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シャルサックの町に彼が戻って来たのは秋の初めの頃だ。空気も冷たくなって、木々が赤や黄色に色替えをはじめている。私は紅葉の街路樹の下を歩きながら、町で唯一の宿屋に向かった。
「ニトーシェ様、こちらでお待ちです」
宿屋の主人が私をすぐに別室へと案内した。木製の扉を押し開けると、そこには懐かしい人物の横顔があった。
「バシーノ。久しぶり」
「ニト。相変わらずだな」
私を愛称で呼ぶこの大男は古い友人で、学生時代に数年間共同生活をしたことがある仲だ。
「バシーノ、隣の少年は息子か?」
一匹狼と揶揄される程、人付き合いの下手な無骨な男が少年を隣に座らせている。とても不可思議な光景だ。
「嫁もいないのに息子がいるわけがないだろう」
「君はご婦人に人気があったから、隠し子かと思ったよ」
私よりも背が高く、筋肉粒々で寡黙な上にどこか清潔感のある男で、異常に女性人気が高かった。言い寄る女は多いが、彼は武道に夢中で甘い言葉など歯牙にもかけなかった。
「そいつは俺の雇い主だ」
隣に座る少年は頭巾を目深に被り、腕の中には赤い鳥を抱えている。
「雇い主?傭兵業でもはじめたのか?」
「まあな。小遣い稼ぎだ」
バシーノが手招いて私を向かいの席に座るように勧めると、机上に青い封筒を差し出した。
「これは……」
澄んだ青の封筒に銀色の封蝋。これは僧の中でも上位の官職に就く者だけが使用することを許されるものだ。
「この手紙は……」
「俺の今回の任務はこの手紙をシャルサックの寺僧に届けることだ」
私は目の前の青い封筒から手を放し、小さなため息を吐いた。
「君の仕事は届けるだけなのか?」
「出来れば返事を受け取れと」
「これは誰から?」
「それは中に書いてあるらしい。俺のような一介の伝令係には知らされない」
「分かった。少し待ってくれるかな?」
「ああ。収穫祭にはルクスに戻らなくてはならない。期限はそれまでだ」
私は小さく頷き、無理やりに微笑んだ。
少年の腕から赤い鳥が飛び上がって、机の上を歩き始めた。不吉の赤い鳥と呼ばれる鳥だろうか。実物を初めて見た。
鳥は真っすぐに私を見つめ、何か言いたげな雰囲気で首を傾げる。そしてブルっと大きく体を震わせ始めた。まるで何かを吐き出そうとするかのように、喉元が痙攣をおこしている。
「今はダメ!」
私が驚いて固まっていると、少年がそう小さく喋って鳥の首根っこを捕まえた。
「その鳥、どうかしたのか?」
「ニトは気にしなくてもいい。ただの食中毒だから」
鳥が食中毒?あまり聞いたことのない話だったので私にはその鳥を助けてあげる方法を知らない。とても残念だ。
「食中毒なら吐かせてやる方が楽になるのではないだろうか。」と、提案してみたが、「それについては折を見て」と意味深な返答がなされた。
「それよりニト。もし返事に時間がかかるようなら、ニトの寺に泊めてくれないか?」
バシーノは無理矢理に話題を変えてくる。鳥についてはまだ疑問は多く残るが、根掘り葉掘り聞きだしても無粋なだけだろう。
「旅費を削る雇い主とは、この手紙の主は大したことがないのかな?」
「そんな分けないだろう」
少し冗談めかいして言ったつもりだったが、バシーノは真面目な人なので、正面から否定されてしまった。
「私も久しぶりに君と時間を過ごしたいけど、うちの寺に来るのは遠慮してほしい」
向かいの二人が怪訝そうな表情を浮かべるのも当然だ。寺というのは困っている人や旅人を助けるために寝床や食べ物を提供するのが当たり前だからだ。
「医者がこの町から逃げて以来、シャルサックの寺は病院として使っているんだ。友人を病で失いたくない私の気持ちを分かってくれるかい?」
バシーノは「そうか」と小さく頷いて、それ以上は何も言わなかった。
「この宿屋の主人に格安で泊まれるように頼んでおくよ」
私は席を立って、片手を軽く上げてその場を立ち去った。そして約束通り、店の主人に二人の事を頼むと、主人は青ざめて引きつった顔でこう言った。
「ニトーシェ様、これからどうするおつもりですか?」
「もう無かったことにはならない。バシーノには知られないままルクスへ戻ってもらいます」
主人は歯切れの悪い返事をして、玄関扉をゆっくり開けた。私は促されるまま外へ出て、振り返らずに自分の寺へと足を向けたのだった。
帰路の途中、薬師の家へ立ち寄り頼んでおいた薬を受け取る。薬師は二十代の若い女性で、病で倒れた母親の代わりに家業を継いだばかりだ。
「ニトーシェ様、いつまで続けるおつもりですか?」
薬師は眉間に皺を寄せて、曇った声でそう言った。
「いつまで?さあ、いつまででしょうね」
「このことが上層部に知れたら、復職どころではないのでしょう?」
「もとより、復職などありえない話です。僕はここで骨を埋める覚悟ですよ」
グッタの首都ルクスからこの町に左遷させられて、中央管理の役職へ復帰するなどありえない事だと馬鹿な私でも理解している。
私の運命はもう分かっている。このシャルサックの町で人々に尽くし、病気や怪我などで命を落とすのだろう。
「ニトーシェ様、何度も言うようですが、取り扱いにはくれぐれもお気を付けください」
この手の中にある薬瓶には劇薬が入っている。決して薬師が他人に譲渡していい量ではないので、薬学会なるところに知られれば懲役刑をくらうだろう。
厚い雲が太陽を隠すと、吹き抜ける風に秋の気配をひしひし感じる。薬瓶を懐に隠し持って、トボトボと歩いていると寺の前に人が待っているのが見えた。背が高く、鍛え抜かれた体格で男らしいその姿は見間違える訳がない。
「バシーノ、どうしてここに?」
宿屋で別れたはずの友人が僕より先に寺に辿り着いていて、私を待ち伏せしていた。
「少し話があるんだ」
彼の眼差しは物憂げで、ルクスを追い出されたあの時ですらこんな表情は見たことがなかった。
「いいよ。でも今日は忙しいから明日にしてくれないかな」
「分かった。でも、先に説明してくれ」
「説明?」
「そうだ。この状況を説明してくれないか」
バシーノはもう寺の中の秘密を知ってしまったらしい。
「どうして教寺って鍵をかけられないんだろう。理由を知っているかい?」
神への礼拝がいつでもできるように寺には鍵はかけられないようになっているし、雨の日雪の日以外は扉を開いていなければならないとも定められている。例え物が盗まれようが、何かを破壊されようが警察などは呼べない。防犯などこれっぽちもなされていない、住人にとっては危険な建物だ。
今日だって簡単に旅人に中を改められているのだから。
「もちろん、いついかなる時も人々を受け入れるためだ」
そんな当たり前の質問を答える友人の律義さは昔から何も変わらない。変わっていくのはいつだって私の方だ。
覚悟した。寺の中の秘密を友人に知られて軽蔑される、嫌われる未来を覚悟をした。体の中に氷水が流し込まれるかのようにだんだん冷えていくのが分かる。この感覚は恐怖だろうか。
「ニト、スペルバ様が居ないとはどういう意味だ」
「え?」
「中の患者に尋ねたら、スペルバ様はもうシャルサックにはいないと言っていた。あの方はどこへ行ったんだ」
「……」
「ニト。おい、聞いてるのか?」
冷えていた体に熱が戻っていくのが感じられた。
「き、君には話さないつもりだった。君はルクスにすぐに戻る人だから」
私は目を逸らしてたどたどしい言葉遣いではあったが、何とか平常心を取り戻そうとしてみる。
「ニト、教えてくれ。俺にとってもあの人は特別な人だ」
「ああ、分かったよ。ちゃんと説明するから、君は宿屋で待っていてくれないかな。私も患者の看病でそれなりに忙しくしているんだ。それにこの話をするには私だって心の準備が必要なんだ」
目を逸らしたままだったので、バシーノの表情は見えなかった。しかし、声を聞いただけでもだいたいの表情や仕草は想像がついた。
「分かった」
「明日の朝にでも伺うから」
「ああ。待っている」
バシーノは目を合わせようとしない私の横を淡々と通り過ぎていく。彼の外套でおこされた弱い風が私の髪をゆるく揺らして、革製品の匂いを残していった。
それは懐かしい匂いで、剣を扱う者がよく使う帯剣ベルトや紐付きの長靴の匂いだ。
バシーノの背中が見えなくなったころ、ようやく顔を上げた私は思わず大きく息を吐き出すのだった。
「はぁ、良かった。こっちを知られなくて」
こっちとは、もちろんこの腕の中に収められた劇薬のことだ。
私は少し震えている足を動かして、寺の中に入り、重たい扉をゆっくり閉めるのだった。
今日の天気は曇りのち晴れ。雨も雪も降る気配は無し。
取り返しのつかないことというのは、きっとこういう事を言うのだろう。私はそんなことを考えながら毎日料理をする。
礼拝堂の奥にある住居部屋や休憩室、資料室をすべて開放して病人の寝台を並べている。
町で唯一の医者が去年失踪した。四十代の腕の良い男性医師で、町人からの信頼も厚かったが、性格に問題があった。とても神経質だったのだ。それは長所でもあり、患者への細かな気遣いや傷口の丁寧な縫合は尊敬に値した。しかし、度重なる病人の死に心を遣い過ぎ、自分の無力さをよく私たちに嘆いていた。私は鬱々と心が陰っていく彼の姿を眺めていることしかできなかった。そしてある雪の降った朝に医者はこの町を出て行った。
「無力なのは私の方だ」
何度も私たちに助けを求めていたのにもかかわらず、私はその心を救って差し上げることが出来なかった。お得意の詭弁も出で来なくて、寄り添える言葉も見つけられなかった。あの粉雪が舞った寒い朝、胸が凍るような後悔を覚えたことは忘れられない。
その日以来、病院の入院患者を寺に受け入れ、残された看護師と共に病人の看病を始めた。
医療知識は乏しく、殆どが簡単な応急処置ばかりだが、それでも患者には感謝された。
「僧侶ではなくて、医者になれればよかった」
野菜を煮込んで、パンをふやかして不味い粥を作りながら独り言ばかり。たまに返答のない質問を吐いて、我ながら呆れたりもする。いつからこんなに独り言が増えたのだろうか。
患者に粥を配る。無償で看病を手伝いに来てくれる人が二人ほど居て、彼女たちには比較的病状の軽い患者を任せている。私はそうではない人に匙で食べさせてまわる。人手不足のため、食事にも時間がかかる。
「ニトーシェ様、いつになったら飯が貰えるんだ?」
「いいから早くよこせ」
一番奥の寝台に並んで寝かしている男二人が大声で食事の催促をしてきた。他の患者達は嫌そうな顔を浮かべる。
「ああ、すぐに行きますから待っていてください」
私は手を早めることはしない。この二人が大声で文句を言うのは日常茶飯事だからだ。催促されたからと言って、大声で怒鳴られたからって私の中の優先順位が覆ることは決してない。
私が動こうとしないので、男たちは手伝いの女性を呼びつける。彼女たちが食事を運ぼうとするので、私は仕方なくその手を止めさせた。
「彼らの食事は私が運びます。他の方をお願いします」
彼女たちは怯えながらも仕事を再開してくれてとても助かる。本当に困ったもので、あの男たちが不満があるたびに怒鳴り散らすので、手伝ってくれる人が次から次へと減ったのだ。これ以上を減らされては彼ら自身も困るだろうに。
「お待たせしました」
私が男二人の元へ粥を運ぶと、男たちは辛そうに体を起こし、膝の上に皿の乗った盆を乗せた。
「おい、またこの不味い粥かよ」
「いい加減、もっとまともな料理を出してくれませんかね」
二人はぶつぶつ文句を言いながら、匙でパン粥を口に運ぶ。
「そう言わず、体の事を思っての味付けですから勘弁してくれませんか」
とは言ったものの、ただの調味料を買う余裕がないだけなのだ。私はここへ来て、平気で嘘も付けるようになった。
「俺たち、いつになったら良くなるんだ」
年上の方の男がぼたぼたと粥をこぼしながら珍しく弱気そうに呟いた。
「お医者様が居てくれればもっと適切な治療が出来るのですが……」
「いつになったらルクスから医者が来るんだ!」
年下の方の男が皿を匙で叩きながらまた文句を言う。
「申請も出していますし、嘆願書も書きましたが返事はまだありません」
医者派遣の申請書は出したが、嘆願書は死んでも書くつもりはない。私とスペルバ様を追い出した上層部に願うことなどあるはずがない。
男たちは手を震わせながらちびちびと粥を口に運ぶ。彼らの手が震えているのは、怒りから来るものではないことは、彼ら以外の全ての人間が知っている。
「きっと戦での後遺症でしょう。安静が必要でしょうから、お医者様がいらっしゃるまでしばらくゆっくり休息してください」
私はそう言い残して、彼らのお膳を下げた。
調理室に戻ると、手伝いの女性が先に洗い物を片付けていてくれた。
「ニトーシェ様。あの人たちの態度、何とかなりませんか」
「私たち怖くて仕方ないんです」
彼女たちは不安そうに肩をすくめて、目を涙で潤ませ、赤く充血させている。
「恐れることはありません。人に危害を加えられるほど健康ではありませんから」
匙を自分の口に運ぶことすら震えて上手くできないのだから、重い剣を振り回すことなど出来るはずもない。
「彼らの世話は私がしますので、貴女方は他の患者様をお願いします」
彼女たちは渋々納得したようで、二人で洗濯物を取り込むために庭へと出て行った。
これ以上、人手が減るのは困る。どうしたらいいのだろうか。
「嗚呼、早く流行り病に感染しないかな」
大きなため息をついて、洗い物を始めた。
外は夕焼けになりそうに橙色へと染まり始めるので、私は台所の窓を黒い厚地の布で作られた窓掛けで覆った。