107話 あと春をコンプリートすれば家の中だけで四季を楽しめる最高の空間になるのでは? 桜の木でも生やそうか。
シリアス空気をぶっ壊して、レイの新ファッションを見ることもできず落ち込んでいる俺の気持ちをぶっ飛ばすように、妹はわけのわからないことを口走った。
「あれ、聞こえなかった? 海行こうよ。もう決めたから確定事項ね」
いや聞こえてたんだけど、理解したくなかったというか。
もう一回言われてしまうと理解せざるを得ない。妹がわけわからないことを言っているという事実を。
というかこんなセリフ、鍋を囲みながら言わないセリフランキング一位だろ。
鍋を囲みながら暑い暑いと言っているのに、そんなさなかに海に行こうという。
もう俺の家の中だけ四季が無茶苦茶だよ。
そのうちシンクから桜が生えてきたりしないよね?
そもそもどうしていきなり海なの。
「今年の夏海行けなかったんだよねえ。こっちに来たのもいい機会だし、せっかくだから行きたいなあって。ほらなんか自然と対話したい時ってあるでしょ? 今がその時なのよ」
自然と対話したい時なんてあるのか?
あー今日は山と話したいとか今日は海とだべりたい気分~とか?
もしかして登山家が唐突に山に登りだすのってそういうことなのか?
山が語りかけてきたからその山に登ったみたいな。
……すごいな登山家。
「山だっけ?」
「海だっていってるでしょ! こんな格好で山なんて行こうものなら、登山家に殺されるよ!」
へー登山家って恐ろしいな。いやこの場合は山の方が恐ろしいのか。
山は恐ろしいぞということを体現するために、登山家がカジュアルな格好で山に登りに来ている愚かな人間を殺害するのか。
……やっぱり登山家って恐ろしい。
確定とまで言い放っている妹を止めることはもう誰にもできない。
いくら話をそらそうとも俺がOKするまで永遠と海の話をし続けるのだろう。
まあきっと俺がOKしなくても、勝手に海に行くことになってるんだろうけど。
まあそんな妹のとんでも的外れ季節外れな発言のおかげで、多少なりとも感じていた居心地の悪い空気が霧散した。
あのタイミングで言ったのは意図していったのか……いや、こいつのことだしそれはないな。
その後は他愛もない会話をしながら、鍋を無事完食した。
ただその日レイが俺に触れようとしてくることはなかった。
いやまあいつも実際には触られてはないんだけどね……。
「……ん?」
眠りについて何時間くらいか。
ふと目が覚める。
ベッド近くの時計に目を向けると時刻は2時22分になっていた。
おーぞろ目だ。なんで目が覚めちゃったんだ。めちゃくちゃ深夜じゃん。
明日も仕事だし早いところもう一度眠りたいものだが、なぜか目が冴えてしまって眠りにつけそうにない。
今日はなんか寝つきも悪かったし、眠りが浅かったのかなあ。
鍋なんて普段食べないものを食べたりしたから、身体がびっくりしたのかもしれない。
……なんだか散歩に出たい気分だ。
もしかしたら俺も目覚めてしまったのかもしれない。聞こえるようになってしまったのかもしれない。自然の声というやつが。
そんなしょうもないことを考えながらも体はすでに起き上がり、外に向かって歩き出していた。
玄関を開けると涼しい風が体に当たる。
そうだよな。もう秋だもんな。歩くにはちょうどいいかもしれない。
ちょっと黄昏た雰囲気をまとった気になりながらあてもなく、家の周りをぶらぶら徘徊する。
ふと歩道のど真ん中で立ち尽くす人影が見えて、足を止める。
こんな時間に誰だろう。なんて考えるまでもない。
俺のよく知っている同居人、レイだ。
気づけば彼女がたまにいる道まで出ていたようだ。
月明かりに照らされて淡く輝いているようにすら見える、でも存在感が限りなく薄くなっている時のレイは、可愛いではなく美しく見える。
これまでも何度かそんなレイの姿を見ることはあった。
でも今日はこれまでとは違った。
いつもだったら縁石に寝転がってぼーっと空を見上げているのに、今日の彼女は縁石の上でただ静かに立っていた。
ボーっとしているのは変わらないが、たまに我に返ったように顔をぶんぶんと横に振って、わたわたとその場でせわしなく足踏みをし始める。
顔は手で覆っているから表情は見えないが、今日はなんだか様子がおかしかったし悩み事でもあるのだろうか。
本当は近づいて何か声をかけるべきなのかもしれないが、なぜか今日はレイに声をかける気にならなかった。
なぜかそっとしておいた方がいいと思った。
もしかして飯の時隣に座ってくれなかったこと、無意識に結構ショックを受けてんのかなあ。
まあレイもたまには一人になりたいこともあるだろう。
今は妹もいて、自分の部屋でも一人になれないわけだし。
そう自分によくわからない言い訳をして、程よい眠気が来たところでまだバタバタとよくわからない動きをしているレイから目を離し、自分の部屋へと戻った。
結局そのあともあまりしっかりと眠ることはできなかった。