闇の勇者、キレる。
「……ふっ!」
ソプラは、相手との実力差をきちんと認識しながらも焦ってはいなかった。
生存闘争の基本は、決して無茶をしないこと。
そして自分に出来ることだけを忠実に行うこと、である。
この場合第一原則には反しているが、ソプラはアルトを逃すことだけを考えていた。
「キャキャ!?」
ソプラの踏み込みが、キツネ獣人が考えるよりも速かったのだろう。
最初の刺突を避けるために一歩下がったので、少し有利な状況になった。
ーーー1人、始末出来れば。
ソプラはそのまま、連続で刺突を放つ。
「キャ、ギ、この!」
キツネ獣人は小刻みに頭を動かして剣先を避けると、手に持ったダガーでこちらの剣を受けた。
ギィン! と音を立てて受けられた剣とダガーが拮抗するが、ソプラは動きを止めない。
ーーー最後に戦ったノイルより、遅い!
あの時の彼の動きは全く見えなかった。
キツネ獣人は学校の生徒たちよりは遥かに速いが、それでも目で捉えられる程度だったのだ。
剣を素直に引いて身をかがめたソプラは、そのままキツネ獣人の足を払う。
武術でも、筆記でも、ソプラは一番だった。
その中には当然体術や人体構造の基本も含まれている。
「キャ!」
重心を乗せていた足を払われてコケたキツネ獣人は、背中から倒れて後転しようとしているように見えた。
ーーー体勢を立て直す前に、トドメを……!
だが、ソプラは時間を掛けすぎたようだ。
背後で巨大な何かを振り上げるような微かな風切り音が聞こえて、とっさに横に飛ぶ。
凄まじい音を立てて石畳を砕いたのは、オーガのオノの一撃だった。
ーーーッ!
背筋がゾクリとするような恐怖は、養成学校の授業では感じたことのないもの。
本物の戦闘がどういうものかを今初めて知ったソプラは、一瞬思考を途切れさせ……。
「〝弱体付与〟!」
その隙に、キツネ獣人がデバフの魔法を行使する。
ーーーしまっ……!
〝強襲形態〟を解かれたソプラは、ガクン、と動きが鈍った。
同時に、オーガが自前のスキルを発動する。
「〝剛力形態〟!」
ただでさえ怪力のオーガがさらにパワーを増強し、オノを振るった。
「ッ!」
避け切れない。
剣を立てて腕を添え、その一撃を受けたが……かつてない衝撃とともに簡単に刀身をへし折られ、同時に腕の骨がメキィ、嫌な音を立てた。
「〜ッ!!?」
目が眩むほどの衝撃とともに視界が揺れ、しかもグルンと天地が回る。
その後、もう一度衝撃。
自分が吹き飛ばされて地面に転がったのだ、と認識したのは、空を塞ぐように眼前にオーガの顔が見えた時だった。
「カッ、ガハッ……!!」
衝撃が強すぎて麻痺していた感覚が戻ってくると同時に、熱さにも似た猛烈な痛みが右腕から襲って来る。
ーーーッ息が……!!
空気を吸うことが出来ないまま、ソプラは体を丸める。
その拍子に右の肋骨にも鋭い痛みが走った。
こちらにもヒビが入っているのかもしれない。
「かひゅッ……!」
ようやく息を吸えたが、全身を襲う痛みがさらに増した。
ーーーたった、一撃、で……。
武器を失い、動くことすら出来なくなったソプラの肩を掴んで、オーガは強引に引き起こした。
「……!!」
「おい、生きてるかァ?」
動かされただけで、もう痛みなのか熱さなのかすら分からないものが全身を駆け巡って頭の奥を突き刺して来る。
自然に涙が滲んできたのを見て、目の前にあるオーガの顔が愉しそうに歪んだ。
「おぉ……いい顔すんじゃねーか」
臭い舌でベロリと頬を舐めとられた後、ソプラの頬と耳にいきなり硬いモノが叩きつけられる。
再び視界が揺れ、左耳が聞こえなくなったと同時に顔の半分が痛みを感じた。
口の中に血の味がしたが、歯が折れたのか頬の内側が傷ついたのかすら分からない。
痛みは倍に顔が腫れ上がったような痺れに変わり、オーガが血のついた拳を見て満足そうにうなずいた。
「キャキャ、ビビらせやがって……!」
「悪い子にゃ、たっぷりお仕置きしてやらねーとなぁ」
肩から手を離されたか、と思ったら、今度は襟首を掴まれて釣り上げられる。
「ッァ……!」
再び息が出来なくなって、オーガの腕を左手で掴むが、力が入らない。
足をバタつかせると、魔族たちはおかしそうに笑い合った。
「ヒャヒャ、苦しいかァ?」
「逆らおうなんて思うからだよ、バァカ!」
だんだん、痛みすら遠ざかっていき、視界が端から黒く染まっていく。
ーーーこのまま、死ぬ……?
そんな風にぼんやり考えたソプラは、気がかりだったことを思い出した。
ーーーアルト、逃げれたわよね……。
勝てないことなんか、見た瞬間に分かっていた。
少しでも時間稼ぎをしたかったが、それもあまり出来なかったけど。
今、自分を殺そうとしてるなら、まっすぐ逃げていればもう追いつけないところまで行っているはずだ。
ソプラが微かに笑みを浮かべると、これも遠いキツネ獣人の声が聞こえる。
『キャキャ、笑ってるぜ。狂ったか?』
『それならそれで好都合だがな……』
声が聞こえたのは、そこまでだった。
完全に視界が闇に閉ざされ、何も感じなくなる瞬間に、思い出したのはノイルのことだ。
ーーー私、弱っちいよね……ノイル。
強くなったつもりでも、結局あの幼馴染みに手加減されていただけだったのだから。
ーーーやっぱり、私、あなたより強くなれないのかなぁ……。
約束したのに。
ノイルよりも強くなると、約束したのに。
ここで死ねば、それは果たせないものになってしまう。
ーーーごめんね。
心の中でそうつぶやき、完全に意識を失いかけたところで。
ソプラは不意に、落下するような感覚を覚えた。
※※※
ーーードン、と。
ノイルは一切の手加減抜きで、大上段から魔剣の一撃を振り下ろした。
屋敷を飛び出してすぐにアルトと出会い、〝加速特化〟を使って駆けつけたのだが、見えたのは首を吊られたソプラの姿だった。
その瞬間ーーーノイルの頭は沸騰した。
そして駆ける勢いそのままに、オーガの腕を斬り落としたのだ。
「……あ?」
「〝強襲形態〟……!」
間抜けな声を上げるオーガを睨み上げながら、唸るように呪文を口にする。
スキルを変えたノイルは落下して来たソプラを片手で受け止め、返す刃でオーガの反対の腕も斬り飛ばした。
「お? ……おぉ? 俺のッ!? 腕がァアアアアア!?」
「キャキャ!?」
オーガの傷口から飛び散る血飛沫を避けて飛び退いたノイルは、ソプラの様子を確認する。
白く美しい髪が、血に染まっていた。
目を閉じた顔は半分がすでに赤黒く腫れ上がり、口からは血が流れている。
右腕も腫れ上がって、呼吸が少しおかしい。
ーーーだけど、生きてる。
そのことに安心しながら、オーガらから距離を取ったノイルは膝をついて目を閉じ、片手のまま軽くソプラを抱きしめると、耳元で囁いた。
「いい判断だったよ、お前も、アルトも……」
前衛のソプラが時間を稼ぐ間に、アルトがこちらに連絡を入れる。
多分打てる中では最前の一手を、2人とも選択した。
すぐに来れるくらい自分が近くに居たこと。
それも幸いだった。
ーーーでも。
「でも、これは……俺が、ダメだ……!」
ソプラを地面に横たえて、ノイルは再び立ち上がる。
「こ、コゾォオオオオオ!!」
錯乱し、怒りの声を上げるオーガと、その横で青ざめているキツネ獣人の姿には見覚えがあった。
闇の勇者選抜試験で、ノイルが外に飛ばした2人……いや、二匹だ。
ーーー俺のせいか。
魔剣を力一杯握り締めると、ぼんやりと魔剣が紫の煙を纏う。
ーーー俺のせいで、ソプラが傷ついたのか。
街の外では警戒していた。
だからバスに護衛をしてもらったのだ。
しかしクズのやることに街中も街の外も関係なかったのだ。
おそらくこの二匹は、魔都の酒場でノイルたちが話していたのを聞いていたのだろう。
そして転移先を知って、追いかけてきた。
どうやって気配を感じさせなかったのかは分からないが、おそらくは暗殺者らしきキツネのほうの仕業だろう。
「なぁ、お前ら……」
ノイルは、左手で自分の顔を覆いながら、ゆらりと足を踏み出す。
「ソプラはな……俺のもんなんだよ……」
強烈にドス黒く渦巻く感情を押さえつけながら、ノイルはまた一歩オーガたちに近づく。
「ヒッ……!」
と声を上げたキツネ獣人が一歩後ろに下がる。
魔剣から発生した紫の煙は、ノイルの全身に纏わりついて蛇のように蠢いていた。
「なぁ……分かるか……? コイツを傷つけていいのは俺だけ、コイツを愛でていいのも俺だけ、コイツの傍若無人な態度を許していいのも……コイツにあえて勝っていいのも、俺だけなんだよ……」
ソプラを。
「そうして、俺に勝っていいのもーーーソプラだけなんだ」
たかが虫以下の存在価値しかない下劣な品性の魔族如きが、傷つけていい道理などないのだ。
「コイツは、唯一俺を怖がらなかった……崇めもしなかった……ただ横にいて、当たり前みたいに俺を振り回して……そんなヤツは、コイツだけだったんだ……」
ノイルは。
幼い頃から、人とは世界が違って見えていることを自覚していた。
気づいたのは、三歳の時に両親が自分を、理解し難いモノを見るような目で見た時だ。
なぜか、物事が人よりも理解出来た。
両親が何を考えているかも分かり、文字を読めるようになってからは一目でその意味が理解出来た。
先回りして何でもやってしまう上に手が掛からない幼な子。
今なら両親が自分を恐れた理由が分かる。
同世代の子どもたちに、どうしたって馴染めなかった理由も。
だがなぜそんな風になってしまったのか、の意味が分からず、自分を異物だと思っていた時に……孤独を埋めてくれたのは、ソプラだったのだ。
『ねぇ、にょいるは、つよいの?』
隣の家に住んでいた少女は、たどたどしくそう問いかけてきた。
強いよ、とノイルは答えた。
強すぎて、誰とも仲良くなれないけど、と。
ケンカだけでなく、知識でも、体の強さでも、ノイルはその頃誰にも負けなかったのだ。
するとキョトンとした顔をした後、ぬいぐるみを引きずって話しかけてきたソプラは言ったのだ。
『じゃ、わたちがなかよくなってあげゆ!』
満面の笑みでそう言われたノイルは、一瞬その意味が理解出来なかった。
しかし彼女は、ぬいぐるみを持っていないほうの手で、こちらの頭を撫でて、こう続けたのだ。
『よしよしして、にょいるよりつよくなって、いっしょにいてあげる!』
そしたらなかよしね! と。
その言葉に、ノイルは救われたのだ。
人との付き合い方を覚えてからは、友達も出来、両親の態度も軟化したが。
ーーーそれでもソプラは、ノイルにとって誰よりも特別なのだ。
「なぁ……クズども」
だからこそ、そんな宝物を傷つけた連中は、万死に値する。
「俺のソプラは、誰よりも強くなって、俺を一生想ってくれると約束してくれた女だぞ……こんなところで、お前ら如きのオモチャにされていいヤツじゃないんだよ……!!」
「何を、ゴチャゴチャとわけのわからないコトヲォオオオオオオオ!!!」
両腕を失ったオーガは吼え、傷から血を撒き散らしながら、技術も何もなくただ突っ込んでくる。
「ーーー〝英雄形態・狂化〟」
チリ、と脳裏に走った呪文を、ノイルは口にした。
その瞬間、紫の煙が全身と魔剣の刀身に定着して禍々しいタトゥのように変化した。
同時に、ゾワリとそれまで以上の力が体に宿る。
ゆっくりと迫ってくるオーガに、まず刃先を刎ね上げて胸元を斬り裂く。
そして勢いの緩んだ敵の顔面に対して、踏み込みと同時に左の拳を叩き込んだ。
鼻、頬骨、前歯、その全てがへしゃげる感触を感じながら、全力で振り抜く。
『ゴ、ォ、ァ……』
「遅いんだよ」
吹き飛ぶ速度すら遅々としている愚鈍な相手に舌打ちしてから、宙を舞っている間に回り込み、肘を振り下ろして地面に叩きつけた。
そのまま、大きく口を開いているキツネの前に、一息でたどり着く。
『キャ……』
「苦しめ」
両肩、両太腿、肋骨の一本一本、それらの部位に一撃で死なない程度に怒濤の刺突を加えたノイルは、最後に手首の血管を深く裂いて、再びオーガの元に戻る。
そこで、時間の長さが元に戻った。
キツネ獣人の上げる絶叫を聞きながら、虫の息に近いオーガの足に、刃を突き立てる。
「ガッ……」
「なぁ、理解したか?」
グリ、と何度か剣先を捻ってオーガの傷口をズタズタにしたノイルは、顔面を踏みつける。
べキリ、と音を立てて下顎の牙も折れた。
「クズが、クズが、クズが、クズが……! 自分の立場を、理解したか……?」
反応の失せたオーガの体に、そうして何度も刃を突き立てていると、唐突にその腕が掴まれる。
顔を上げて相手を見るとーーーそこに、バスが立っていた。
ひどく静かな目をしており、チラリと足元のオーガとソプラを見比べてから、まっすぐにノイルの方を見る。
「落ち着け、ボウズ。……もう死んでるからよ」
言われて、ノイルはオーガを見下ろした。
胸元や腹はもはや原型を留めておらず、服だった布切れを濡らすただの肉片と黒い血溜まりになっている。
しかし特に何かを感じた素振りも見せずに、隻腕隻眼のドワーフは覇気を込めた太い笑みを浮かべた。
「闇の勇者にゃ相応しい行いだが、嬢ちゃんを大事に想うなら敵の死体を嬲るより先に医者だ。違うか?」
言われて、ノイルは頭が冷える。
ノロノロと周りを見回すと、青ざめたアルトと複雑そうな表情の2人の獣人がこちらを見ていた。
「ソプラ……」
ノイルは彼らから目線を外し、名前を呼びながら幼なじみの少女に顔を向けた。
血を払った魔剣を鞘に収め、彼女に近づいて両手で抱き上げる。
ひどい有様だが、胸元は規則正しい呼吸に戻っていた。
「アルト……」
「な、何?」
ビク、と震える彼女に、怖がらせてしまったことを内心で謝りながら、ソプラを軽く持ち上げる。
「確か、回復魔法、使えたよな?」
「しょ、初級だけど……」
言われたアルトは駆け寄ってきて、呪文を唱える。
すると、ソプラの顔の腫れが少し引いて、苦しそうだった表情が少しだけ和らいだ。
「これでいい?」
「ありがとう」
泣きそうな気分になりながら笑みを浮かべてみせると、アルトはホッとした様子でうなずいた。
「いつものノイルね。驚いたわ。あんなに取り乱したの見たのは初めてだったから」
そんな彼女の言葉に、ノイルは首を傾げる。
「俺が怖くないの……?」
「え? うん。ソプラのことだったから怒ったんでしょ?」
オーガたちを見やって複雑そうな表情をした後に、アルトは肩をすくめる。
「バスさんの言う通りやり過ぎな感じはあるけど、ノイルにも人間っぽいところがあってちょっと安心したし……それに、私じゃ助けられなかったから……」
ソプラの腫れた頬を優しく一度だけ撫でた彼女は、困ったように笑いながら軽く頭を下げた。
「ありがとう、ノイル」
「うん……行こう」
仲間たちにそう言って、ノイルはソプラを抱いたまま歩き出した。




