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グローバル化と二面を行き来する技術

作者: 薄氷

『グローバル化』

 随分と聞くようになっているこの単語。しいて言えばもうこの語を知るなんていうのは令和に生まれた人間たちには当然なことであるのかもしれない。今平成の途中に生まれた私ですら、電話というものが携帯できるなどということや、三種の神器などといって家電製品が崇め奉られていた時代はすぎさり、いまでは当たり前のように存在しているが、昭和の人間にとっては当たり前ではなく、驚くべきことであっただろう。


 近年、この“現象”が起きることによって、さまざまなことが先進的になったり、身近なことでも便利になったことが多いと思う。しかし、これによって“古き良き”と言われた文化が忘れ去られてしまうことや、不必要にかかわる人間が増えてしまうことによって悪いことに巻き込まれてしまうことが悲しい。


 「僕は友達がいない」

 こんな言葉を見聞きすることが多くなってはいないだろうか、私はこれの言葉を聞いたときに悲しくなる。これこそ『グローバル化』の弊害なのではないだろうかと思わずにはいられない。インターネットの世界が第二の自分の友人関係を構成するチャンスと機能するのが現代なのだろうが、それこそが“古き良き”になってしまうのが許せない。個人的には逃げに走ってしまっているのではないのかと思ってしまう。


 確かに不特定多数の人間とつながることができる現在、将来的にも身近にAIなどと触れ合う機会が増えることも多くなるのだろう。それによって新たな可能性を感じることができるのは事実。しかし、それをいまこの成人前にやってしまってもよいのだろうか。青年期と呼ばれる中高校生あたりにこの“革命的”ともいえるこの『グローバル化』に触れることによって確かにすばらしいものを得ることができるが、逆に得られたものを失ってしまう可能性だってあるではないだろうか。


 「温故知新」

 こんな言葉を使う機会すら減るぐらいに、最新の素晴らしいことで先進していくことがよしとされる時代になることは発展することにおいては重要なことなのかもしれない。しかし「原点回帰」することで「温故知新」することも大事であるのも、また一つの真実ではないのだろうか。


 『グローバル化』

 素晴らしい言葉であるのは変わりないのかもしれないが、その言葉の偉大さの陰に隠れて消えてしまうような要素は限りなく少なくなくてはいけないと思うのである。

 インターネットと現実の二面を使いこなすことが令和の時代には必要なのかもしれない。


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