第4話 旅立ち
そして今、新納は異世界転移の準備のラストスパートを迎えていた。
日本の某地方都市の郊外にある国際科学技術管理局の施設で、明後日に迫った異世界への旅立ちの日に備えて、準備に忙しい日々を送っている。
表向き医薬品メーカーの研究開発設備と言う事になっている三階建てのこの施設は、実際は国際科学技術管理局に出向している学者先生達の、日本に於ける宿泊設備というのが、主な利用法になっている。
そんな施設に滞在しながら約半年、担当のシンシアや、他の言語学、文化人類学、生物学など学者達から、ガンマで主に使われている複数(流石に全てではない)の言語の学習と、これまでに判明している様々なデータのレクチャーを受けていたのだ。
特にシンシアは、自分もガンマの言葉や文字を覚え、学習資料を整理・分類し、ほぼ付きっ切りと言っていいほど懸命に新納のサポートをしてくれている。
しかし、判明しているデータとは言っても、ガンマに送り込まれた探査機から得られるデータは、積み込まれた各種センサーによる各地の気象・大気データや地形・地質・水質のデータ、人間を含めた生物・集落の分布データくらいで、今のところあまり新納の役に立ちそうなデータには乏しい。
探査機で得られるデータには限界がある。だからこそ新納のような人間の調査員の派遣が望まれるのではあるが。
数少ない有益な情報として、まずガンマ・アースの地理が、新納の知っているベータ・アースの地理と全く違うことだ。ユーラシア大陸も無ければ南北アメリカ大陸も、アフリカもオーストラリアも無い。
これは少なくとも、ガンマ・アースの分岐成立時期が数万年、或いは数億年も以前にもなる可能性を示していた。
判明している地理の概略を説明すると、北半球にはオーストラリア大陸ほどの面積の大陸が5つ(仮称アークティカ、バルティカ、ケノーランド、エバーニア、ヌーナ)と、それより小さな大陸未満の島々が点在しており、南半球には超大陸とも言える巨大な大陸ロディニアが、南極点を中心に鎮座している。
そこで取り敢えず、調査の結果、少なくとも人が住み、都市と言える規模の社会を形成していることが確認されている地域である、北半球の大陸の一つであり、緯度的40度から70度辺りに東西に長く横たわる、仮称エバーニア大陸に転送されることが決定された。
日本周辺の緯度に当て嵌めれば、南は東北地方辺りになり、北は樺太の遥か北、北極圏を超えているが、これをヨーロッパに当て嵌めると、南はイタリア半島南部、北は北欧辺りになる。
経度はグリニッジ点が確定できないので算定不能だが、仮に最西端を経度0度とするならば、最東端は経度60度を超えている。
また、もう一つの重要な情報は、音声・画像データによる言語の存在の確認で、音声データによって話し言葉、画像データによって文字の存在が確認され、音声・画像の双方のデータを統合することで、文字の読み方まで判明している。これは大きな収穫だった。
現地での情報収集に、現地人と言葉によるコミュニケーションが取れるのと取れないのとでは、当然ながらその効率に大きな影響が出るのは確実で、前もってそのリスクを潰せるのは大きい。
そんな訳で、今も新納は、建物三階にある、彼に割り当てられた部屋の机に向かって、脇に置いたタブレット端末に表示される文字の資料を、白紙のノートに書き取りながら学習に余念がなかった。右耳に差し込まれたイヤホンからは、タブレットに表示されている文字の発音が聞こえてくる。
この半年を掛けての学習で、ガンマで使われている主な言語の内、最も使用者の多い(と思われる)二つはほぼネイティブに駆使できるし、他にもカタコトながら三つの言語については知識を得ている。後は現地での実践あるのみだ。
もちろん、本来ならこんな短期間での習得は無理がある。
戦闘技術の習得にしてもそうだったが、新納はアルファ・アースの元住人達ですら驚くほどの効率で技術の習得をこなしていた。これは別に新納が天才だった訳でも何でもない。
ベータ・アース人に対して後天的に、アルファ・アースのドーピング技術(薬剤・ナノマシン等の投与)や外科的肉体改造(超小型サポート機器の埋め込み等)など、先進医療技術と教育技術・手法を駆使した結果であって、これはある程度予想されていた結果だそうだ。
ドーピングや改造などといった言葉自体は、ベータ・アースに於いてあまり良いイメージを持たれないが、事前に説明してくれたジェイラン医師によると、アルファ・アースに於ける認識は病気や肉体の障害に対する治療の延長であって、全く忌避感は無いらしかった。
全ては健康な肉体を維持する為の技術であって、当然ながら副作用や後になって引き起こされる障害については、神経質なくらいに検証や改良が施され、安全性の確認された技術だそうで、実際に新納の治療も、同様の技術の賜物であり、新納個人としては文句どころか感謝しか感じなかった。
黙々と一人、ガンマ言語(仮称)の学習に耽っていた新納は、ふと疲れを感じて手を止める。タブレットの時刻表示を見ると午後三時を少し回った所だった。 窓から見える外の風景も、午後の陽射しに照らされている。
始める前に昼食を摂って約二時間と少し。そろそろ休憩を入れるべき時間だ。根を詰め過ぎてもメリットは無い。
そう思って椅子の上に伸びあがって硬くなっていた筋肉を伸ばし、飲み物でもとサイドチェストに置いてあったコーヒーを入れたポットに手を伸ばしかけた、ちょうどその時、タイミングを見計らったかの如く、背後の扉をノックする音が聞こえた。
「開いてるよ」
扉の方を振り向いてそう返事をすると、ガチャリと扉が開いてシンシアが顔をのぞかせた。
「あの、お邪魔じゃないですか?……」
そう言って遠慮がちに声を掛けてきた。
「いや、丁度休憩してコーヒーでも飲もうかと思ってたところだよ」
「そうですか! 三時だし、お茶でもどうかなーって思って来てみたんですけど…… ご一緒に如何ですか?」
と、嬉しそうに誘ってくれた。
そう言えば、確かシンシアはイギリス系だし、イギリスと言えば午後ティー、紅茶だろう。
新納個人は紅茶よりコーヒー派だが、別に紅茶も嫌いではないし、何よりせっかく誘ってくれる可愛らしいお嬢さんのお誘いを断る理由は無い。
「そうか、じゃあ、偶には紅茶もいいな。」
そう言うと椅子から立ち上がり、連れだって建物一階にある食堂に移動する。
この場所は表向き社員食堂ということになっており、実際に食堂として機能していた。料理は基本的にレトルトを温めなおして食器に盛るだけのファミレス方式だが、交代で当番のスタッフが対応してくれるし、メニューも多く味も別に悪くない。さらに、基本的に全て無料だ。
また、希望すれば厨房の器具は自由に使わせてもらえるので、自分で料理することも可能で、これはいつだったかシンシアに、「これ、料理が不満だったり、メニューに無い料理が食べたければ自分で作れってことなんですよ」と教えられて、そりゃそうだと納得させられた。
食堂に着くと、「すぐ準備してくるんでちょっと待ってて下さい」とシンシアは厨房に入っていったので、残された新納は適当に選んだテーブルに座って待つことにしたが、実際、待つという程の時間を待つこともなく、トレイにティーポットとカップ、小さい瓶が幾つかと、お菓子の盛った皿を運んでシンシアが戻ってきた。
「お待たせしましたー」
戻ってきたシンシアが、テキパキとトレイからポットその他をテーブルに移して準備してくれる。
そうやってシンシアが淹れてくれた紅茶に砂糖を一杯だけ入れて口に含むと、芳醇な紅茶の香りが口の中に広がった。
「うん、美味しいな」
その言葉に、真剣な様子で新納の表情を窺っていたシンシアの顔が綻ぶ。
「良かったぁ…… あ、こっちのお菓子もどうぞ。ショートブレットって言って、私の国のお菓子なんですけど、こうやって……」
そう言いながら自分のカップに入ったミルクティーに、某バランス栄養補助食品にも似た短いスティック状のクッキーらしきお菓子を浸す。
「ミルクティーにディップしたり、こっちの……」
と言ってジャムの入った瓶の蓋を開ける。
「ジャムを付けて食べるんです」
「へえー」
そう勧められて一つ手に取り、ジャムを付けて食べてみると、お菓子自体は甘味の無いバタークッキーのようで、確かにジャムなどの好みの甘味をプラスして食べることが前提のお菓子だと分かる。
あまりどぎつい甘味は苦手な新納としても、これなら自分で適度に調節できるので良い感じだ。
それから暫くは、お互いの国のお菓子や飲み物など、他愛のない話に花が咲くが、それも尽きると沈黙が訪れる。
ただ黙って冷めてしまった紅茶を口に運ぶ。
そんな沈黙を破って、シンシアが小さく呟いた。
「また会えなくなっちゃうんですねえ……」
そうなのだ。
シンシアに新納に対するはっきりとした恋愛感情は、少なくとも今のところは無い。
ただ、今のシンシアにとって新納は、あの忌まわしいドラゴンによって奪い去られた優しかった兄に再び会えた、そんな感覚に近かった。
何くれとなく新納の世話を焼いたのも、少しおしゃまで世話好きだった彼女が、それまで兄に対して行ってきた――兄が結婚してからは無かったが――ことの延長に過ぎない。
そして、そんな彼女の気持ちを新納も薄々察していた。
これまで稀にだが、激務で疲れていたらしい時のシンシアが、新納の事を、つい、「兄さん」と呼んだことがあったからだ。
最初はニイロを略してのニイさんかとも思ったが、何度か呼ばれる内にどうやら違うことに気づいた。
シンシアにしてみれば無意識だったようで、特に訂正もしなかったので本人は自分がそう呼んだ事に恐らく気づいていない。
新納からしても、恋愛感情を抱くには、やや年が離れすぎており、元気で可愛い妹のような存在という感覚からは抜け出していない。
やはり、一回りという年齢差は先に進むことを躊躇わせる大きな壁だし、何より、自分はガンマ・アースへと旅立つことが決定していて、再び戻れるメドは全く立っていないのだから。
「直接は会えなくなるが、シンシアは俺の命綱だ。頼りにしてるよ」
「そう、そうですよね! 私頑張らなくちゃ! それに絶対帰って来れますよ、ヒラヤマ先生達がサボってたら、お尻引っ叩いてお仕事させちゃいますから!」
急に張り切りだしたシンシアに多少気圧されながらも、新納は少し話題を軌道修正しようと、この数日気になっていたことを尋ねてみた。
「そう言えば、ここ一週間くらい姿を見なかったけど、どこか行ってたのか?」
「ああ、ハイマン先生に頼まれて、お手伝いに行ってたんですよ。参考データ取らせてくれって言われて」
「ハイマン先生って言ったら装備部の方だよな。確かガンマに持ち込む装備品の説明で何度か会ったよ」
「はい、専門はロボット工学の研究者で、アルファじゃ超有名人ですよ。ヒラヤマ先生と並んでベータに来た先生方の中では有名度じゃツートップです…… 変人度でもツートップですけど…… あっ、いっけない! ハイマン先生が時間が空いた時でいいから顔出してくれって言ってました。本当はさっき、それを伝えに行ったんですけど……」
申し訳け無さそうに恐縮するシンシアに、安心させるように新納は言った。
「お陰で美味しいお茶を御馳走になったんだからいいさ。ちゃんと伝わったしね」
シンシアにお茶を御馳走になった後、新納は彼女とは別れて伝言のあった装備部に向かった。
装備部のスペースは、機密保護の観点から施設の地下に設けられている。
幾重ものセキュリティーをパス(耳の後ろに埋め込まれたチップを通して勝手に認証されるので、特に何かする必要は無い)して、装備部の扉を潜ると、問題のハイマン先生が待ち構えていた。
小柄な体に禿頭にロイド眼鏡、白くなった長い眉と、白く長い顎鬚が特徴の、いかにもマッドサイエンティストといったいで立ちの学者先生だ。
「遅い!」
そう言って責めるが、新納に責められる筋合いはない。
「いやいや、ご自分でシンシアには『時間の空いた時』って言ったんでしょう? それで『遅い』は理不尽ですよ」
この人に無駄とは知りつつ、一応は抗議はしておく。
「知らんのか、年寄りには時間は貴重なんじゃぞ」
(知らんわ)
今度は心の中で抗議だ。
何せ、変人ツートップは伊達じゃない。この御仁、新納と最初に会った時は、自分を「キューと呼べ!」と宣った。
何の事かわからないでいると、偶々その時傍にいた別の研究者が、苦笑しながら「御大、最近こっちのスパイ映画に凝ってるんだよ」と新納に耳打ちして教えてくれた。キューではなくQだったらしい。
多分、マッドサイエンティストとして通じるものがあったのだろう。
その後に見せられた、ガンマに持ち込む分析用のサポートロボットについて、最新型だと紹介されたそれは、真っ赤なビヤ樽に手足を生やし、頭には三枚の鶏冠、表面に謎のアナログメーターを散りばめて甲高い声で話す…… 確かに〝分析ロボ〟なのは間違いなかったが、新納としては色々な意味で責任取れないからと連れ出すことは断固反対した。
さらに、ヒラヤマ先生との合同試作品ということで自信作だと見せられたバッグは、要するに異世界ファンタジーでよくある容量無制限のアイテムバッグに近いシロモノで、並行世界の研究から派生して開発された亜空間への接続技術を利用し、大きさはバッグと言うよりポシェットに近い。
ハイマン先生が自信満々に披露した装備名は〝四次元ポ(作者自主規制)ト〟
曰く、『容量は理論上無限だが、入れられる物の大きさはバッグの間口に依存』『中の時間は普通に経過しているので、生ものは何れ腐る』『熱いものは冷え、冷たいものは温くなる。分岐点は摂氏約26度』『生き物は中の空間に耐えられないので不可』『荷物はタグで管理し、タグのデータを紛失すると二度と出せなくなる』等、制限は多いものの確かに便利そうな装備品だったが、言うまでもなく、より大きな物も入れられるよう間口の改善と、よりによって白い半月型というデザインの変更、いくら何でも直球過ぎる名称の変更を、その場にいた全員が一致団結して求めることになった。ハイマン先生的には、「ポシェットなんじゃからポシェットでいいではないか」とブツクサ言ってたが、問題はそこじゃない。
「それで今回の用件は? 向こうに行くのは、もう明後日なんですが」
「おう、知っとるわい。一つはこれじゃ」
そう言って取り出したのは、ウエストポーチ型に改良された例のバッグと、縦二十センチ、横三十センチで、厚さ十センチの白い樹脂製パネルで、バッグは見た目の素材的には茶色い革製に見える。
バッグはベルトに通して使うようになっており、大きさは奥行五十センチ幅三十センチ高さ十五センチほどの長方形。
そのままでも使えるが、ベルトから外し、留め具を外すと、幅は横方向に約三倍まで広げることが出来るようになっていた。構造のイメージ的には三つ折りの財布をイメージするといい。
「中の空間の環境までは、まだ手を出せなんだのでな。要望の大きかった外見だけ弄ってある。最新の〝亜空間ポーチ〟じゃ。まあ、これは儂の仕事じゃあ無いがな」
「ほー、でも、これならまだ気兼ねなく使えるよ。前のがアレだったからな」
「こっちのパネルはこうやって……」 そう言いながらハイマン先生が折り畳まれていたパネルを広げると、1.8メートル四方ほどの大きな枠が出来上がった。
「要するに大型荷物用の〝亜空間ポーチ〟じゃ。どこでも使えるから、名付けて〝どこでも……〟 名づけんでいい? まあ、ええが。これ以上大きくなると消費エネルギー的に実用性が厳しくなるでな。普段は折り畳んでポーチの方に入れとけばいい。ポーンやクインの保管にも使えるじゃろ」
「なるほどねえ。流石だ」
新納が心から(名前以外に)感心すると、得意気にハイマン先生はふんぞり返る。
「それからもう一つの用がこれじゃ。おーい」
そう言うと奥のドアに声を掛けた。
そして呼ばれて現れたのは、以前、イーノック医師の所にいたメディカルロイドで、確か……ライラだったか。
「あれ? 君は確かジェイラン先生の所の…… いや、似てるけど違う?」
しかし、横から即座にハイマン先生が訂正する。
「うむ。確かにジェイランの所のライラに似とるが別個体じゃ。同型でも顔の造形は一体一体微妙に変えて造られとるからの。まあ、見慣れておらんと勘違いすることもあるが」
そう言われてみると、確かに違う。
ライラはやや薄いブルーの髪だったが、こちらは鮮やかなピンク色で、ストレートな髪質のショートボブ、瞳の色も髪と同色。体型は同じように華奢で、少女といってもいいくらいの幼い顔立ちをしているが、良く見ればこちらの方がやや幼く見える。
変な表現だが、一歳違いの双子姉妹というのがピッタリな感じだ。
「はい、私もライラと同じケラー・メディカル・インダストリーズ社製メディカルAMです。名前はまだ頂いていません」
「まだ名前が無いのか」
「そこじゃよ!」
突然、ハイマン先生が叫んだ。
「この嬢ちゃんは昨日ロールアウトしたばかりでの、一応、お前さんについていく手筈になっとる。
この前見せた分析AMじゃ絶対嫌だとか抜かしたが、この嬢ちゃんなら文句無いじゃろ?」
「え? でも連れて行くのは分析担当で、彼女は医療系のAMでしょう?」
「そんなもん、人間とは違うんじゃ。いくらでも対応はできるわえ。
ちゃんとメディカルロイドの母体をベースに、データの収集分析機能と、序でに護衛としての役割も熟せるようにカスタマイズされとる。元々、この前見せた分析AMも、分析以外の機能山盛りじゃったからの」
それからハイマン先生は、彼女の諸元を詳しく説明してくれる。
それによると、医療については簡単なものなら外科手術にも対応し、分析機能についても問題ない。
護衛任務については、純粋な軍用には劣る部分もあるものの、個人の護衛なら必要十分な機能を保持しているそうだ。
「それでの、せっかくなんじゃ、お前さんがこの嬢ちゃんに名前つけてやれ」
「いいんですか? 俺が付けて」
「そりゃーお前さんとは長い付き合いになる相棒じゃぞ? 一番ふさわしいのはお前さんじゃろ」
そう言われれば新納も否とは言えない。
確かに長い付き合いになることは確定しているし、時には命を預けることもあるだろう。
しかし、犬猫でもあるまいし、人、それも女の子の名前を付けろと言われて、じゃあコレ、と簡単に思い浮かぶものでもない。
「うーん…… ピンク…… 桃…… いやいや、桜…… 桜子。サクラコで」
完全に、そのピンク色の髪からの連想だ。安易ではあるが、ピンク→桜の花と連想するのは日本人故かも知れない。
単に『サクラ』としなかったのは、何だか自分が『出来の悪い兄貴』になりそうだったからだ。
「サクラコか。何か由来は…… まあ、ええか。付けろと言われて、ちゃんと付けたんじゃからの。聞いたの? 今からお前さんの名前は『サクラコ』 じゃ」
「……はい、私はサクラコです」彼女はそう言って丁寧にお辞儀をした。
◇ ◇ ◇
旅立つ日が来た。
新納は今、大きなMRIかCTスキャン、はたまた酸素カプセルにも似た装置の中で、仰向けに寝た姿勢のまま、その瞬間を待っている。全裸で。
これは転送に伴って個人の正確な身体データを一致させる為の措置で、このデータが合わないと、最悪の場合、ランダムに身体の一部だけが転送先に送られ(当然、送られなかった部分は残る)たり、転送先で肉体が破裂などという、スプラッタな事態に陥ってしまう。
別に装備品を着たままでも送れないことは無いのだが、生物の場合は新陳代謝等によるデータの揺れがある為、徹底的に不確定要素を排除した上で、万全を期する為に全裸での転送が推奨されているのだ。断じて個人的な趣味などではない。
『ファージ・ワン、転送成功。セルフチェック開始……グリーン』
管制官の声が響く。
『了解。ファージ・ワンは予定通り、そのまま周囲を警戒させて。ファージ・ツー、転送いける?』
シンシアの上司であり、今回の転送作戦の統括責任者である、アデル・オーティス女史の声だ。
『いけます』
『了解。ファージ・ツー転送スタート!』
ゴウンゴウンと低周波な機械音がリズミカルに響く中、新納よりも先に送られ、転送先の地点で周囲の安全を確保する為の汎用歩兵達、コードネーム・ファージの転送が進んでいた。
管制官達のやり取りが聞こえている。まず、汎用歩兵3体と上空警戒用の支援型飛行機械、コードネーム・クラブ・ワンが1機、それにサクラコが先に送られ、それから装備ユニットのコンテナパックが送られた上で、最後に新納が送られる予定になっていた。
『ニーロさん、体調どうですか? どこか痛いとか無いですか? 大丈夫ですか?』
シンシアの心配そうな声が問いかけてきた。
本来、今回の転送作戦に彼女の出番は無いのだが、誰も見送る者のいない旅立ちもアレだということで、見送り要員として彼女も立ち会っている。
彼女は今、転送管制室で上司と一緒にいるはずだ。
「大丈夫だ。絶好調とは言わないけど普通だよ。」
心配そうな声に、新納は立場が逆じゃないのかと思いつつも安心させるように応えた。
確かに緊張はあるし、心臓は早鐘を打っているが、それは言わない。
転送に支障をきたす程の異常なら、常に新納の生体反応をモニターしているオペレーターが何か言うだろうし、態々シンシアに心配を掛ける必要は無い。
『ファージ・スリー転送スタート!』
汎用歩兵達の転送も順調に進んでいる。
『大丈夫です! もう100回以上転送して、トラブルは最初期の2回だけなんですから! 成功率100パーセントですよ! 向こうに着いての手順、ちゃんと分かってますよね? 生水とか飲んじゃダメですよ? 後、知らない女の人に着いて行ったりとか……』
(いやいや、2回失敗してるなら、それ、100には……それと女限定かい)
どうやら、いよいよになってテンパってしまっているらしいシンシアの言葉に、思わず苦笑しながらも、彼女が混乱していることで逆に落ち着いていく。
どういった経緯で彼女が新納の担当に抜擢されたかは知らないが、いい相棒を選んでくれたと、その決定者には感謝しか無い。
全てが荒唐無稽に思えて、自らの立ち位置ですらあやふやな今の新納にとって、無条件に信じていいと思わせてくれる彼女の真心は、唯一無二の拠りどころだから。
『クラブ・ワン、転送終了!』
『引き続きサクラコ転送スタート!』
『装備パッケージの転送、開始します!』
転送作業は手筈通り着々と進んでいく。
「手順もちゃんと頭に入ってるよ。次のコンタクト予定は一ヵ月後か。取り敢えず、向こうに着いたら服着ないとな」
『服も装備もちゃんとバッグに入ってますから! 後で足りない物もちゃんと言ってくださいね。準備してすぐ送りますから! それとご飯も・・・・・・』
『Mr.ニイロ、転送開始します!』
相変わらずテンパったままのシンシアを無視して、管制官が声を被せる。
「オーケー、やってくれ。皆には世話になった。これからも世話になるが、ケジメとして礼を言う。ありがとう。じゃあ、また後でな、シンシア」
シンシアとの会話のお陰で、新納自身驚くほどに穏やかな気持ちで礼を言うことができた。
『にい!・・・・・・』
『アテにしてくれていいわ、Mr.ニイロ。いってらっしゃい。転送スタート!!』』
そう力強く宣言したアデル女史の声と共に、体の中心から胃が裏返るかのような悪心と悪寒が立ち上って来る。
「ぐぅっ!!」
歯を食いしばって耐えるが、思わず唸り声が漏れるのは仕方が無い。逆にここまでは事前に聞いた通りなので精神的にはまだ余裕すらあった。
しかし、次の瞬間、聞いていなかった衝撃を体全体に感じる。
音は無い。
目も見えない。
意識も……
(シンシア何か言いかけたような?)
暗転した。