冷めたムニエル
その街は、その国で最も大きい湖を臨みながらささやかに栄えていた。
主な収益は水産業と観光業に依存している。その国の歴史が始まって以来、何度も焼けては何度も復活を繰り返したその街は、曲げても折れず、殺しても死なない復活者の精神性が根付いていた。
その街の最も象徴的な存在は、町の役所と湖の中心に建てられた二つの慰霊碑だ。役所側は当時の民間人達を、湖側は戦いに散った英霊達を鎮めている。空に向かって剣先を指す剣をモチーフにした非常に単純な構造のそれは、十階建ての役所よりも高く、冷たい灰色の石質もあって、静謐ながら力強い存在感を放ち続ける。
その街には、その国の言葉で畔を意味する名を冠した小料理屋がある。湖の近くで最も人が集まる場所、貸しボートや釣堀などが集まる地区に、その店は構える。
地元住民はもちろん、観光客の内の物好きな部類の客が立ち寄る、小さな店だ。
湖の輪郭は金平糖をめくり返したような形をしており、内に伸びた小さな棘の一つに店はある。内陸側に駐車場を設け、店に入ると湖を一望できるように扇形の空間が出迎える。更に湖側にはウッドデッキが設けられ、晴れの日にはパラソル付の客席が更に七つ加わる。
今代の店主は八代目、二十代の若い青年が店を守っていた。
数年前、先代を務めていた父が腰を痛めた事をきっかけに引退を決めたので、その後釜を引き継いだ形になる。
店は、一族の長男達が代々受け継いできた宝であった。
その青年は、それこそ幼い時からこの店の手伝いをしていた。その時間の中で彼は、いつからだっただろうか、毎年春になると一度だけ訪れる男性、その人が来店する事で新しい春の訪れを実感するようになっていった。
その男性は、その国の中でも東側の地域で暮らす民族の血統らしく、鷲のくちばしのような鼻、鷹のような鋭い目つき、赤みを帯びた茶色の瞳が特徴的だ。しかし、年が過ぎる毎に顔立ちこそ老けつつも、衰えを感じさせない姿勢と体躯が何よりも印象的だった。
その男性は、毎年、店内の左端の席に座り、マスのムニエルと軍隊の嗜好品としても卸されている安いビールを注文する。ジョッキに氷を山盛りに入れて欲しいと言う注文が独特だ。青年としては、もちろん自信を持って提供するが、男性が頼むそれらは決して人気メニューと言うわけでは無かった。
湖の氷が全て溶けきったある日、それは丁度その国の戦勝記念日であり終戦記念日であり、そして戦災慰霊日でもあった。何にせよ、それら七十周年を迎えたその日は、やはり例年通り客足は極端に少なかった。
それでも毎年、いつも通り開店する。それは、この店でささやかに終戦と戦勝を祝い、居なくなった隣人達を悼む人々が少なからずいるからだ。
今年はその日に春が訪れた。男性はすっかり老成しており、頭髪は変わらず豊かながらもその色は曇り空のような灰色に変わっていた。
まだ客は入っていなかったため、その日一番の客であった。男性はまた、マスのムニエルと安いビールを頼んだ。山盛りの氷も忘れていない。
十分と少しが過ぎて料理が完成し、青年は男性の席までそれを運んだ。
「お待たせしました、マスのムニエルとビールです」
「ありがとう」
青年が皿とジョッキを置いて席を去ろうとすると、男性がポツリ、と呟いた。
「……貴方は、若い頃の貴方のお祖父さんに似てきた」
懐かしむような、そしてまるで祖父母が孫の成長を喜ぶときのような、そんな声音だった。しかし、それよりも青年は、男性の口から自身の祖父の話題が出てきた事に驚いた。思わず振り返る。
「彼は……貴方のお祖父さんは私の、数少ない友人だったのですよ」
男性は、湖を眺めジョッキを手にしながらそう話した。
何故、今? 唐突に?
青年は戸惑った。取り乱すほどでは無いが、あまりにも突然の事過ぎてどうしたものかと少し困る。
「……いや、失礼。口が緩くなった老人の独り言だと思って、どうか聞き流して戴きたい」
青年の様子を察したのか、男性はそう言って食事を始めた。
店の外、町の中心部の方向から軍隊の厳かながら誇らしげな行進曲が流れてきて、賑やかな事を知らせる。
男性はジョッキを傾けながら、湖の方の慰霊碑をぼんやりと眺めていた。
やがてビールが空になり、氷が全て溶けきった頃。男性がムニエルを食べ始めた。
作りたての湯気は立っていない。