カラスでなぜ悪い
僕は空を飛んでいた。あまりの展開に、何も言葉が出てこない。頭がぼんやりとして、現実感がない。ただ、僕の遥か下で動いている人々の姿や、いつもよりもずっと近い空の景色だけは、はっきりと認識することができた。ここはどこだ。なぜ僕は空を飛んでいるのだ。
僕はいつも通りに高校へ行き、帰って母親の作った唐揚げを頬張った。いつもより味が薄かったから、塩とレモン、時々カレー粉をかけた。カレー粉をかけた唐揚げはなぜこんなにもご飯に合うのだろうか。そんなことを考えながら、眠りについたはずだった。つまり、これは夢なのだろう。僕は夢の中で、空を飛んでいる。しばらく風に身を任せていると、飛び方がわかってきた。右へ、左へ。上へ、下へ。まるで重力なんて存在しないかのように、自由に動き回ることができた。頬に当たる風が気持ち良かった。
「おい」
後ろから、突然声をかけられた。僕は驚いて、少しバランスを崩してしまった。すると、後ろから一羽のカラスが飛び出して来た。黒い羽が美しい、大きなカラスだった。
「お前、新入りだな?」
カラスは落ち着いた低い声で語りかけてきた。新入り、ということは僕もカラスなのだろうか。なぜよりによってカラスなのだ。どうせ夢なら、もう少しかっこいい鳥になりたかった。鷹とか、鷲とか。
「おい、無視をするなよ」
考え事をしていたせいで返事ができなかった。申し訳ない。しかし、僕は話すことができるのだろうか。夢の中とはいえ、くちばしから発声をしたことはない。
「すいません、少し考え事をしていて」
自分の声だった。少しだけ安心した。
「そうか。まあ、考えることばかりだよな。いきなりカラスになったのだから」
僕は驚いた。目の前のカラスは、何者だ。
「今なんて?僕がカラスでないことを知っているのですか?」
大きなカラスは、少し微笑んだように見えた。くちばしが少し傾いたから。
「そりゃそうさ。だって目の前にいきなり現れたからな。俺もそうだった。お前はすぐに飛べたからセンスがありそうだな」
このカラスは、さっきから気になることを平然と口走る。
「いきなり現れた?俺もそうだった?ちょっと何を言っているのかわからない」
「そのままの意味だ。お前は、ついさっき空中に生じた。そして、俺も同じく気がついたら空を飛んでいた。人間として眠りについたはずなのに」
「人間として?まさか、あなたも人間だと?」
「ああ、かなり昔の話になるけど」
このカラスは何を言っているのだろう。というか、そろそろ目覚めてもいい頃じゃないのか。目覚めろ、僕の意識。
「お前、夢を見ていると思っているだろ?俺もそうだった。ただ、残念ながらこれは夢じゃない。現実離れしているけどな」
「夢じゃない?そんなまさか、どこの世界にいきなりカラスになる人間がいるんですか」
「残念ながら、ここに二人いる。そして数えきれない程にな」
「数えきれない?」
「ああ。この世のカラスは全て、元人間だ」
僕は大笑いした。ガーガーと汚い音が響き渡った。会話以外ではカラスの声になるらしい。
「そんなバカなことあるわけないでしょう。ツッコミ所が多すぎて追いつきませんよ」
「お前はこんな話を聞いたことはないか?カラスは鳥類のなかでずば抜けて知能が高い。カラスのヒナや死骸は街中で発見されない。これはなぜだと思う?」
「まさか、元人間だから、とか?」
「そのまさかだ、俺たちは人間だった。そして、気がついたらカラスになっていた」
そんな酷い話があるのだろうか。朝起きたらカラスになっていた、なんて。朝起きたら毒虫になっていた小説なら知っているが。
「混乱しているな。まあ、しばらく飛んでみるといい。これが夢なのか、現実なのかわかるはずだ。」
そう言い残して、大きなカラスは速度をあげた。僕は、グチャグチャの頭を抱えて、彼を追いかけた。速度を上げると、風が強くなった。地上では感じることができないような風だ。空中を舞う砂埃が容赦無く僕の目に入ってきた。その、妙なリアルな感覚に僕は少し震えた。いつの間に、僕はこんなに精巧な夢をみるようになったのだろう。
しばらく飛び続けて、僕はまずいことに気がついた。トイレに行きたい。本当に突然、激しい便意が襲ってきた。我慢できない。しかし、もしここで出してしまったら、現実の僕も同様に漏らすかもしれない。高校生にもなって、布団を汚したくはない。何とか目覚めろ、僕の体。時間にしてどれくらいだろうか。数分が何時間にも感じられた。僕は頑張った。これまでにないほど、頑張った。しかし、我慢には限界がある。これは人間であっても、カラスであっても同じことだ。気がついたら僕の便意は無くなっていた。音もなく、白い物体が発射された。ああ、母親に何と言い訳をしよう。しかし、不思議なことに僕は目覚めなかった。流石に、これはおかしい。夢の中でトイレに行きたくなったら、まず目が覚める。それに、出してしまったなら、なおさら。僕の眠りはそんなに深い方ではない。
「おお、ずいぶん溜め込んでいたな」
前方から、聞き覚えのある声が飛び込んできた。先程のカラスだ。
「人の排泄を見ないでください、趣味の悪い」
「俺だって好きで見ていたわけじゃない。カラスは色々と勝手が違うからな。助けようと思っていたが、余計なお世話だったか」
行動はズレてるが良いカラスのようだ。良いカラス、何て言葉があるかは分からないが。
「しかし、これでわかっただろ。これは夢なんかじゃない。人間の夢はここまで精巧にできてはいない。残念ながら」
嘘だ。僕はそう叫び出しそうになった。嘘だ、嘘だ、嘘だ。こんなことがあるはずがない。けれども、頭のどこかで納得している自分がいた。これは現実なのだ。僕はもうカラスなのだ。恐怖と、絶望が同時に襲ってきた。ついでに空腹も。しかし、この体では涙も出ず、お腹の虫も鳴かなかった。
「お腹が空きました。」
僕はカラスに甘えることにした。考えることが面倒臭くなっていた。
「そうか、長い時間飛んでいたしな。空を飛ぶことは簡単そうに見えて、中々難しい」
「そろそろどこかで休みたいです。僕はもう疲れました」
「おいおい、急に投げやりになるなよ。まあ、俺も最初はそうだったけど。電柱が見えるか?あそこにとまろう。」
小さい頃、電柱を登っていく人を見て、僕も登りたいと駄々をこねたことがある。まさか電柱に下りていくことになるとは思わなかった。
「知っているか?カラスの足は電位差がない。だから、電柱に止まっても感電しないんだ。」
「考えたこともありませんでした。意外と物知りですね。」
「意外とはなんだ。俺は人間だった頃、中学校の先生をしていたんだぜ」
「しょうもない嘘つかないでくださいよ。」
「嘘じゃねえよ。通知表に1をつけてやろうか」
「やめてくださいよ。僕はこれまでずっとオール5なんですから。親が泣く。」
「成績優秀だったのか。そもそも何歳だ?」
「17です。高二。」
「若いな。そんな歳でカラスになるなんて可愛そうな奴だ。」
「先生なら言葉遣いをもう少し正したらどうですか?」
「カラスに丁寧もクソもあるか。」
「じゃあ僕もタメ口でいいな?」
「カラスにも上下関係はあるからな」
くだらないやり取りをして、少し心が落ち着いた。
「それで、お前はこれからどうするんだ?」
「とにかくお腹が空きました。ご飯が食べたい」
「いや、目先の目的すぎるだろう。もっとこう、何かないのか?」
「何かって、何ですか?人間に戻る方法、とか?これからどうやって生きていこう、とか?そんな事、あなたを見ていたら聞く意味がないことくらいわかりますよ。少なくともあなたは人間に戻る方法は知らないだろうし、カラスになってから時間は経過しているけど健康なようだ。だから、そんな無駄な時間を割く暇があったら、僕はご飯が食べたい」
「お前、冷静だな。俺の時なんかそれはもうわめき散らしたものだが。」
「まあ、一応オール5なんで」
「やかましいわ。じゃあ、飯を取りに行こうか。」
「唐揚げがいいです。」
「食べられるわけないだろう、馬鹿野郎。どこの世界に揚げたての唐揚げを頬張るカラスがいる。どちらかというと揚げられる側だ」
「冗談ですよ。ただ、カラスが食べるものをあまり考えたくなかっただけです」
カラスが食べているもの、農作物、ゴミ、巣に置いていかれた小鳥。どれも、おぞましい。
「わかっているとは思うが、俺たちの食べ物は限られている。中でも狙い目は道に落ちている人間の残したものだ」
「ゴミ、ですか」
「その通り。ゴミは襲ってもこないし、人間に殺される可能性も低い。その割にカロリーの高い食品にありつける、ローリスク、ハイリターンだ」
「一番大きなリスクを忘れていませんか。生ゴミなんか食べたくない。周りの人に迷惑がかかるし」
僕にとっては、当たり前のことを話したつもりだった。しかし、その瞬間、カラスが鋭い目つきで僕を睨みつけてきた。
「お前の今の姿は何だ?」
「カラス、です。」
「カラスが、好き嫌いを言って生きていけると思うか?カラスが人間の迷惑を考えて生きていけると思うか?」
「待ってください、確かに姿はカラスですけど、僕は人間だ。人間が食べ物の好みを言って何が悪い、人間の迷惑にならないように生きたいと思うのは普通じゃないですか。」
目の前のカラスは、ため息をついた。喉の奥がグルグルと鳴った。
「さっき自分で言っていたじゃないか。お前はもう、カラスなんだよ。この先ずっと」
「ゴミの袋には大抵、ネットが貼られている。わかるよな。だが、俺たちには意味がない」
僕は、カラスの動きを見ていた。カラスは手慣れた様子でネットをつまみ、横にずらした。
「ここまで来たらもう簡単だ。好きな袋を漁ってみろ」
そう言ってカラスは手前の袋を破り、くちばしを突っ込んだ。生臭い香りがあたりに漂った。カラスは道にゴミを散らかしながら獲物を探していた。僕はそれを黙って眺めていた。
「おい、何をしている。腹が減っているだろ」
「食べたくないです。そんなことしたくない」
カラスは顔を上げ、僕の顔を見た。そして、また袋をあさり始めた。カラスのクチバシの先に、リンゴの芯を加えていた。茶色に変色していた。カラスは美味しそうに食べた。
「そのまま見ているなら、それでもいい。お前の好きなように生きればいいさ」
カラスはそう言って、ゴミ袋から顔を上げて飛んでいってしまった。僕の目の前には散らばったゴミと、ゴミ袋だけが残った。空腹は限界に近づいていた。しかし、それでも食べることはできなかった。僕はもう一度電柱の上に飛び立ち、時間が過ぎることを待った。何故こんなことになってしまったのだろうか。僕は、何か悪いことをしたのだろうか。そんなことを考えていたら、下から女の人の声が聞こえてきた。
「あらー、またカラスにやられてるわ。道を散らかして、本当に迷惑な生き物ね全く」
近所に住んでいるおばさんだ。当然の感想だろう。僕だって同じような感想を抱くだろうから。カラスは害獣だ。人間が生活を送る上で、邪魔な存在なのだ。おばさんは、ゴミのネットを直して立ち去って行った。
どれくらい時間が経っただろうか。あたりはすっかり暗くなっていたが、眠気は襲ってこなかった。空腹があまりにも強かったから。
お腹が減った。今朝から何も食べていない。母さん、ご飯を作ってくれよ。唐揚げが食べたい。いや、何でもいい。食べられるものなら、何だっていい。思考がボヤける。意識が遠のく。気がついたら、僕は地面に降りていた。ネットをずらし、手頃な袋にくちばしを突っ込んだ。ぐちゃりとした、液体のような、固体のような感触がした。これが何なのかわからない。それでも僕は、くちばしを開き、飲み込んでいた。口中に生臭さが広がっていった。味は特になく、ただ臭いだけの物質だった。しかし、腹は満たされていった。僕は無我夢中でゴミ袋を漁った。道が汚れようが、汚いゴミに触れようが、関係なかった。
僕は呆然と目の前の景色を眺めた。僕は何てことをしてしまったのだろうか。食べなければ、僕は死んでいたかもしれない。しかし、これは人間がやることではない。これは、カラスが、害獣がやることじゃないか。
「腹は膨れたか?」
振り向かなくても、例のカラスであることがわかった。彼の声は、害獣とは思えないくらいに、優しかった。
「僕は、ゴミを食べました」
「ああ、見ていた。いい食べっぷりだ」
「僕は、道を汚しました」
「仕方ないだろう、こうしなければ食べられないからな」
「僕は、人間をやめてしまいました」
「君はカラスだからな」
「何で僕を気にかけてくれるんですか」
「俺は先生だからな。辛い立場にいる子供はできる限り助けたいんだ。もう、見て見ぬ振りはしないと決めた」
僕は顔を上げてカラスの顔を見た。彼は、澄んだ目で僕を見つめていた。そして、ふと上空に目をやった。
「今日は天気がいいな。星が綺麗だ」
僕もつられて見上げた。雲一つない夜だった。
「少し空中散歩と行こうか。飛ぶ元気は残っているか?」
カラスは羽を広げ、地面を蹴った。僕も、腹が膨れて力が戻ってきた。今日覚えたばかりの飛び方で、彼の後を追った。
「カラスの生活は辛いか?」
「辛いです。はこれまでで最もまずかった」
「そうか。そうだろうな。でもカラスはそれを食べるしかないんだよ。俺たちだって美味しいものは食べたい。人間が残したものなんて食べたくない。それでも、これを食べないと俺たちは生きていけないんだ」
「僕たちは、何でこんなに辛い目に合っているのでしょうか」
「わからない。目が覚めるとこうなっていたからな」
僕たちはしばらく無言で飛び続けた。僕の前を飛ぶカラスの表情はわからなかった。
「俺は、これは罰じゃないかと思うんだ」
カラスはポツリとつぶやいた。これまでに聞いたことがないくらい、か細い声だった。
「罰?」
「俺にとっては。俺はダメな教師だったから」
「ダメな教師って、生徒を殴ったとか?」
「違う。俺は、生徒を死なせてしまった。いじめられていた。そして、自ら命を絶った」
僕は何も言うことができなかった。黙って飛んでいると、山が近づいてきた。
「俺たちが眠るのは、基本的に山の中だ。昼は街に出ていき、餌を取る。でも今日はこの山を越えてみよう」
カラスはそう言って、山の中へ飛んでいった。僕は慌てて追いかけたが、街灯もない山の中では何も見えなかった。ただ、前を飛んでいるカラスの声だけが頼りだった。
「俺はダメな教師だった。俺は、クラスでいじめが起こっていることを知っていた。それでも、何もしなかった。いじめられている子は変わった子供だった。多少周りからいじられてもしょうがないと思っていた。彼の変わっている所を周りが指摘して、彼が反発する。コミュニケーションの一種だと思っていた」
暗闇の中、カラスの声だけが響いていた。その声は怒っているようでもあり、泣いているようでもあった。
「彼は周りから、自分の変な所を指摘されるのが耐えきれなかったのだろう。そして彼は、遺書を書いた。まだ十代の子供が、生まれてごめんなさい。変な人間でごめんなさい。そう言い残して自ら命を絶った。そして俺は、次の日目が覚めたら、カラスになっていた。これは、俺の罰だ。俺は彼を救えたはずなのに。俺が見殺しにしたようなものだから」
ずいぶん長い間、真っ暗な山道を飛んでいた。山のどの辺りなのか見当もつかなかった。
「これは、呪いのようなものでしょうか」
「わからない。俺だけかもしれないし、皆そうなのかもしれない。お前は何か心当たりはあるか?」
「大きな出来事が起こったわけではありません。ですが、一つだけ、一人だけ心当たりがあります。僕には、幼稚園の頃からの友達がいました。彼は小さい頃からどこか落ち着きがなく、気がついたら爪を噛んでいたり、突然走り出したり、とにかく変わっていました。だけど、心優しく小さい頃は周りにも馴染んでいたように思います。僕も彼のことが好きでした。しかし、中学に入ると彼に対する周りの反応は変わっていきました。確か女子が言い始めたと思います。彼のことを不潔だとか、気味が悪いとか。そして、周りの男子も便乗して彼を批判するようになりました。日に日にエスカレートして、彼は最終的に誰からも話かけられなくなりました」
「その子は、何か反発しなかったのか?」
「何も。彼はただ黙っていました。優しい男なので、衝突を避けていたのかもしれません」
「そして、お前はどうしたんだ?」
「特に何もしませんでした。僕は、別の友達ができて、そいつらと遊ぶことが楽しかったので、いつのまにか彼と話すことは無くなりました。ただ自然に離れてしまっただけです」
「本当にそれだけか?」
「何が言いたいんですか?」
「別に友達ができたことは理解できる。しかし、その子のことを思い出すということは、何か罪悪感があるんじゃないのか?」
「罪悪感?僕は何も悪いことをしていません」
「ああ、決して悪いことはしていない。当たり前のことだ。一般的に言ってね。ただ、俺は君がどう思っているのか知りたいだけだ。お前は今一人の高校生ではなく、ただの一羽のカラスだ。何も気にすることはない。自分が感じたこと、思ったことを言ってくれ」
何故見ず知らずのカラスに自分の本心を語らなければならないのだ。僕は一瞬酷く憤ったが、すぐに考えを変えた。これまでの行動からこのカラスは決して悪いカラスではない。本当に僕のことを心配してくれている。それに、彼にだからこそ、本心を語れるのかもしれない。僕は大きく息を吸い込んだ。
「さっき言いましたよね、彼のことが好きだったって。そのままの意味ですよ。僕も例に漏れず、彼のことが気持ち悪くなりました。彼は僕の想像できないような行動をする。何の悪気もなく、普通の人間なら決してしないことを。いくら優しくたって、気持ち悪いでしょう。僕とは何か違うし、周りとも違う。そんな男と一緒にいたら、僕まで変な人間になってしまいますよ」
「まあ、お前は変な人間どころか、カラスになってしまった訳だが」
「何で僕なのですか!ただの古い馴染みだからって、こんな酷い仕打ちを受ける理由はないでしょう!」
「最近はその子と話すことはなかったのか?」
「つい最近、一度だけ。彼が自分の頭をかいて、爪に残った匂いを必死に嗅いでいたんですよ。気持ち悪いでしょう。皆ヒソヒソと悪口を言っていました。オエーッと声に出す女生徒までいました。流石に僕も不憫に思って、後でこっそり彼に話しかけました。そんな事をするから、皆君から離れていくんだよ、と。そうしたら、彼は珍しく狼狽して、そのあと少し怒ったような表情になりました。僕は親切に教えてあげただけなのに。自分がそんな気持ち悪い行動をしないように気をつければ良いだけなのに」
僕は話しながら、つい熱が入ってしまった。僕は良い事をしたじゃないか。皆、他人が自分のことをどのように見ているのか想像しながら、嫌われないように努力しているのだ。それも出来ない彼の怠慢だ。
「まあ、お前の言うことは正しいは思うよ」
「ですよね!人の嫌がる事をしなければいいだけなのにー」
「そうだな。ちなみに、お前は今日ゴミを漁ったよな。そのことについてはどう思う?」
「それは別でしょう。僕はああしなければ飢えて死んでいました。そもそも、ゴミを漁るように言ったのはあなたじゃないですか!何で今更責められなきゃいけないんだ」
「俺は何も責めてはいないよ」
「でしょう!そもそも」
「うん、お前は何も間違えていないよ。賢い子なのだろうな。周りに合わせて行動できる能力を持っているし、そのために努力もしている。でも、お前はゴミを食べざるを得ない状況になり、食べた。このことは世間一般的には明らかに間違ったことだ。それでも、自分を正当化できている。そうしなければ死んでしまうという理由があるからだ。じゃあ、こう考えることはできないか?幼なじみのその子も生きるためには世間一般的には変な行動をするしかなかった、と」
「生死をかけた状況と同じにはできません」
「同じだよ。その子はそうしなければ落ち着かない。やりたくてやっているわけではない。きっと、その子自身も悩んでいるだろう。それでも、やるしかなかったんだ」
「我慢すればいいだけでしょう!」
「今日食べる事を我慢できなかったお前が、そんな事を言うのか」
僕は、何も言うことができなくなってしまった。確かに、僕はあまりの空腹に理性が飛んだ。彼にとっても同じだったのだろうか。僕たちから見た奇行は、彼にとって食事の様に大切なものだったのだろうか。
「俺はカラスになって長い。お前ではまだ考えられないような汚いこともやった。命も奪ったこともある。何回も死のうと思ったよ。それでも、これは自分にとっての罰だから、何とか耐えて生きてきた。そうして何年も経ち、一つ気がついたことがある。それは、世間一般の考えなんか生きるためには邪魔でしかないってことだ。視点が変わると全てが変わる。どんなに嫌なことでもやらなきゃいけないんだ。そして、慣れてしまえばなんてことはない。きっと俺の生き方は周りから見たら哀れなものだろう。それでも、俺は必死に生きたよ。そのことは誰にも否定させない」
「周りはもっと幸せそうに生きているのに、辛くないんですか?」
「辛くないさ。俺の人生だもの。ああ、半分くらい鳥生になるのか」
彼があのとき怒ったのは、僕が彼から離れていったことではなく、僕が一方的に彼を哀れんだからだったのだろうか。
「それにな、この生活も悪いことばかりじゃないぞ。どんな生活にも、楽しいことの一つや二つ見つけることはできる。今日はお前に、その中の一つを見せてやろう」
カラスはそう言ってスピードを上げた。山をグングンと登っていく。頂上が見えてきた。
「もうすぐ頂上に着く。そうしたら、一気に高度を上げろ。木にぶつかるなよ!」
山は、鬱蒼とした木に覆われており、上空は木の葉に隠れて見えなかった。
「枝とかにぶつかって死んじゃいますよ!」
「うるさい、なんとかしろ!気合だ気合!これだからゆとり世代は」
これだから団塊世代は嫌いだ。僕は出来るだけ枝が少ない部分に向かって上昇した。顔に葉っぱが当たってチクチクして、僕は思わず目を瞑った。やはりカラスの生活はろくな事がない。糞を垂れ流し、ゴミを漁り、変なカラスに説教されて。人間に戻りたい。成績優秀、学校の中でもそれなりにうまくやっていたのに。幼なじみとは違って、まともな人生を送っていたはずなのに。体に葉っぱが当たる感触がなくなった。上空へ出たようだ。僕は、恐る恐る目を開けた。
闇になれた僕の目に飛び込んできたのは、視界全体に広がる光の粒だった。街灯もない真っ暗な世界の中に、無数の星が瞬いていた。流れ星が視界に入っては、消えていった。宇宙に行ったことはないが、きっとこんな景色なのだろう。これまで何度も星空を眺めてきたが、こんなに綺麗なものは見たことがなかった。
「俺たちは今、人間では決して来ることができない高度にいる。人間では決してできない態勢にいる。だからこんなにも美しい」
「これまでの人生で最も綺麗かもしれません」
「高校生が生意気な。少しは元気が出たかよ」
このカラスは、きっといい先生だったのだろう。ダメな教師だと言ってきたけれど、僕はこんなに親身になってくれる先生と出会ったことはなかった。
「お前はカラスを哀れんでいるだろう。こんな生活を送りたくないと思っている。それでも、こんなに綺麗な景色に出会えるなら悪くないと思わないか?だから、まあ、世間一般なんて忘れて精一杯生きろよ」
幼なじみの彼にも、こんな世界がみえることがあったのだろうか。幻想的な景色を前にして、ぼんやりと思いを馳せた。
それから僕はカラスと別れ、一人で生きていく術を身につけた。人間と猫には出来るだけ合わないように気をつけた。出来るだけ効率的にゴミを漁るルートを検討した。空から見える、嘘みたいに大きな夕日を追いかけてみたりもした。カラスの言う通りだった。始めは辛くても、慣れればなんて事はない。そして、楽しいことも見つけることができる。
生活の終わりは、突然訪れた。ほんの少し油断しただけだった。ゴミを漁ることに熱心になりすぎて、誤って車道に出てしまい、トラックに擦られた。ひとたまりもなかった。数メートル飛ばされた僕は、鈍い音ともに道路に叩き落とされた。立つこともできず、僕は仰向けになり空を眺めることしかできなかった。夜空にはあの日見た星空には程遠い、まばらな光が浮かんできた。カラスになってからの生活が、駆け巡った。意外にも、僕はカラスの生活を楽しむことができたし、精一杯生きた自信がある。心残りは、カラスになった日、僕を導いてくれたカラスにお礼を言えなかったことだ。今日もカラスは、大きな翼を広げて星を眺めに行っているのだろうか。いつの日か、僕を思い出してくれることがあるだろうか。そんなことを考えていると、視界が赤く染まってきた。そろそろ時間のようだ。
気がついたら、僕はベッドの上で横になっていた。体が異常に重たい。鉤爪も、くちばしも、羽もなかった。ただの一人の人間が横たわっていた。なんとか起き上がり。カレンダーを見ると僕が唐揚げを頬張り、眠りについたあの日のままだった。
「夢だったのか?」
夢だとしか考えられない。大体、人間がカラスになるわけがない。いつも通りの日常に飽きて、変な夢を見ただけだ。世間一般的に考えて。そんなことはわかっていた。それでも、僕の中の何かが強く否定した。夢じゃない、夢であるはずがない。あの苦しみ、あの屈辱、そしてあの夢のような景色、僕が必死に生きたあの生活を夢なんかで片付けることなんてできなかった。
朝になり、母親が作った朝食を食べた。涙が出るくらい美味しかった。卵焼きと味噌汁という何の変哲とないメニューだというのに。人間は何て贅沢な暮らしをしているのだろう、と憤りを感じるほど、美味しかった。そして僕は制服に袖を通し、家を出た。いつも通りの日常だった。ただ、歩くことが久しぶりで危うく転びかけた。体制を立て直したその先に、幼なじみが歩いている姿が見えた。下を向いてガニ股で、首を振りながら歩いていた。気持ち悪い歩き方だ、と思う。それでも彼にとっては普通の歩き方なのだ。彼にはどんな世界が見えているのだろう。カラスにならないと、星空を見ることは出来なかった。彼でないと見えないことがあるかもしれない。そのほんの少しでも、共有することは出来ないだろうか。昔の僕は、出来ていたはずなのだ。僕が勝手に離れて、勝手に哀れんで。いつのまにか見えなくなったその景色を、僕はもう一度見てみたい。そして、きっと僕の中にしかない景色も見てもらおう。
僕はふらつく足取りで、彼の丸い背中を追った。遠くで汚いダミ声が聞こえた。