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足が重い。息が切れる。胸が熱い。顎が痛い。腰が怠い。明らかに運動不足だ。
「ニト様、大丈夫ですか?」
私の苦しそうな顔を覗き込んでくるのは、少年風少女、名をソラヤというらしい。バシーノがソラと呼ぶので私もソラさんと呼ぶことにした。
「休憩にしよう」
バシーノの肩に乗った赤い鳥が休憩の号令をかけると、全員の足が止まった。どうして赤い鳥が人の声で喋るのか、理由をまだ聞けていない。理解を超える理由を告げられ、知ってはいけない世界を知ってしまうのは恐ろしいので、知らないままでいようと思う。
私がその場に力なく座り込むと、ソラさんが水筒を差し出してくれる。
「ソラさんありがとうございます。すみません運動不足で」
「ニトの運動不足は昔からだ」
「なら、年をとったせいかも」
「ニトのそれは……。いや、何でもない」
彼の言葉を途中で切るのは、いつもの事でこんな会話をしていると、昔を思い出す。
あの頃、私とスペルバ様とバシーノはいつも三人一緒に行動していた。私はスペルバ様の側近という名のお世話係で、バシーノはスペルバ様の護衛官だった。
私は水を飲み干しながら、太陽の位置を確認して、ゆっくり立ち上がった。
「日が暮れてしまう前にパブロワに着くためにはゆっくりはしてられない。出発しましょうか」
「俺とソラとキュフだけなら、とうに村についているぞ」
「うるさいな」
私とバシーノの後ろでソラさんがくすっと小さく笑っているのが分かった。昔もそうだった。振り向くといつもあの人がにこにこ微笑みながら側にいた。
パブロワに辿り着いた頃には、太陽が山の向こうに隠れそうだった。
「やっと着いた」
「ニト様、ここには宿屋とかありますか?」
ソラさんがきょろきょろと辺りを見渡すが、あるのは放棄された田畑と、穴だらけの小屋ばかりだ。
「とにかく、ついてきてください」
舗装されていない砂利道を辿って、村の奥へと進んでいく。すれ違う人はなく、風以外の音が聞こえない。大きな木が倒れて道を塞いでいるので、迂回すると、民家がぽつぽつと見えた。
「誰もいない」
赤い鳥が家の周りを飛び回って中を確認するが、人の姿は見つけられないようだった。
風で閉じたり開いたりする雨戸、穴の開いた壁、雑草が伸びた玄関扉。転がっている農具は全部茶色く錆びていた。そんな民家の前を通って、小高い丘の上を目指す。
道中、虫の群れを払いのけ、伸び放題の草木をかき分け、昔道だっただろう道を探して進んでいった。そしてとうとう辿り着いた。パブロワの教寺に。
寺は昔の建築構造で、流線形の石造りの建物だ。窓硝子は色とりどりで、植物の絵柄が嵌め込まれている。つるっとした石壁には蔦が這って、入り口へと続く石畳にはぽつぽつと花が咲いている。
「これがお寺ですか?」
ソラさんはこのような古い寺を初めて見たらしいく、目を丸くさせて、綺麗に丸められた壁を撫でている。
「魔法があった時代に作られたと言われている建物だそうです」
魔法でもない限りはこんな曲線を描いた建物を作ることなど、今の技術では不可能だと思う。
「魔法って本当にあったんですね」
感心している少女をよそに私たちは、呼吸を整えて寺の両開きの扉をゆっくり開いた。銀の縁取りがなされた硝子細工の重厚な扉は思ったよりも軽く、非力な私でも簡単に開くことが出来た。
「……」
寺の中はしんと静まり返っていて、外気温よりも寒く、薄暗くて人の住んでいる気配など感じられない。あの方の名前を呼ぶ気力すらすぐに薄れた。
「灯を付けよう」
バシーノが扉付近にあった蝋燭つきの燭台に火をともそうとするのだが、硝子の箱が被せられており、その蓋が暗がりでは開けられない。私がマッチを擦って手元を照らすのだが、どう観察してもその硝子の箱を開閉する場所などどこにもないように見える。私たちが火をつけることを諦めると、ソラさんが体に巻き付けていた鞄をおろし、閉じていた蓋をあけると、白い光が溢れんばかりに漏れ出てきた。
「ソラさん、それはもしかして……」
取り出したのはランタン。その昔、ランテルナが生まれた命への祝福として授けていたという灯で、その光は数年、十数年といつまでも光り続け、人々の人生を照らし、幸運をもたらしていたとされている。
「はい。祝福の灯と呼ばれるランタンです」
「この時代に持っている人がまだいたなんて」
こうして実物を見るのは初めてだった。火の光でもなければ、太陽の光とも違う、とても澄んでいて、照らす範囲も広い。
「ニト、このことはここだけの内緒にしてくれ」
「それくらい分かっているよ」
こんな物珍しい物を持ち歩いているというだけで、危険だ。幸運を手に入れられるのだから、誰だって奪ってでも欲しいだろう。
「ソラ、少し布を被せて光を弱めておいたほうがいい。もしかしたら村人が近くにいるかもしれないからな」
「ニト様、バシーノさん、まずは火のつけられそうな燭台を見つけよう」
赤い鳥がそう言って寺の中を飛び回り始めた。
「そもそも、どうして国中を飛び回る旅人がランプ一つも持っていないんだ?」
私はバシーノの背中に向かって何の気なしに疑問を吐いた。
「そっちこそ、この村の寺には人気がないだろうということは想像がついていたはずだ。何の準備もしていないってどういうことだ」
こっちは悪気は無かったが、バシーノが突っかかってきた。
「あのさ、私は君たちに無理やり連れてこられたようなものだから、準備が不十分でも仕方ないと思うけどな」
「ソラの水筒は飲み切るなら、自分のものくらい用意しておけよ」
「普通、私の分まで用意しておくもんだろう?」
「シャルサックからパブロワまでのこの短い距離を行くのに日没までかかるとは誤算だった」
「私は君みたいな筋肉の塊ではないんだ。それぐらい計算に入れおいて欲しかったね」
「それなら武人の旅荷が身軽で、ランプ何て持ち歩いていないことくらい知っていると思っていたよ」
「は?知る訳ないだろう」
私たちが口喧嘩をはじめるので、ソラさんはあわあわと慌てて、喧嘩を止めようとする。しかし私たちが口を出す隙を与えないので困った顔のまま固まってしまった。
喧嘩が熱を持ち始めると、赤い鳥が勢いよく飛んできて私とバシーノの肩や背中を尖った嘴で何度も突き刺す。
鳥の嘴は凶器だ。刺さりどころが悪ければ死亡していたと思う。痛みで口を閉じた男二人は追い打ちを掛けられるように年下のソラさん本気で怒られた。
「もう、いい大人なんですか、久しぶりに再会して喧嘩なんてみっともないことはおやめなさい!」
嗚呼、もう。また思い出してしまう。こうしてバシーノと口喧嘩をするたびに、あの方にこうして怒られたことを。思い出すたびに感情の波が押し寄せてきて、目から流れ落ちて行こうとするので、必死にこらえる。
「ニト、こんなことで泣くな」
「まだ泣いていない。……蝋燭を探そう」
私が蝋燭探しを始めると、バシーノは硝子箱に入った燭台の解体を始めた。
残念なことにこの寺の中には蝋燭はなくて、燃やせそうな紙は本くらいだった。バシーノは硝子を石で叩き割ろうとしていたが、ヒビすら入らなくて止めたようだった。そして彼は乾いた木を拾ってくると言って外へ出て行った。
それにしても不思議なくらい、綺麗に整えられているt寺だ。確かに埃は積もっているが、不要なものがどこにも置かれておらず、必要なものだけが揃えられていて、物の一つ一つに使用感が無く、新品のまま時が経ったようだった。
祭壇の引き出しに一冊の帳面を見つけた。おそらく祈祷日誌だろう。祈祷日誌とは僧侶が日々の出来事や、祈った内容などを残しておくもだ。でも、人によっては記入しなかったり、日程表として使っていたり、他の僧侶との連絡事項を共有するために使ったりもする。
「ニト、外で火を熾したから何か火を移せるものはないか?」
バシーノが戻って来たので、私はその日誌を彼に掲げて見せる。
「バシーノ、これを見てくれないかな」
「日誌がどうしたんだ?」
日誌の一頁目は白紙で、二頁目も白紙だ。
バシーノは首を傾げて、「何も書いていないようだが」と呟く。
「たぶん、この辺りくらいじゃないかな?」
数頁目を捲った時、予想通り文字を見つけた。
「……気合を入れてやって来たはいいけど、特別なことは無くて普通だ。つまらない」
私は唇の端に笑みを含みながら、書かれた文字を声に出して読んでみた。すると、バシーノが私の音読を耳にして、くすっと、笑みをこぼす。
「数日が経った。何もない。日誌を書くのはもうやめる。って、飽きっぽいのは変わらないな」
その文字はとても懐かしい気持ちにさせたと同時に、書かれていた内容があまりにも想像通りだったので思わず声を出して笑ってしまった。
「スペルバ様らしいな」
バシーノがそう言いうと、ソラさんが「どういう意味ですか?」と問う。
「スペルバ様は、飽きっぽいし、自由な人だ」
バシーノの説明には少し捕捉をした方がいいだろう。
「スペルバ様はこの通り、一頁目から書き始めたりしない人で、適当に開いた場所に物を書く。本も一行目からは読まなかったし、順番通りって言うのが苦手な人なんだ」
日誌も横向きに書いてみたり、上下をひっくり返して書いていたりもする。しかも、継続することも嫌うので、日誌や日記などは三日と続かないのだ。
「ニト、スペルバ様はここに居たんだな」
「そうだね。確かにここにいて、これを書いていた」
でもこの寺の中に私とバシーノとソラさんと赤い鳥以外の生物は存在しないようだ。
「スペルバ様はどこに行ってしまわれたのだろう」
私がしみじみと言うせいで、ソラさんが悲し気な表情を浮かべて俯いてしまった。すぐに赤い鳥が彼女の元へ飛び寄り、肩に乗って優し気な目を向けている。
「あの鳥はまるで人だ」
誰にも聞こえない声で、そんな言葉をつい漏らしてしまった。
そしてその日はバシーノが熾した火を調理室にあった小鍋に移して、その小さな光で夜を明かした。ソラさんのランタンとはずいぶん明るさが違い、一気に暗闇に放り込まれたような寂しい気持ちに包まれた。
寺の出入り口に鍵をかけ、夜が明けるのを待つ。
「静かだ」
今日は月が出ているので、辺りがぼんやり見える。窓を開けて風にあたりながら、静かすぎる外を眺めた。どこからも音が聞こえない無音のこの村は将来のシャルサックの町を予見するようだった。
このまま流行り病が終息せず、広まり続ければいずれこんな静かすぎる暗い夜が来るのだろう。私はそんなことをぐるぐる考えながら眠くなるまでずっと、風の音を聴いていた。
眠りにつくと、あの日の事を夢に見た。スペルバ様がシャルサックを出て行ったあの日の事を。
その日は眠気を誘う暖かく心地よい風が吹く日で、看病に疲れた私が机に突っ伏して昼寝をしていると、あの方が私の肩を優しく叩いた。
「ニトーシェさん。私は行くことに決めました」
眠たい目をこすりながら、私は何の話ですか?と問い返した。
「せっかくここに来たのだから、外の世界を知りたいのです。いろんな人を助けたくなりましたので、行かせてくださいね」
どこへ?と、いまいち会話の内容を理解できていない私は簡単に行先を尋ねた。
「ちょっとそこまでですよ」
少女のように微笑んで、鼻歌交じりに軽い足取りで部屋を出て行った。私は意味も分からず二度寝をして、次に起きた時にようやく事の重大さに気づいたのだった。