世に不正が蔓延る時にこそ、新聞記者よ、君たちは死ね
皆さん、こんにちは、ふりがなです。
今回のテーマは、政治における新聞記者の役割を題しまして、過激なタイトルとなりました。
某北国ではですね、政権に批判的なジャーナリストが、時折、車ごと爆殺されます。
先日も、その手のニュースがありまして、ジャーナリストが爆殺されたニュースを見ると、これだから新興国はダメなんだと、突っ込みを入れる人も多いのではないでしょうか?
まぁ、そういう会話があったのですが。
対して、私はこう感想を述べます。
ジャーナリストが殺されるのは、ジャーナリストが真面目に働いている証拠であって、その国が民主主義なら、民主主義の機能している証でもある。
このような、視点は違えども、ジャーナリストへの攻撃を、ある意味肯定する論調を、皆さんは聞いた事があるでしょうか。
ジャーナリズムへの攻撃は、民主主義への攻撃だと言われます。
ジャーナリズムへの攻撃は、民主主義と反する事であるハズなのに、何故、ジャーナリズムへの攻撃そのものが、民主主義の機能している証となるのでしょうか?
この私の論調には、続きがあります。
国民のために死ねない政治家は、民主主義にとって必ずしも害悪にはならないが、新聞記者の死なない大手新聞は、民主主義にとっては害悪でしかない。
という形で続きます。
今回は、政治における新聞記者の役割というテーマと合わせまして、私が死なない新聞記者は害悪であるという発想に至った経緯を、書いていきましょう。
事の始まりは、政治家の暗殺は何故起こるのか、という考察からでした。
読者の皆さんも、考えた事はあるでしょうか?
政治家の暗殺の体系的な原因とは何なのか、という話ですね。
近代の先進各国や、現代の途上国、新興国では、政策の転換期における犠牲者として、もしくは政策の反動に対する政治責任で、時折、政治家が殺されます。
仮に大きな政策の転換で、政治家の犠牲者を必要とするとなると、政治の世界という物は、それが民主主義であっても、常に生贄を必要とするような政治形態であると言えるでしょう。
時代は下がりまして、現代の先進国では、政治家の暗殺は滅多に起こりません。
これは、司法当局の捜査能力が上がったのもありますが、時代と共に、政治に関わる犯罪そのものが多様化し、政治家の生命を奪わなくとも、政策の転換を阻止出来るなど、暗殺以外で目的を達成出来るようになったためです。
有名な所では、中田宏さんの政治家の殺し方があります。
※有りもしないスキャンダルで政治家を失職、政策の転換を止めた例
現代で政治家が死ななくなった理由は、政治家の暗殺の多様性の他には、時と共に、政治家の政治生命と、政治家の人としての生命が、別の物へと変化していったので、政治家は、政治家としては死んでも、人としては死ななくなったとも言えます。
この時代の変化に対して、現代も変わらず生命の犠牲を必要とし続ける職業があると、私は気付きました。
ジャーナリストです。
政治権力という物は、例外なく腐敗します。
それ故、政治は、ジャーナリストの監視を必要とし続け、悪事の再帰性故に、腐敗した政治は必ずジャーナリズムを攻撃し、ジャーナリストに犠牲が出るのです。
三権という分立した権力の他に、四つ目の権力であるジャーナリズムがあることで、近代以降の民主主義は、政治の統治機構を、補完出来るのだが、実は、それには犠牲が付き物だという話ですね。
報道の自由とも言われる、民主主義の根幹の話となります。
先進国では、民主主義の名目上、体制への攻撃となるジャーナリストへの攻撃は、暗黙の了解として、表立ってはされません。
先進国の中で、表立ってジャーナリズムを攻撃してしまうと、国家を越えた横の連帯で、様々な事が暴かれてしまうからです。
ですから、先進国では、ジャーナリストの暗殺は、間違っても爆殺などせず、不審死とすべく慎重に処理されます。
一方で、ジャーナリズムの横の連帯を無視出来る、独裁傾向にある国では、逆に体制の保持として、ジャーナリストは表立って処理される事が多いようです。
これが先に出した、ジャーナリストの爆殺です。
爆殺は、不審死や変死、説明のつかない自殺と比較すれば、とても目立ちますよね。
何故、目立つように殺すのか、目立たないように殺されるのか、それは体制の差にあるのです。
ジャーナリストという職種は、まさに政治家の役割の延長上にあり、政治の世界において、政治家以上の犠牲を必要とする職種と言えます。
そして、この犠牲という面でジャーナリストと政治家には、互換性があります。
現代の政治家の暗殺は、民主主義という横の連帯による他国の介入を招かないよう、慎重に行われます。
結果、民主主義下では、ジャーナリストと同じように秘密裏に、見つからないよう、あの手この手を使って、政治家は政治生命、もしくは命そのものを狙われ、殺されるのです。
対して、横の連帯の薄い独裁傾向にある国では、国家の威信の保持のため、ジャーナリストと同じように、政治家は表立って殺されます。
例えば、北朝鮮の重機関銃による重鎮の処刑は、その典型になります。
このように、ジャーナリストと政治家の犠牲には、同じ傾向の互換性があります。
どのような認識を持ってしても、私たちの政治形態は、政治家の生命とジャーナリストの生命を、生贄のように消費し続けるようにして、成り立っているとも言えます。
それは、民主主義という政治形態でも変わりはしません。
この犠牲を必要とする観点に立った時、では、本来死ぬハズの所で、死なない新聞記者に、果たして価値はあるのか、という疑問に突き当たります。
もちろん、権力の腐敗は不変ではありませんから、相対的に清廉な世では、社会はジャーナリストの死を必ずしも必要とはしないでしょう。
一方で、不正の蔓延ると言われる時代に、権力を監視するジャーナリストが死なない事など、ありえるのでしょうか?
権力の監視という役割を放棄したジャーナリズムは、ジャーナリズムとは呼べない、故に、ジャーナリズムとしての価値などないのではないかと、私は指摘します。
冒頭の私の論調、新聞記者の死なない大手新聞は、民主主義にとって害悪でしかないは、この発想から来ています。
私達の社会は、政治形態の維持のために、死んでくれる人材を必要とし続けているのです。
では、社会の体制として、どのように、私たちのために死んでくれる人材を、用意すればいいのでしょうか?
一見、民主主義と反するこの命題は、民主主義のパラドクスのように見えます。
しかし、新聞記者が命を賭して権力を監視する行為は、欧米の警察官が重火器で武装した犯罪者に対して、命を賭して治安を維持するのと、いったい何が変わるのでしょうか?
結果、警察官と同じように、新聞記者にも殉職者は出るでしょう。
人類の歴史上、腐敗した権力が、重火器で武装した犯罪者よりも、凶悪かつ凶暴で無かった事など、殆ど例がないのですから。
さらに言えば、欧米の警察官が、重火器に重火器で対抗するのと違い、新聞記者は、腐敗した権力が暴力の拳を振り上げるのに、ペンで対抗するのです。
監視する権力が腐敗していればしているほど、ペンという脆弱な武装で対抗をしでかす新聞記者という職業は、ポコポコと死ぬでしょう。
ですから、民主主義という社会でも、ジャーナリズムへの攻撃は、民主主義への攻撃だと批判はするのですが、その実態においては、ジャーナリズムへの攻撃は決して止まる事はなく、ジャーナリストの犠牲もまた、無くなりはしない物なのです。
報道の自由、ジャーナリズムへの攻撃の否定を、今の新聞記者は、権力から身を守ってくれる念仏だと勘違いしてはいないでしょうか。
むしろ、攻撃される事が確実だからこそ、報道の自由という、ジャーナリズムへの攻撃抑制のイデオロギーが、常に必要とされているのです。
同じような話題は、トランプ大統領とマスメディアの対立において、報道の自由として検索出来ます。
清廉な世の中で、命を賭けた事のない新聞記者が出世していくと、倫理的にも、技術的にも、権力の監視は自ずと甘くなります。
結果、権力は必ず腐敗し、不正の蔓延る世の中へと変化していきます。
そして、新聞社の上司が、清廉な世の中で育った命を賭けたがらない層であっても、不正の蔓延った社会は、新聞記者の命を必要とするようになるのです。
自業自得とも言える因果ですが、社会そのものが、世代の転換期の度に、どうも過去の重要な事を忘れるようです。
ですから、私ことふりがなは、本来繰り返すべき本作品のタイトルを、世に問います。
世に不正が蔓延る時にこそ、新聞記者よ、君たちは死ね。