大樹の成長 微
「あ、おはよー!」
桜並木をランニングしていると同じランナーの人と会釈をするのが習慣になる。
いま僕の隣を並走しているOLさんは夏子さんって言う人だ。
夏子さんはスタイルが良くて、かっこいいトレーニングウェアを着ている。
最近僕と会うと必ず少しだけ並走しておしゃべりして走り去っていく。
「お、おはようございます」
僕は身体が重いからまだ速く走れない。
どたばた見苦しい感じになっちゃう……
「今日も頑張ってるね! ……最近痩せた? お姉さんは中々痩せないのよ」
夏子さんはお腹の肉をつまむ仕草して胸をポンポン跳ね上げた。
僕は慌てて視線を逸らす。
「な、夏子さんは十分……痩せています」
温かい目で僕をみる夏子さん。
「ふふ、ありがとね。社会人は飲み会とかあって大変なのよ……」
その後も取り留めもない話をして、夏子さんは時計を見た。
「あ、急がなきゃ! じゃあまたね!」
「は、はい! はぁはぁ、仕事頑張ってください!」
夏子さんは笑顔で僕を走り抜かして行った。
運動を始めた時は想像もしていなかった。
僕は学校以外の世界が広がった。
さっきの夏子さんだけではなく、走りながら様々な人との出会いが僕にあった。
僕がタオルを忘れて困っていた時に渡してくれた初老のおじいちゃん、いつも飴玉をくれる美人の主婦、クールなメガネが似合う社会人のお兄さん。
みんな一言二言しか話さないけど、そこには走るって言う共通点で結ばれている。
目には見えない何かがある。
ボクシングジムもそうだ。
気さくな練習生の人が多い。
パンチの打ち方のアドバイスをくれたり、大学生活の事を話してくれたり、自分の仕事の事を語る人もいる。
学校では到底出会えなかった人達だ。
僕は少しずつ人と話すのが怖くなくなってきた。
世界にはこんなにも優しい人が多い。
僕の常識が変えられていくのが実感できる。
「……桜。ありがとう」
僕は走りながら思わず口に出ていた。
ボクシングジムで初めてスパーリングというのをやる事になった。
佐々木さんが僕にグローブをはめてくれる。
「大樹、いい? このスパーリングでは、対戦相手はあなたにはパンチを打たないわ。軽くこづくだけよ。でも、あなたは本気で打ち込みなさい。じゃないと、相手の練習にならないわ」
僕とスパーリングする人はプロの選手だ。
僕は緊張してきた。
佐々木さんに押されてリングの上に立つ。
プロの選手、隆太さんが近くに寄ってきた。
「大樹、まあそんな緊張すんなよ。大丈夫だって、俺はお前のパンチ喰らわねーよ! 練習生とプロがスパーリングすると大体そんなもんだ。楽しもうぜ!」
肩をグローブでポンポンされた。
少しだけ緊張が解けたかも知れない。
「はい! ゴングまで5秒よ!」
ゴングが鳴ると、僕は必死に攻撃をした。
今まで習ったパンチとコンビネーションを繰り出す。
隆太さんはステップとパリングで僕の攻撃を巧みにかわす。
リング外から佐々木さんが叫んでいる。
「隆太! もっと小さくよけなさい! 大樹はもっともっと攻めなさい!」
必死になってパンチを繰り出すが、全然当たらない。
これがプロと素人の差なのかと思うとびっくりする。
パンチを繰り出す腕が重くなる。
息が上がってくる。
ガードが下がる。
隆太さんはジャブで軽く僕をこづく。
痛くないけど、もっと攻めてこいって言っているみたいだ。
1Rが終了すると滝の様な汗が流れる。
肩で息をする。
呼吸を整えながら思った。
テレビで見るより全然きつい。
ミット打ちが軽い運動に見えてくる。
……でも、僕は凄く心が高揚しているのがわかる。
楽しいんだ。
次のラウンドは隆太さんのステップを見て、先回りでパンチを出そう。
セオリー通りのコンビネーションじゃなくて、この前動画でみたプロの試合を参考にしてみよう。
ゴングが鳴った。
相変わらず僕のパンチを躱し続ける隆太さん。
僕は隆太さんの足と肩を気にして見る。
――ここだ!
隆太さんがステップを踏む時に僕はさらに中へ踏み込み、隆太さんに迫った。
左でボディを打つと見せかけて、右ストレートを放つ。
――当たれ!!
気が付いたら僕は顎に衝撃を受けていた。
――あれ? うまく立てない??
僕はリングの上に座り込んでしまった……
隆太さんが動きを止めて僕に駆け寄ってくる。
佐々木さんもリングに上がってきた。
「ちょっと隆太!! あんたなんでパンチ打ったのよ!!!」
激おこだ。
「大樹すまん! つい打っちまったよ! ていうかどこでその動き覚えた? あんなフェイントは中々できねえぞ?」
僕はまだふらふらするけど、身体に痛みがあるわけではない。
少し休めば大丈夫そうだ。
スパーリングはハプニングで中止になったけど、隆太さんは他の人とスパーリングをし続けた。
佐々木さんはジムの隅で寝ている僕の横にいてくれる。
「全く、私も驚いたわ? だって、2ラウンド目から明らかに動きが違ったわよ?」
「……はい、色々動画を見て研究してました」
「あんた……本気でプロ目指さない? その身長ならミドル……ライト・ミドルまで落とせるわよ。10日でプロ相手にパンチを出させるなんて、まずないわよ? まあ、身体が重いから体力ないし、まだまだ課題は沢山あるけど……」
佐々木さんは僕のお腹をタプタプする。
前より掴まれる面積が減った気がする。
「……僕はプロを目指すとかはまだ分かりません。でも、ボクシングは凄く楽しいです! それに殴り合いが自分に合うかわかりません……」
「そうね。ボクシングはケガも多い、桜ちゃんを心配させることになるしね……でも、アマチュアでオリンピック目指すのもありよ?」
佐々木さんは本当に僕のために色々考えていてくれる。
僕は心が温かくなる。
「……ぐす……あ、ありがとうございます……色々……」
「ちょ、ちょっと! なんで泣いてるのよ! 男子高校生が泣くなんて、胸がときめくじゃないの!」
佐々木さんはあたふたしている。
顔は凄く綺麗なのに、身体は男の人。
不思議な人だけど、本当に良い人ってわかる。
桜を通して人と繋がる。
僕が変わる?
うん、少し違うかも知れない。
僕は周りの人から温かい力を貰って、変わっていくんだ。
ジム帰りに街を歩く。
活気がある商店街は人が夏休みの学生で溢れていた。
若い集団を見ると隠れようとする自分がいる。
どうしても若い学生の集団は苦手だ。視線を外してしまう。
特に顔を見れない。
まだ、クラスメイトと話すなんてできない。
雅以外にもかなり冷たくされていたからね。
何故か僕を目の敵にしてた秀才の安西さん。
僕を無理やり運動させようとしていた金子さん。
他のクラスメイトは僕を無視していただけなのに、二人は僕に突っかかってきた。
安西さんはテストの事をねちねち言ってくる。
「つ、次はあなたに負けないわよ。どうせずるっ子してるんでしょ!」
金子さんは嫌がる僕に筋トレをさせる。
「おい、デブっちょ! 教壇でスクワットだ!」
何故か二人と仲が悪い雅。
クラスに僕の安息の場所は無かった。
二人の事を思い出しながら街を歩いていると、大学生の集団がナンパをしていた。
なんだろう……凄くチャラい……
5人の大学生は2人の若い女の子にしきりに話しかけている。
「かーー! つれないね! 俺らとカラオケ行こうよ!」
「俺たち速大生だぜ? 頭いいだろ?」
「眼鏡っ子萌えるわーー」
どうやら大学生は少し酒が入っているのか顔が赤い。
言動も気持ち悪い。
僕は関わらないようにそそくさと追い抜こうをした。
――向こうの歩道を歩けばよかった。車通りが激しいから無理だけどね……
僕は視線を合わせないように通ろうとした時、速大生の男の背中が突然僕とぶつかった。
なんで? って思ったけど、どうやら女の子が男を押したらしい。
男は僕にぶつかってしりもちをついた。
「ケンちゃんだっさ!」
「あぁっと! ケンちゃん切れる?」
「……くそ、このアマ、舐めてんのか。……おい、連れてくぞ」
静かに低い声で女の子を脅す男。ぶつかった僕の事は気にしていない。
桜や親しくなった人は大丈夫だけど、まだ人が怖い。
女の子をよく見ていないけど、恐がっているのがわかる。
――桜と出会って、色々な人と繋がって、僕は少しだけ変われた。
大学生が女の子の手を無理やり引く。
――世界は優しい人が多いんだ。だから僕も優しくなるんだ。
女の子は恐怖で声が出せないでいた。
――桜だったらどうする? 佐々木さんだったらどうする? 困っている人が居たら? もちろん助けるだろ?
男たちは女の子を囲って周りから見えないようにしていた。
通る人も面倒ごとを避けるように見て見ぬふりをしている。
――勇気を出せ。怖くなんかない。演技をするんだ!
僕の胸がバクバクしている。
気持ちを切り替える。
僕は……大学生の肩に手を置いた。
「……おい速大生、てめえ俺にぶつかって挨拶なしかよ?」
僕は可能な限り怖い顔をして大学生を睨みつけながら恫喝した。
僕よりもずっと小さい大学生が睨みつけながら振り向いた。
「あーん! ケンカうって……え!? あ、す、すいません」
大学生たちにざわめきが広がる。
「おい……あれはやべーだろ?」
「ぜってーなんかやってる……」
「筋肉の付き方がヤバ!」
「ケンちゃん!?」
僕は人生で最大の怖い顔をしながら、ケンちゃんって言われている男の肩に力を入れた。僕は肩を押さえながら女の子の前に立つように移動する。
僕は後ろにいる女の子に手で逃げるように合図した。
「い、痛いっす! な、何するんすか!」
「てめえら目障りだ。……消えろ」
身体中の筋肉に力を入れて身体を大きく見せる。
「ひぃ! す、すんません! お、お前ら行くぞ!」
ケンちゃん一味は足早に駅まで消えていった。
僕の身体から汗がどっと出た。
――こ、怖かった!! でも女の子たちが逃げられて良かった……うーん、普段この地域は治安がいいのに、夏の時期は気をつけなきゃね。桜の事もしっかり守ろう!
「……あ、待って」
「だい……」
後ろから声をかけられた気がしたけど、僕は走って駅まで向かった。
だって、もしもあいつらが桜に声を掛けたらと思うと……
駅に着くと桜は無事待っててくれていた。
僕は急いで桜の元へ走る。
「さ、桜、はぁはぁ、大丈夫? 変な男に絡まれてない?」
桜は不思議そうに僕をみた。
「うん? ええ、問題ないわよ? 大樹どうしたの?」
そこにはいつも通りの桜が居てくれていた。
桜に今あった事を説明する。
「……なるほど。大樹頑張ったね」
桜は僕の頭を背伸びして撫でてくれた。
思わず顔がにやけてしまう。
「うん、ありがと。勇気が出たのも桜のおかげだよ」
「違うわよ。行動したのはあなたよ? だからあなたが頑張った結果よ?」
桜と二人で手を繋ぎながら街を歩く。
「そっか……」
桜の言葉を心にかみしめる。
そんな僕を温かい目を見てくれる。
「大樹、明日からやってもらいたい事を増やすわ。……明日は私と一緒に出掛けてもらうわ」
やってもらいたい事?
「もっと大樹に自信をつけてもらうために……ダンスをしましょう!」
「ダ、ダンス!?」
「その話は家に着いてからゆっくりしましょう! 今日のご飯はなに?」
「あ、今日は肉じゃがとあさり汁と秋刀魚だよ」
「ふふ、ほら早く帰りましょ」
「うん!」
僕らはゆっくりと夕方の街を歩いた。