトレイに乗せてテラス席に向かいながら義人は自分の変貌ぶりに驚いていた。

 小山田とイオンモールのスタバで注文の練習をしたことが活かされている。「なんでこんなめんどくさいことを」と億劫だったが、スタバの煩雑なオーダーができれば、あらかたの飲食店の注文には困らない。

 ありがとう、と注文したフラペチーノを受け取った河野は、

 「すっかりオーダーにも慣れてきたね。外の世界も捨てたもんじゃないでしょ?」

 と笑った。

 「い、いや……まだまだです。河野さんがいてくださるからできるのであって。

 一人でどこまで何ができるのかは未知数ですよね」

 「……」

 「え、ど、どうかしましたか?」

 「ううん。客観的に自分を見れるようになってきたんだな、って思って。少しずつだけど確実に成長してるよ、義人君は」

 と河野はうっとりしたような目をしてひとりごちた。

 (おれに惚れていると思うな。河野さん自身の功績に陶酔しているんだ)

 義人は小山田との打ち合わせで、忘我の境地にならない訓練をしてきた。

 「義人君なら、一歩ずつ立派な農家の後継ぎになれると思うんだ。

 そしたら新しいバイオの農法なんかも勉強して……そのうちお嫁さんなんかもらっちゃってかわいいお子さんが生まれて。

 なんだか夢があっていいなあ。私なんか田舎から出てきて鳴かず飛ばずだし、あがいても小山田さんみたくうまいこと立ち回れないし。

 なんだか義人君と立場逆転?えへへ、クライアントに愚痴いうなんてさらに自己嫌悪」

 そういって河野は飲みかけのフラペチーノに覆いかぶさるように頭を抱えた。

 (今だ)

 小山田は河野が誰かと自分を比較して気落ちしたときに告白を切り出せ、といった。

 「こ、河野さんは全然ダメじゃないですよ。僕、一生懸命頑張ってる河野さん好きですもん」

 「ありがと……えっ?」

 「……っ、すいません。そのままの意味です」

 義人は河野の目が見れず、うつむいたまま小さな声ではあるが、意思をしっかり伝えた。

 河野は動揺したように目をきょろきょろさせていたので、義人がちゃんと河野の目を見れたら余裕がもてたかもしれない。

 「その、私のことを女の子として好きってことなのかな……」

 「……はい、そう取ってもらってかまいません」

 「そうだったんだ……嫌われてはいないと思ってたんだけど、そっかー」

 「はい……なんかお世話してもらってる立場を利用してこういうこと伝えるのは卑怯かな、って思ったんですけど、人って明日にはどうなるかわかんないじゃないですか。

 だから臆病になってないで、伝える方がいいのかなって思いまして」

 思いがけず堂々と理由を答えた義人に、河野は動揺が隠せない。

 「そう……義人君って最初は取っつきにくい人だと思ったけど、今は私と一緒にすっごく努力して社会復帰を目指してて。

 外見もカッコよくなって、異性としても全然イケてる男子になってると思うし。

 だけど……」

 「だけど」

 河野は意を決したように、

 「やっぱり、クライアントとお付き合いするのは私としてはないんだよね……こっちも地位を利用したみたいにもなるし。

 お気持ちはほんっとに嬉しいんだけど、付き合うとかは……ごめんなさい」

 といって頭を深く下げた。

 「そ、そんな、お顔を上げてください。僕が勝手に河野さんを好きになって、気持ちを伝えただけなので。

 それでも、好きな人に初めて気持ちを伝えることができました。真剣に考えてくれて、こちらこそありがとうございます。嬉しかったです」

 義人がそのように感謝を述べると、硬かった河野の表情がにわかに崩れ、笑顔になるのかと思いきや、テラス席に突っ伏して、

 「うっ、うっ……うわーん」

 と泣きはじめてしまった。義人にとってはまさに想定外の出来事で、

 (なんでフラれたおれじゃなくて、河野さんが泣き始めるんだよ)

 とおろおろしてしまった。

 「あ、あの、ごめんなさい!急に僕が河野さん困らせるようなこといっちゃって……迷惑でしたよね。

 これ、使ってないハンカチです。どうかご機嫌をなおしてください」

 義人に差し出されたハンカチを無言で受け取った河野は顔にハンカチを押し当てて、さらにしゃくりあげて泣いている。

 十五分くらいは河野の感情が落ち着くまでかかっただろうか。

 ようやく泣きはらした目で視線を下げて、

 「ごめんなさい……ちょっといろいろなことがごっちゃになっちゃって。これ、ちゃんと洗って返すからね」

 と義人に湿った声をかけた。

 「こんなときに、あの……虫が良すぎるかもしれないんですが」

 おそるおそる義人が、河野の顔色をうかがって尋ねる。

 「うん、何?」

 「付き合うことは無理だと理解したんですが、河野さんはいい人ですし……これで縁が切れてしまうのはなんか寂しいので……これからは友だちになっていただけないでしょうか?」

 義人の提案に、河野は涙を拭きながら、

 「それはかまわないよ。でも私ばっかり都合のいい話じゃないの?」

 と恐縮したようにいった。

 「そんな、そんな!僕こそ勝手なこといった手前で未練がましい提案なので……。

 それに本心を明かしますと、細くてもつながっていれば、何年かしたら河野さんが心変わりする可能性だってゼロじゃないわけで。

 僕も何年か努力すれば人間的に成長して、振り向いてもらえる男になれるかもしれませんし……」

 「……うん。それなら私と友だちになってくれる?」

 河野が自発的に「友だちになろう」と申し出たことは「水軍殲滅作戦」において一定の戦果をあげたことを意味していた。

 「よ、よろこんで、です。これからもよろしくお願いします」

 「こちらこそね」

 河野は明るい笑顔を見せた。

 二人はLINEの交換をし、もし河野が小山田のように義人の担当を外れることになっても連絡を取り合えるようになった。

 「でも、義人君ってえらいなあ」

 「えらいって……どこがですか?」

 友だちになった河野はさらに一歩踏み込んだような話し方になっている。

 「素直に自分を出すことができて……最初は私と小山田さんを拒んでたのに、自分を変えようって少しずつ外に出るようになったじゃん。

 それだけじゃなくて、自分の好きって気持ちまで―私でよかったのかわかんないけど―ちゃんと伝えられるようになったんだもん」

 「そうでしょうか……」

 「大人になってから自分を変えようとするのって大変なんだよ。

 私なんか毎日自己嫌悪で何一つ趣味とかないし、家に帰ってスマホいじって寝るだけだもんね。だから義人君の勇気……すごいと思う」

 そのあとは和やかな雰囲気になり、義人の自宅に河野の車で送ってもらい、リハビリ?終了となった。

 その夜、義人が河野に「今日は友だちになってくださって、ありがとうございました」

とLINEを送るとすぐ既読が付き、河野から「こちらこそ、期待に添えなかったけど、好きになってくれてありがとう。友だちとしてよろしくね!」と返事がきた。

 (これはもしかして、期待以上の成果なんじゃないか)

 と義人は今日を振り返っていた。

 つまりだ。仮に河野と恋人として付き合うとしてもどう付き合っていいのか恋愛経験のない自分にはさっぱりわからない。

 今回の「水軍殲滅作戦」も小山田主導で河野の「斬首作戦」に特化していたとはいえ、断られても友だちになってくださいと押せとの計画であった。

 仮に河野と恋人として付き合っていたとすれば、たちまち義人は小山田の示してくれた航海図を見失い、つまり十ン年間ひきこもりという地金が出てしまい、フラれてしまう可能性が高い。

 しかしだ。小山田が「フラれても友だちになってくれと頼め」という次善の策を実行できたことにより、河野とは何だかわからないが貸しを作ったみたいになって、友だちに収まることができた。

 友だちならば頻繁に(あるいは嫌味ではなければ毎日でも)LINEで交信や通話が無料ででき、義人は女性との交際の模擬経験を積むことができる。

 その経験を積み重ねることによって、他の女性と友だち→恋人というふうに発展するかもしれないし、もしかしたら河野が安心から心変わりして義人と恋人として交際を望むようになるかもしれないではないか。

 (小山田さんの手のひらの上で踊らされたのか?)

 とはいえ……。「罠でもいい」と腹をくくったのは義人自身である。苛立ちよりも感謝の気持ちの方が強かった。

 それにもう二週間で退職する小山田が何らかの利敵行為を働いていたとは考えにくい。

 「今日はなんだか眠れないかも」

 と河野からのLINEが来た。

 「僕もそうです。でも気持ちはスッキリしたので(自分勝手ですみません)、案外眠れるかもしれません」

 と返信した。「これから、お互いがんばろうね!」とすぐ河野からのLINEが届く。

 「ありがとうございます。マイペースで自立に向けてやってきます」

 まるで恋人か仲の良い異性の友だちとのやり取りのようだ。いや現実としてそのようになっているので、本来ならば義人に高揚感があってしかるべきなのだが……。

 (こんなもんだったのかな……)

 現実から一歩引いてしまう自分に義人は戸惑いを覚えていた。


         ※


 「そっかぁ、うんうん。まあ上々の出来だったんじゃないかなあ」

 数日後、小山田が義人の部屋を訪れ「水軍殲滅作戦」の結果を聞いた第一声がこれであった。

 「そんな、他人事みたいにいわないでくださいよ……」

 とは義人も小山田を責めたりしない。まさに「上々の出来」である。

 「はい。小山田さんの作戦でうまくいきました。ありがとうございます」

 あれ?という表情をした小山田は、

 「どうしたの?やけに素直じゃん」

 と首を傾げた。

 「素直といいますか……異性との関係を築くにはこのへんからだよな……って思いまして」

 「まあそうかもしれないね。いきなり万々歳とはいかないよね。河野さんに限らず各方面の女子にこういう感じで作戦を展開して、いずれ付き合うような子が出てくればいいわけだしね」

 「そんなもんでしょうか……」

 「そんなもん、そんなもん。義人君がさ、そもそも河野さんを好きになったって部分も、出会いがないことに加えてさ、ちょっとばかしかわいくて優しい女の子が目の前に現れた……みたいなことでしかないわけでしょ?

 これからどんどん義人君に性格も見た目もフィットしてくる女の子が出てくるわけだしね、河野さんに執着する必要はないわけよ」

 小山田はドライな口調で慰めているのか励ましているのかよくわからないことをいった。

 しかしその内容の説得力は、どこか抗いがたい力を感じざるをえなかった。

 「小山田さんは」

 義人は一呼吸おいて、

 「今回の作戦がこうなることを予測してたってことですか?」

 と恐る恐る効いた。

 「正直いうとそうだね。でも思ったよりいい感じで軟着陸できたっていう印象かな」

 小山田はくだけた口調で悪びれずに答えた。

 「僕も河野さんが好きでたまらなかったから、小山田さんといろいろ手段を講じて告白しようとしてたはずなんです。

 それがなんかこうなってみると拍子抜けというか……」

 小山田は義人の部屋にあるマンガから目を離さずに、

 「そんなもんでしょ。まだ恋愛ははじまってないんだし」

 と他人事のようにいった。

 「これから恋人ができたらまた真剣にもなってくると思うよ。デートはどこにしようか、あんなこといって嫌われないか、どんな服着て会おうか、将来のことはどうしよう……とか現実が次々ドアを開けてやってくるからね」

 義人はゾッとして、

 「でももう小山田さんはいないんですよね?なんか失敗ばかりしそうで怖いんですけど……」

 と訴えた。「何いってんの」と小山田はようやくマンガを床において、

 「失敗しないと恋愛なんて上手くいきっこないじゃん。それは農業も他の仕事も趣味も全部そうなんだから。

 トライ&エラーでしか人って成長しないからね」

 と諭すようにいった。

 何から何までやっていこうなんて人は傲慢だとしつつも、恋愛や仕事、趣味など納得のいく結果を出したければ大小問わず失敗と改善を繰り返すことでしか達成感は得られない、と小山田は繰り返しいった。

 「失敗……怖いです」

 義人は表情を小さくして消え入りそうな声で小山田に訴える。

 「大丈夫、義人君部屋からちゃんと出てきたんだもん。焦ることないよ、自分のペースでいろいろやってみてごらん。

 もう君は外の世界にいるんだよ。何年かかってもいいじゃん。怖がらないで楽しむこと。河野さんとの友だち付き合いも、農業の勉強も、これまで楽しんできたアニメやマンガみたいに楽しんでこう」

 義人が小山田の言葉を聞きながら脳裏に思いうかべていたのは春の日差しの中、家から出て路上に踏み出した瞬間だった。

 暗く湿った、一日中外に出ない自室との対比はまさに光と影であった。路上ではやがて太陽が傾いていき、山に沈む。それと同時に月が夜道を穏やかに照らす。

 それを繰り返しているうちに春が過ぎ、初夏になった。そう、外の世界には季節があるのだと改めて気づいた。

 それは義人が少年から青年へと成長するのと同じで、とどまることなく動き続けている。何もかもがずっと同じものがない、形を変え続けていく世界、無常の原理に基づいて移ろっているのである。

 「転がる石、って言葉があるよね」

 考え込んでいた義人の思考を汲んだように小山田が話しかける。

 「ライク・ア・ローリングストーン。おれたちってさ、もともといびつな石なんだったんだろうな、って思うことがあってさ。

 人とか時間とか……いろいろなものとぶつかって、角がとれたり、変形したり、滑らかになったり、傷がついたり。

 整った綺麗な宝石にはなれないけど、ひとそれぞれのカタチになるじゃん。それがいいものだなって思ってて。

 百人いたら百人違うカタチでね、それがいいとか悪いってわけじゃなくて、『個性』やその人の味じゃないか、って思うわけ」

 「転がる石に苔は生えない」等「転がる石」に関する諺は世界各国にある。それを肯定的にとらえるものもあれば否定的にとらえる解釈もある。

 しかし無常の世で、人は転がる石のように変わり続ける他はない。部屋にこもりじっとしていたときの義人も日々歳を取り、食べ、睡眠をとり、変わってきていた。今は行動がアクティブになっているので、転がる速度が速くなっているだけだ。

 どうせ「転がる石」にしかなれないのであればポジティブにとらえるしかない、と小山田はいいたいのであろう。人は歳を取らずにはいられないし変わらずにはいられない。それも死という絶対的な罰ゲームに向かって。

 「たしかにそうかもしれませんね……もう動き始めちゃったからには楽しめるように努力しないと」

 「そうそう。一直線に坂道を転げ落ちるわけでもないだろうし、あちこち寄り道しながらね。お花見とか美味しいもの食べたり、女の子とデートしたりして」

 「それが雅というやつでしょうか?」

 それそれ、と小山田が目元に笑みを浮かべる。この日を境にして、小山田は義人の家に来なくなった。

 あれほど義人の両親に「功名たてますよ」と大言壮語していたのに、それを誇ることもなく、義人の日常から消えた。

 代わりに一人だけの担当になった河野によると、小山田はやはり残り少ない有給を消費しながら自宅療養しているとのことであった。

 「あの人はうちに来てくれはった阿弥陀様や。なまんだぶ、なまんだぶ」

 義人の両親からすれば小山田は一人息子をひきこもりから(完全に、ではないものの)脱却させ、家業を継ぐ決意までさせてくれた氏神である。

 氏神、阿弥陀様というにはあまりに怠惰で生臭い指導者であったが、一応の結果を出したと河野も認めざるを得ない、といっていた。

 季節は五月を過ぎ、六月に入った。


         ※


 「小山田ちゃん、NPOの女の子が会いに来てるで。河野さん」

 「ああ……はいはい、すぐに行きます」

 六月十一日、小山田が役場を退職する日に、持ち物の整理をしていると、河野が来た。

 小山田は作業のため白いオックスフォードのボタンダウンシャツにジーンズ、スニーカーという服装である。

 こんにちは、と挨拶して何かいいたげな河野の表情を察して、

 「すみません、ひきこもり対策事業の引継ぎで訊きに来てらっしゃるので、コーナー使わせてもらっていいですか?」

 と小山田が気を利かせた。コーナーとは役場部署のカウンター外にある、半透明のパーティションに区切られた角のちょっとした相談場所である。

 小山田は微糖の缶コーヒーを二本買ってきて、

 「今日が最後だってよくわかったね。何か話したいことがあるのかな?」

 と職場だからかふざけることなく真面目な対応をした。

 「大ありですよ。私に挨拶もせず出てこなくなっちゃって」

 少しふて腐れたような表情で、河野は詰問する姿勢を見せた。

 「ごめん、ごめん。ほら、梅雨に入って気温の変化も大きかったから、頸椎の痛みと発作が同時に何回か起きちゃってさ。

 河野さんには迷惑をかけたよ。短い間だったけどありがとね」

 素直に謝った小山田に河野は意外な表情をしたが、

 「まあ、私はいいですよ。だけど義人君心配してましたよ」

 と普段の口調に戻っていった。

 「いや、義人君ならもう大丈夫でしょう。

 もうおれが教えることはだいたい伝授したからね。これからたくましく外に出ていけますよ」

 小山田は、心なしか目を細めて嬉しそうにいった。

 「ところで、あのこと……私は小山田さんが義人君をけしかけたと思ってるんですけど」

 河野は少し恥じらいを感じさせる表情で、小山田に訊いた。

 「あのこと?」

 「だから!す、すみません声がちょっと大きくなっちゃいまして……義人君が私に告白してきたことですよ……」

 「あー。そんなことしてないよ」

 「しらばっくれても、私にはわかっちゃうんですからね。女性と交際経験のない義人君が、あんなうまいことアプローチしてくるなんてありえないんだから」

 「そうかなあ。彼も素直になったんじゃない?おれという指導者に巡り会って。

 河野さんも、素直にそういう義人君の成長を喜んであげるべきじゃないのかな?」

 「むぅぅ」と河野は一向に動揺しない小山田にむくんだような声を出した。

 「たしかに義人君、毎日地道になんですけど、がんばってるんですよ。

 早起きするようになって、カーテンも朝早く開けて空気の入れ替えしたり。お部屋も少しずつ片づけてるんですよ。

 小山田さんとの約束だからって、ダイエットも続けてて、こっちもちょっとずつですけど標準体重に近づいてるんです」

 「ふーん」と小山田は無関心を装うようにため息のような返事をして、

 「泣かせるねぇ」

 と一瞬感傷的な顔をした。河野がおや、と思ったときには不愛想な態度に戻って缶コーヒーを飲んでいたのだが。

 「うれしくないんですか?」

 「いや、彼のこれくらいのがんばりは想定内だから。でも、ここからいろいろ試練もあるだろうし、そういうの乗り越えたり挫折しながらいい男になってくんだろうな。

 そこは、楽しみにしてる」

 「はあぁ……」

 それを聞いた河野は机に突っ伏して、

 「やっぱり私、小山田さんにかなわないんだなあ。離れてても相手を信頼するとか、いつもできなくて悩んじゃうんですよ。

 義人君とお友だちになって、『小山田さんを出し抜けた』って思ってたんですけど。いつもできてない自分がみじめになって、自己嫌悪ってループなんです」

 と嘆くようにいった。

 「河野さんはよくやってますよ。でも、他人と自分を比べるのはいかがなものかな。

 君には君のいいところがあるんだから、自信をもっていいと思うよ。

 おれみたいにいなくなる人間と比べてちゃだめ。どうがんばっても他人にはなれないし、逆に他人も河野さんにはなれないんだから」

 「う、うっ……うわーん」

 河野は義人の告白を受けたときみたいに、再び我慢できずに泣き出す。

 「こ、こら……泣きなさんな。みなさんに誤解を受けるでしょうが」

 小山田はジーンズのポケットからハンカチを出して、あわてて河野に手渡した。

 涙を拭きながら、河野は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。

 「私、義人君に告白されてお断りした後も泣いちゃったんです……友だちでもいい、成長していい男になれば河野さんの気持ちも変わるかもしれない、だから待ちますっていわれて……」

 「そうだったんだ」

 「何で泣いちゃったかといえば、感情の整理がつかなかったんですけど、やっぱり自分が誰かに必要とされてるって……言葉でちゃんと伝えられたからだと思うんですよね。

 それと同時に、義人君の言葉から小山田さんが透けて見えちゃって……それが嫌だったのかなんだったのかごっちゃになって」

 「……」

 「だから二回も泣かされたのは、小山田さんのせいなんです」

 「そっか。そんなら、それでいいんじゃないですか」

 小山田に河野の内心を詮索する好奇心は、無縁である。

 「もう、義人君には会わないんですか」

 河野が訊くと、

 「お仕事を今日で辞めるからもう会いにはいかないよ。でも……」

 小山田は少々思案してから、

 「今度、駅前の町民広場で夏祭りがあるんだけど、そこでギターの弾き語りを頼まれてて。ご足労だけど、そこに観に来てくれるならちょっと会っておしゃべりはできるかな」

 と笑った。

 「へー。小山田さんギター弾けるんですね。意外……その日なら私も夜はヒマですし、義人君誘ってみますね」

 「もう役場辞めた人間なんだけど、辞める前に頼まれてたから。あ、ギターの腕前は万年初心者なんで期待しないでよ」

 もう、引継ぎとかで訊きたいことはない?と小山田がいうと、

 「じつは、義人君の担当はこれから私ひとりだってことなんですけど……友だちとしては彼、すごくがんばってますし、フォローもしやすいんですけど、告白を断った相手じゃないですか?

 だから気まずいんじゃないかとか不安だったりしますね……」

 と河野は若干目を伏せて答えた。

 「まあね。でも告白を断ったっていったって恋なんて大きな意味では友情でしょ。

 河野さんはおおらかに義人君を受け入れたともいえるんだから、大丈夫でしょう。

 これからの段階は若い人同士の方がリハビリもはかどると思うしね。僕みたいな年寄りはいい引き際だったんだよ」

 「私って、どうして小山田さんみたいに肩の力抜いて生きられないのかなあ。ずっと八割の力で十二の結果が出るっていわれてましたよね」

 小山田は首をかしげて、

 「いったっけ、そんなこと」

 と考え込んだので、河野は再びうなだれるのであった。


         ※


 小山田がいなくなった。

 これからどうしたらいいのか。義人は一人で悩むことが多くなった。

 河野は相変わらず決まった日に訪問してくれて、社会復帰のプログラムを手伝ってくれているが、その行動に芯が感じられない。

 もちろん友だちとしてもLINEやLINE通話で趣味やその日あった出来事を話したりしているが、なにか満たされない。

 (河野さんが普通なんだろうな)

 「がんばろうね!」「前向きに、ポジティブにだよっ」と励ましてくれるのはありがたいのだが、なぜかやる気のない小山田との会話のように胆まで降りてくることばではないのである。

 (しいていえば人生経験の差だったり、語彙力の差だったりするんだろうけど)

 河野とのLINEは、初めてできた異性の友だちということで、始めた当初は義人をずいぶん興奮させたものの、最近はどうも河野の「人間的な浅さ」が鼻についてしまい、ややうんざりしているのは否めない。

 そんなとき、LINE通話の呼び出し音が鳴った。スマホの画面を見てみると河野からである。呼ぶより誹れかな、と義人は思ったが通話は緊急の時や事務的な連絡が多いので、その場で出る。

 『こんばんは。今大丈夫?』

 『大丈夫です。何か急ぎの用ですか?』

 『そこまで急ぎってほどじゃないんだけど……』

 河野はいつもの明るい声でいった。

 『小山田さんと最後に一度会えることになって』

 『そ、そうなんですか!』

 『うん。次の日曜日の町民夏祭りで、小山田さんギターの弾き語りするんだって』

 『ギターかあ。そういえば古いロックが好きだっていってましたよね』

 『私は初めて聞いたんだけどね、小山田さんがギター弾くなんて』

 やっぱり男の人同士だとそんな話してたんだ、と少し羨ましそうに河野はいった。

 『小山田さんは音楽とか美術、サブカルみたいな文化系の話題に詳しかったんです。

 自分で絵を描いたり文章も書いたりするみたいですし』

 『へぇー、意外。私とは仕事の話しかしない人だったけどな』

 義人は、それ何か死んだ人を偲ぶみたいな会話ですよね、と笑った。

 『一緒に最後小山田さんに会いに行く?あの人の舞台も観客ゼロだとかわいそうだし』

 『そうですね。河野さんさえよろしければ僕も連れてってくださいますか?

 あと観客ゼロだと小山田さんは気楽だって喜びそうな気がします』

 たしかに、と河野の苦笑する声を聴いてLINE通話を終えた。

 (小山田さんに会える)

 毎日これといった予定のない、いわば自分で課したルーティンを順守して生活している義人に日曜の夕方から夜の予定ははなからなかった。

 最初はあんなに毛嫌いしていた小山田に再会できることを喜んでいる義人は、今や自分を嫌悪していなかった。

 人間は三日会わなければ激変することもある、と教えてくれたのは他ならぬ小山田だったからである。


         ※


 町民夏祭りの当日。義人は近くの個人駐車場まで河野の軽自動車に乗せてもらい、そこから駅前の町民広場に二人で歩いて行った。

 河野は京都で買ったという浴衣を着用しており、義人はリーバイス501ジーンズに、生成りのヘンリーネックのTシャツを着ている。サイズはまた一回り小さくなった。

 まるでデートだという感慨よりも、義人は小山田が元気でステージをつとめられるかということが心配で仕方なかった。

 河野はすでに何軒か出店している屋台からイカ焼きを買ってきて、

 「義人君も一本食べる?」

 などとのんきなことをいっている。いいですね、とイカ焼きをもらって食べていると、ステージの裏側に小山田とおぼしき人影が見えた。

 「河野さん、あそこにいるの小山田さんじゃないですかね?」

 「あ、そうかも。小山田さーん!」

 屈託なく大声で呼ぶ河野に反応して、ステージの影はこちらに向かって歩いてきた。

 「やあ、久しぶり。やっとるかね、青少年」

 「やだ、テンプレのおっさんみたい……」

 「だっておっさんだもん。お、義人君も来てくれたんだ。ありがとうね」

 「そんな、小山田さんとこのままお別れ、っていうのも寂しかったですし」

 「体調が悪くてね……迷惑かけたよ。その分今日はたった二曲だけど、ギターの弾き語り楽しんでって」

 小山田はグレーのモッズスーツを着てボタンダウンシャツに細いネクタイをしている。メガネはレイバンのウェイファーラーと、ジョン・レノンのようないで立ちである。

 「ところで、何を唄うんですか」

 河野の問いに、小山田は首をかしげて、

 「なんだったかなあ。たしかビートルズの『抱きしめたい』と『イエスタディ』を頼まれてたような」

 と適当に答えた。

 「大丈夫なんですか?」

 義人も心配そうに訊く。

 「大丈夫、大丈夫。こんなのやっつけ仕事だからさ。みんな屋台とこの後の盆踊り楽しみにしてるし誰も聴いてないって」

 そういって小山田は「かき氷買ってこよ。ブルーハワイかけてもらおう」と夜店に向かって歩いて行った。

 狭い町民広場には、そこそこ人が集まってきており夕涼みに、あるいは盆踊りに、ステージで後に行われる女性演歌歌手のミニコンサートにそれぞれの目的でもって楽しんでいる。

 小山田がいったとおり、誰も義人のことなど気にはしていない。それでも義人は小山田のギターや河野との着物デートを楽しみに、ここに出向いたわけだ。

 日が落ち、あたりを涼しい風が爽やかに吹く頃になると、いよいよ盆踊りの浴衣を着たおばちゃんたちが集まりだし、その前座である小山田の演奏も近づいてきた。

 「小山田さん、そろそろ舞台裏で待機していてください」

 実行委員会とおぼしき若い女性が、談笑している三人のもとに早足でやってきた。

 「がんばってくださいね」

 「楽しみです」

 河野と義人が歩き去る小山田の背中に声をかけると、小山田はかすかに笑って、

 「おれの生き様見せてやる」

 とめずらしく大きなことをいった。河野と義人は思わず顔を見合わせた。

 舞台では地元高校のブラスバンド部がそろそろ演奏を終わろうとしており、次の出番が小山田だということだ。

 ブラスバンド部の演奏が終わると、イベント会社から派遣されているとおぼしき女性司会者が、セッティングの合間におしゃべりでつなぐ。

 「志岐高校ブラスバンド部のみなさん、ありがとうございましたー。

 さて、日も落ちて風が気持ちよくなってきましたね。みなさん、屋台でのお買い物、公園の散策楽しんでおられるでしょうか?

 私もいいにおいで、おなかすいてきましたー」

 ステージ上では大きなアンプに、電気コイルみたいなクルクルしたBOXのシールドがエレキギターに接続されており、そのギターはジョン・レノンが若い時使用していたリッケンバッカ―325の黒色のモデルである。

 「それでは、準備が整ったようです。

 先日転職されたそうですが、元町役場の職員の小山田信幸さんによるギターの弾き語りです!」

 義人は自分のことのようにドキドキしながら誰もいないステージを観ていた。

 「生き様見せてやる」などと不穏な言葉を残して去った小山田が何をしでかすか気になったからである。

 するとフットワーク軽く、ステップのような駆け足で小山田が舞台上に現れた。そしてまばらな拍手。

 「どうもこんばんは」

 スタンドマイクを通じて素っ気ない挨拶をすると、アンプのスイッチを入れ、ストラップを肩にかけでギターを担いだ。

 「こんばんは!小山田さんは町職員から転職なされるとのことですが、これまではおもにどのようなお仕事を?」

 司会の女性が出番前の軽いトークをしかけてくる。

 「はい。いろんな部署の窓際で、コピーやお茶汲みを主にやってました」

 広場の一部、爆笑。河野は顔を両手でおおって「やっちゃった」みたいな仕草をしている。

 「はは、は……小山田さんはユーモアの才能をおもちですね。で、転職後のご予定は?」

 「小説家になろうかなと」

 「おおー」という、司会と広場の観客から感嘆の声。

 「これまで公務員は兼職禁止でしたので。上司に本を出すなら仕事を辞めろという親身なアドバイスをいただき……」

 観客ふたたび爆笑。青くなる司会者があわてて、

 「はは……さあ!準備も整ったようです。

 それでは唄っていただきましょう。曲はビートルズで『抱きしめたい』と『イエスタディ』!」

 と一方的に幕開けを告げる。


 Help! I need somebody. Help! Not just anybody Help! You know I need someone. Help!


イントロなしで小山田が唄い始めた曲は、ビートルズはビートルズでも「ヘルプ!」であった。

 「あれ?小山田さん違う曲唄ってない?てか、歌うまっ!」

 河野が完全に素になってしまうほど、小山田の歌唱力は圧倒的なものであった。しかも声の質までジョン・レノンに似せていて、ギターの演奏法や音色まで(同じ種類のギターだとしてもだ)ビートルズサウンドになっている。

 

 Help me if you can ,I feeling down.And I do appreciate you being ‘round.

Help me get my feet back on the ground. Won’t you please please help me?


 誰でもいいわけじゃない。心のドアを開けた僕を助けてほしい。そばにいてくれて助かるよ。僕を助けてくれないかな?


(これは)義人はそのゴキゲンなポップサウンドを聴きながら、飛び飛びに入ってくる歌詞を理解できたとき、小さな衝撃があった。

 (これは、僕と小山田さんの歌、か)

 

 When I was younger so much younger than today…


(小山田さんも、今より若い時助けてほしかったんだな)

 誰もが迷い、救いを求めている。それでもこの曲のように楽しく笑顔のフリをして悲しみを隠して生きている。自分には小山田さんがいたが、小山田さんには誰か助けてくれた人はいたのか?

 演奏が佳境を迎え、鬼気迫るものに感じられるようになったとき、義人の視界が滲んだ。


 Help me? Help me? Ooh,,,


 助けてくれないか?と繰り返し唄う小山田が演奏を終えたとき、ステージの下からは大きな拍手と歓声が飛んだ。

 小山田はビートルズのように気を付けの姿勢になり深々と頭を下げた。

 「びっくりだねー。小山田さんやるじゃん!何の歌かわかんないけど」

 「そ、そうですね……」

 若い河野にビートルズはなじみがないのはわかるし、義人に「ヘルプ」の歌詞の意味をあらためて説明する気にはなれなかった。

 それが義人の思い込みだとしても、小山田と義人二人だけの想いとして、今は胸の中にとどめておきたかった。しかも、間髪おかず小山田の二曲目の演奏が始まるからである。

 小山田はステージ後方に下がり、フォーク歌手がよくしているハーモニカを首から下げる仕様にしたものを装着していた。

 スタンドマイクの前に立つと、ハーモニカ(後で聞いたところによるとブルースハープと呼ぶのだそうだ)の短い演奏とギターの前奏が始まった。


 Once upon a time you dressed so fine. You threw the bums a dime in your prime, didn’t you?


「ライク・ア・ローリング・ストーンだ……」

 「えっ、何それ?ラップみたいな唄い方になってるけど」

 「ボブ・ディランです……ジョン・レノンはディランのフォークソングを聴いてラブソングじゃない自分の心情を唄う曲を作るようになって……それがさっき小山田さんが唄った『ヘルプ』なんですけど、ディランもビートルズに影響を受けてエレキギターで曲を演奏するようになって。

 それがこの曲を含むアルバムだった……とか聞いたことがあります」

 「ってゆうことは、この二曲は対になってるんだ」

 義人と河野が小声で小山田の意図を探っているうちに、曲は最初のサビにさしかかろうとしている。


 How does it feel? How does it feel? To be without home. Like a complete unknown. Like a rolling stone?


どんな気分だい?住むとこもなく。誰からも相手にされない。転がる石みたいに生きるのは?


 (この曲も僕と小山田さんを唄ってるのか)

 かつていい暮らしをしていたお金持ちが没落して無一文になる。そんなのは比喩であり、本来のむき出しの自分に戻った人が、転がる石のようにかつての習慣や思い込みを棄て、ぶつかり、傷つきながらカタチを変えて生き抜いていく。

 傲慢や他人からの視点を棄て、変わってく自分を見てどんな気がする?

 義人はこの歌の意味をそう解釈した。

 だからこそ小山田は、本来頼まれていたキャッチーなメジャー曲を勝手に変更してまで、この二曲を選んだのだろう。

 

 When you got nothing, you got nothing to lose. You’ve invisible now, no secrets to conceal.


 あんたは失うもんなんてない。隠すような秘密だってありゃしない。

義人はひきこもりになる前はなかなか成績も良く、ひきこもり中も洋楽を聴いていた。

 小山田は洋楽になじみのない祭りの観客には、耳ざわりの良いポップ・ミュージックを提供し、歌詞で「わかる人だけわかる」別れの挨拶をしたのだ。

 

 Like a rolling stone.


最後のリリックを唄い終えブルースハープとリッケンバッカ―の演奏を終えたとき、小山田のステージ前にはけっこうな人だかりになっていた。

 知り合いだけではなく、迫真の演奏に自然と惹かれた人が何人もいたということだ。

 最後に小山田は、

 「ありがとうございました」

 と再び気を付けをして深く頭を下げた後、意外に多くの歓声と拍手に素っ気なく手を振って、バックステージに消えた。

 「小山田さん、ありがとうございましたー。

 曲はビートルズの『抱きしめたい』と『イエスタディ』でした!」

 女性司会者がステージの締めのMCを終えるとあちこちから失笑が漏れた。

 「あの人、小山田さんが曲目勝手に変えちゃったの、最後まで気づかなかったみたいだね」

 くすくす笑う河野に義人は、

 「洋楽ってなじみのない人には、いつまでもなじみがないですからね……意地悪なのは小山田さんの方ですよ」

 といった。

 「小山田さん、歌はすごかったけど、態度は素っ気なかったね」

 「まあ、もともとサービス精神旺盛な人ではないですし、歌で察してくださいってことだったんじゃないでしょうか」

 河野は義人のことばに首をかしげて、

 「うーん……気魄というかそういうのは伝わったけど、何をいいたかったのか私にはわからなかったな」

 とつぶやいた。(それでいい)と義人は思う。わかるひとにだけ深い矢を小山田は心に射込んだのだ。わからない人はノリの良い曲でダンスするなり、身体を揺らすなりして楽しめばいい。

 野外ステージは照明を落とし、櫓が組まれた盆踊りにイベントは移行しようとしている。浴衣を着たおばちゃん連中ががやがやとにぎやかに集まってきた。

 「小山田さん、もう帰っちゃったんですかね?」

 義人の問いに、河野はハッとしたように、

 「あの人ならありえるかも!舞台裏に会いにいってみようか」

 と義人を促した。ステージの舞台裏には、ブラスバンド部のセーラー服姿の女子高生たちがそれぞれの楽器を収納している。

 そこから外れた薄暗い場所で、小山田はイベント関係者とおぼしきおじさんと談笑していた。

 「いたいた!小山田さん、お疲れさまでした!カッコよかったですよ」

 河野が広場の盆踊りの曲に負けないように大声で声をかける。

 「おー、ありがとう」

 小山田はもっていた巨大な板チョコのようなギターケースを置いて、これまた淡白な返答をした。

 「もー、また勝手なことして!こっちはヒヤヒヤしてたんですからね」

 河野がふくれっ面でなかば冗談口をたたく。

 「わはは。誰も他人のことなんて気にしちゃいないって。やりたいことやったもん勝ちだからさ」

 すべてを終えてしまった小山田に取り付く島もない。

 「『生き様見せてやる』ってこういうことだったんですか?」

 義人がおずおずと訊いてみると、

 「さあね、どうだろうね。演奏してるうちにわかんなくなっちゃったわ」

 小山田はそれでも吹っ切れたような表情でいった。

 「十五年もお世話になった職場の頼みごとだったからさ。楽しかった十年とつらかった五年……感謝と恨みつらみをミックスしたら、ああなっちゃったんじゃないの」

 「義人君は、小山田さんと自分のことを唄ったんじゃないか、っていってましたよ」

 河野が遠慮なく義人の疑問をぶつけたので、義人は赤面してうつむいた。

 「ふーん。義人君がそう感じたならそうなんでしょう。おれはあんまし難しいことわかんないから」

 小山田は微笑んで義人に、

 「短い間だったけど、お世話になったね。ありがとうね」

 といって肩に手を置いた。

 「お、小山田さん……僕だって……」

 胸が詰まってことばが出てこない義人の足元を、そのとき幼児が駆け寄ってきて小山田の脚にしがみついた。

 「パパ」

 「おおー、めぐみかあ。わざわざきてくれたんだな」

 「パパ!?」

 義人と河野が同時に同じことばをリエゾンした。

 「小山田さん、結婚してたんですか?」

 わなわなと慄きの声で河野が訊く。

 「うん。あれ、いってなかったっけ?結婚指輪もしてるんだけどな」

 「だめだ……小山田さんに興味をもって外見を見てなかったんで気づかなかった」

 「僕も、改めて小山田さんの指を見たりしてなかったです……」

 それにしても、この女の子のかわいさといったらどうしたことだ。美少女も美少女、目鼻立ちがはっきりしており二重で、黒いシンプルなワンピースから伸びた手足もすらりとしている。

 「あの……河野さんと大友さんですか?主人がいつもお世話になっております」

 驚きの現場に追い打ちをかけるように、若い女性が二人に声をかけてきた。

 「はいそうです。こちらこそ、いつもお世話に……ってこの人小山田さんの奥さんなんですか?」

 小山田より明らかに若く、ストレートヘアの小柄でスマートな女性は、小山田のことを「主人」と呼んだので、妻ということなのだろう。

 「そうそう。彼女は妻の歩美で、このチビが娘のめぐみ。三人家族だけど、みんな一人っ子なんで頼りないよー」

 「そうだったんだ……」

 「ぼ、僕も初めて知りました」

 河野と義人も呆然としてことばを交わした。

 「でもまあ、最後に二人に家族を紹介できてよかったよ。これで心置きなく職場からいなくなれる」

 「その言い方……」

 河野が顔をしかめていると、小山田の妻が、

 「あの……差し出がましいようですけど、河野さんと大友さんとお友だちになってもらったらどうでしょう。

 この人、調子はいいんですけど友だち少ないんで……」

 と提案した。義人がハッとして、

 「そ、そうですよ!仕事を辞めるならどんな関係でも自由ですよね?友だちになって、つながるのも自由じゃないですか」

 と同調する。河野も「そういう手もありますよね」とまんざらではないようである。

 小山田は首をかしげて、

 「うーん、そっかあ。それでもいいのか……めぐみはどう思う?」

 と娘に訊いた。小山田めぐみは二、三歳ほどで、愛想がいい子とは思えないが、

 「……それでいいと思う」

 と父の問いに同意した。

 「じゃあ、そうしようか!これからはおれたち友だちってことで。よろしくお願いします」

 案外こだわりなく妻の小山田歩美や義人、河野の提案に了承した。

 「よかった」

 言い出しっぺの小山田の妻も安堵の表情である。

 「じゃあ、さっそく三人でLINE交換してグループもつくりましょうよ!」

 河野が嬉しそうにスマホを持ち出し、小山田・河野・義人のLINE交換を手早く済ませた。

 「ところで、小山田さん小説家になるんですか?」

 舞台での発言を思い出した義人が訊くと小山田は、

 「これまでも東京で同人誌に小説書いたりしてたんだけどさ、そのうちの持ち込みの一本を出さないかって出版社がいてね。

 全国の書店に並べましょう、なんて景気のいいこといってくるからそれがかなえば、晴れて同人作家から小説家に格上げかな」

 とむずがゆいような表情でいった。

 「それってすごくないですか?小山田さんの本が本屋さんで売られるってことですもんね!」

 河野がびっくりして反応する。

 「だからー。実現すれば、のハナシ。それまでは妻の洋服屋の会計事務とか店番もしようかなってね」

 「え、奥さん洋服屋さんやってるんだ!なんだか急に小山田さんのプライベートがわかって混乱してるんですけど……」

 「私の親から受け継いだ小さなお店なんですけど……またよければ遊びにきてください」

 小山田の妻が控えめに説明する。

 「よし、義人君、今度リハビリのついでに小山田さんの奥さんのお店に行こう」

 「は、はい。そのときはよろしくお願いします」

 「高いものから順番に買っていってよね」

 小山田の提案で一同に失笑がおこった。

 「それじゃあ、おれはこのへんで。娘をお風呂に入れないといけないから。

 夜遅くにでも、追ってLINEいれるね」

 小山田は妻と娘を連れて帰宅していった。

 「なんだあ。ちゃんとパパしてんじゃん……」

 河野があきれたような口ぶりで、三人の背中を見送っている。

 「意外でしたね」

 「いいなあ。私もしたいな結婚……小山田さんの娘さんみたいなかわいい子どもほしい」

 「あ、あの僕でしたらいつでも空いてますので……」

 河野は義人の言葉がよほど虚を突いたようで、しばし目をぱちくりさせていたが、

 「このー、いうようになったね!」

 といって義人のおでこを人差し指でピンと軽くはねた。

 (河野さんには、小山田さんの今しかわかんないんだろうな)

 義人は小山田の家族の小さくなった背中とニヤニヤしている河野を見比べつつ思った。

 (それでもいい。いや、『今』しかここには存在していないんだから、河野さんは正しい)

 とも感じた。小山田がいかに茨の道を紆余曲折して家族を手に入れたのか。それは過ぎ去った過去であり、人は過去に戻ることはできない。また今を生きているように見えてそれは次の瞬間過去になり、未来はまったく見えない。

 つい数ヶ月前まで自宅の饐えた臭いのする湿った部屋でカーテンを閉め切り、誰も信じず外の世界を嫌っていた自分。それが今はどうだ。

 小山田と河野によって路上に引き出され(そこに自分の潜在願望があったとしてもだ)、髪を切り洋服を整え、肥満していた体重も十キロは減った。

 何もかもがインチキに見えていた現実世界は―路上は、自分の脚で立つに値するものだったと義人は考えを変えた。

 さっき小山田がステージで唄った「転がる石」のようにぶつかりながらカタチを変えつつある。それも悪い気分ではなかった。諸行無常の世の理に身を任せているからだ。

 人に完成形はない。あえていえば変わり続けることが究極の完成形なのか。

 浴衣を着た河野と盆踊りで踊り続ける人たちを眺めながら、義人はそのようなことを考えていた。


         ※


 一年後。

 五月半ばの広大な水田で、田植え機に乗りおそるおそる発進させようとしている義人の姿があった。

 「義人、落ち着くんやでー!ゆっくりでもええから、まっすぐ苗を植えていけばええねんからなー」

 義人の父がそわそわしつつ、少し嬉しそうな表情で畦道から声をかける。その横には母親も両手で拝みながら念仏を唱えているが、表情はもちろん穏やかである。

 「がんばれー!」

 少し離れて河野もルコックのジャージ上下にキャップを着用した姿で声援を送る。

 河野の隣には小山田が眠たそうな表情で、義人の田植え機の操作を見守っている。

 「やっとここまできましたね!」

 「朝早すぎ……眠い」

 「もう!義人君が初めて田植え機に乗るんだから一緒に見に行こう、って誘ったの小山田さんじゃないですか」

 「そうだったかな」とあくびをしてメガネを持ち上げつつ、田んぼを眺める目を小山田はしきりにこすっている。

 (え?まさか)

 その小山田のしぐさを河野は見て一つの疑念が湧いた。

 (泣いてるの?)

 「義人ぉー。まっすぐ進めばええねんで!ほな、発進さそか。ハンドルの左側のレバーを倒すんや。ゆっくりやでー」

 父のアドバイスに義人はうなずくと、レバー操作をし、田植え機がゆっくり前進し始める。

 「ええで!そしたら右側のレバーをゆっくり倒して、苗のせ台降ろそか」

 田植え機の後部にある「苗のせ台」が降りて、前進しながらゆっくり自動で苗を水田に植え始めた。

 「やったー!」

 河野の歓声が義人の耳に届く。振り返れば腕組みして満足そうに自分を見つめている父と、念仏を唱えながら喜びをかみしめている母がいた。

 少し離れた両親の横で、河野と小山田がリラックスした雰囲気で義人が運転する田植え機を見守っている。

 義人はまず水田の対岸まで、まっすぐ田植え機を運転することに再び集中した。

 「あれ?トラクター運転するのに、義人君免許もってましたっけ?」

 河野が今さら気づいたように、小山田に訊く。小山田は目線を義人から離さずに、

 「トラクターは田んぼを耕す機械ね。それで今義人君が運転してるのが、苗を植える田植え機。そんで稲刈りするのがコンバインだから……違いを覚えとくように。

 あと公道を走らなければ、この三つの農業機械に免許はいらないんだ。

 ここまで軽トラに積んで田植え機を運んできてくれたのは義人君のお父さんだからね」

 と適当に説明した。

 「そうなんですね……でも、義人君にこんな日がくるなんて正直初めて会った日からは想像がつかなかったなあ。

 前にした小山田さんのステージもびっくりしましたけど」

 河野の感慨深げな感想に、

 「バカ、あんなのと今日の義人君を比較するんじゃないよ。

 見てごらんよ、あの一生懸命な姿……身体もダイエットしてもう七十キロくらいなんでしょ。

 彼は、自分と自分の約束を守ったんだ」

 義人の田植え機は水田の対岸に着き、ゆっくり前進しながら旋回する。

 「自分と自分の約束、ですか……なかなか守れないですよね」

 「おれが感動してるのは、そこ」

 小山田が感無量の表情で息を大きく吸い込む。

 (やっぱり、あのとき泣いてたんだ)

 河野は確信した。何事も無関心に見える小山田の感動のツボは理解しがたかったが、気が付けば自分も目に涙が浮かんでいた。

 一方、田植え機のターンを終えたばかりの義人は苗が植えられている状況を気にしつつも、目の前の畦道に両親と河野、小山田が立っているのが見えた。

 この四人には、どう考えても感謝しかない。

 義人が十五年自室に引きこもっていたのをあきらめずに、朝に夕に励まし、食事や快適な住居を提供してくれた両親。そして藁をもすがる思いで、河野と小山田に義人のことを依頼してくれた。

 河野と小山田は、二人なりの方法で義人が部屋から出ることができるように手を尽くしてくれ、それが今につながっている。

 そして河野も小山田は、今は義人にとってかけがいのない「友だち」でもある。

 不毛な十五年と思われたひきこもり期間でも、義人の心には実らせたい何かを育む種子があり、それは義人が河野と小山田によって再び路上に立つことによって、太陽の光を浴び、芽を出した。

 今は田植え機に乗って、秋には収穫されるであろうお米の苗を植えている。義人が植えた苗はごはんになって、まず両親と河野と小山田に食べてもらいたい。

 四人が「おいしい」という笑顔を見たい。

 それだけではなく、大友家には広大な水田があるので、たくさんのお米がJA等の流通に乗って広がっているだろう。

 義人が植えた苗は近畿一円のお米消費者の各家庭に届き、食卓に並ぶことになる。

 「子ども部屋おじさん」だった自分が、たくさんの人たちに喜んでもらえる仕事をしているのは幸福なことだ。

 「人のためになる」などという概念は引きこもり時代にとっくに捨てたハズではあったけれども。子ども部屋を出て外の世界でいろいろな人とかかわることにより、義人の気持ちも変化した。

 義人が発信した何かを、誰かが受け取るという現象に惹かれたのは否めない。結果的に、太陽が照らす路上に再び立ったとき、義人の脳が何らかの刺激を受け、これまで鬱屈していた感情が跳ねた。

 その一つ一つの感情に素直に向き合えたのが、今の自分であると義人は思う。もちろん、畦道で手を振っている河野と小山田がそうなるように手助けし、後押ししてくれなければ、素直になれなかった。大きな助力だ。

 両親と河野、小山田が立つ畦道まで田植え機が到着し、少し慣れた操作で田植え機をターンさせる。

 「うまいうまい!」

 「なかなかサマになってるよ!」

 河野と小山田が、笑顔で義人に声をかける。

 「はは……なんとか」

 慣れてきた田植え機の操作に対して、義人は不器用に四人に対して手を振る。

 再び田植え機は、水田の対岸に向かって苗を植えつつゆっくり前進し始める。

 おれは、もう一人で歩いているのだ。

 まだ、いろんな人たちの手助けを必要とするだろうけれど。

 何度転んでも、その都度立ち上がればいい。そのときの傷が成長の証になる。

 転がる石のように。

 カタチを変えながら。

 歩いてゆく。

 この、まぶしい路上を、再び。


                                      終


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― 新着の感想 ―
[一言] 佐野元春に同名の著書がありますね 再び原点に立ち返るのも若さ故の特権かも (;^ω^)
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