4.そこにいたのは、やはり彼でした
ちょっと流血表現あります
町の人が家路へ急ぐ道を、持てる力で逆方向へ走りぬける。教会に向かって。
『看板が、急に落ちたの!』
教会で行われていたバザーから夕方パン屋へ戻ると、パン屋の周りに人が集まっていた。慌てて中へ入ると、アデルが座り込んで震えている。
アデルの肩に手を置いて落ち着かせようとしている夫、テイオスの表情にも焦りが見えた。
本当に突然だ。
灯台もと暗しもありうると思って、パン屋の看板は毎日のように確認している。
その時には落ちるどころか動きそうな様子もなかった。
それに、パン屋の看板は小さめに作ってあるから、落ちたところで大けがをするとも思えない。
『看板が、風にあおられて落ちた衝撃でバラバラになったの。それが凄い風のせいでまた飛んで行って』
『それに当たった貴族の男の子がひどい怪我をして……今教会に運ばれていったわ』
それを聞くなり走り出した。後ろでアデルに呼ばれた気がしたけど、振り向かない。
当たって欲しくない。でも確かめなければ。
何とか走って、教会の前でけが人を運ぶ担架に追いついた。
野次馬に紛れて、少し離れた位置からそっと様子を伺う。黄昏時ではあるが、周りを柔らかく照らすガス灯のお陰で、薄暗いながらも何とか姿を見ることができた。
前世の記憶にあるような、黒髪の男の子が血だらけになりながら担架の上で呻いている。
お腹に大怪我があるのか、男の子が押さえる手を伝って血が少しずつこぼれていた。
担架の揺れさえも辛そうだ。
瞬間、あのスチルが頭をよぎる。
……間違いない。力が発現したのはこの場所で、今怪我をしてるのはエリックだ。
担架が教会手前で一度止まった。
教会前は今日のバザーの余韻で人がまだ多く残っている。道を空けてもらっているようだ。
止まったせいなのか、エリックがゆっくりと目を開けた。その瞳がぼんやりと宙をさまよう。
そして、目が合った。
「あ……」
それは誰が発したのだろうか。
目が合うには距離がありすぎる。でも、エリックはこちらを見ていた。
驚いて動けない私に向かって、エリックの血に濡れた手がゆっくりと持ち上がる。
遠いのに、すごく近い距離に感じるその手が、スローモーションのように、こちらへ伸びてくるのが見えた。
「たす、けて」
聞こえないはずの小さな声が、鮮明に耳に響く。
同時に、ぱたり、と伸ばされた手が担架に落ちた。
次の瞬間、足が勝手に動き出す。
エリックに関わっちゃいけない、と言う声が頭のどこかで響くが、無視した。
私は、彼を助けなければいけない。
そうでなければ、エリックは助からない。
氷のように冷たい、まだ幼さの残る彼の手を握りながら事実として理解する。
「大丈夫、大丈夫だよ」
周りがすぐに騒がしくなる。
私を引き離そうと肩に手をかけられた感触がするが、関係ない。
目を閉じて、心の底から願った。
強く、強く。
『どうか、助かって』、と。
肩を引こうとする力が弱まる。同時に閉じた視界にほわりと光が浮かんだ。
ゆっくりと目を開ける。
私の手が、柔らかく発光していた。
辺りを照らす街灯より、暖かく明るいその光から、小さな光の球が生まれる。
その光の球が、蛍のようにふわりふわりと浮かんで、エリックの周りを飛び始めた。
そして、傷に自ら飛び込むように吸い込まれていく。
大きな傷も、小さな傷も。
服の上からでも関係なく、光の球は吸い込まれていく。
服の裾から覗いていた小さな傷が、一度光ると跡形もなく消え去るのが見えた。
お腹の傷がやはり大きかったのか、いくつもの光の玉が飛び込んでは輝く。
暖かな光が舞う様子は、自分が起こしているとは思えないほど、幻想的だった。
しばらくして、光は徐々に弱くなると、少しの余韻を残して消える。
辺りは、静寂に包まれた。
その時、ぱちりとエリックが瞼を開ける。
この距離で初めて、彼の瞳がアメジストのような美しい紫だと知った。
「あなたは、天使様だったのですね」
疲労が感じられるものの、穏やかな微笑みを浮かべ、エリックは私にそう告げた。




