第4話
通路の景色は、良いだとか、悪いだとか、そういうことを議論する余地がない程にはシンプルで、ただただ白色の壁、床に、タイル状に線が敷かれているに過ぎない。この線もまた、建築する上で必要な隙間であり、模様という訳でもない。ドアがところどころにあるが、そのドアの奥を見たいとも特に思わない。前を歩くイオは、オレに施設での生活を説明する。
「食事等々、必要なものは、さっきの部屋に備え付けられているパネルのメニューで呼び出すことができます。余程特殊なものでなければ、人間の生活に必要なものは揃っているかと思いますよ」
「へぇ」
「えーと、でも、その、大丈夫です」
「……何が?」
「ダイチ様のお世話はイオがつきっきりでしますから……」
何が恥ずかしいのか、彼女はもじもじした様子でそんなことを言っている。一体何が彼女をそのような衝動に駆らせてしまったのか分からないが、そんなにデレデレされても、床になりたいオレにはまるで効果がないということを彼女は理解してくれているだろうか? 理解していて欲しいなぁ……。
さて、殺風景と形容する以外に何も言葉が思い浮かばない廊下を二度、三度曲がると、ようやく違った景色が現れる。目の前に現れた扉は、これまでの中身が見えない扉とは異なり、ガラス張りで、オレもよく見た事があるもの。自動ドアだ。
「出るのか?」
出る、とはこの施設の外に出るのか、ということを聞いているのだ。
「はい、出ましょう」
イオの言葉に俺は従う。そのまま自動ドアを通り抜けると、これまでの真っ白とは少し違った、ビルの受付のような空間。かといって、そこに人は一人もいない。唯一設置されているのは、地面から生えたような案内板のようなもので、オレがそれに近づくと、その案内板から、
「ご用件を承ります」
との機械音が発せられる。
「それは、受付さんですよ」
案内板に映し出されている文字は──オレにも理解できる言葉だった。
「受付……?」
「えっと……そんなに難しいことではないです。この施設に用事がある人が、その案内板を使って受付をするんです。もっとも、年に一回、二回、ですけどねー。あぁ、ダイチ様が外に出て、帰ってきたときは、こちらの案内板の指示に従って自動扉を開けてください」
「ふむ……」
確かに難しいことはない。オレが生きていた時からも想像がつくシステムだ。オレが理解したことを見て、イオは頷く。
「じゃあ、外に行きましょう!」
そう言って、施設の外に出て行こうとするイオを、オレは呼び止めた。
「待ってくれ」
「イオ、とっても重要なことがある」
「?」
振り返りながら、首を傾げるイオは可愛らしい。何となく呼び止めたに過ぎないが、次の瞬間、オレの頭に衝動が駆け抜ける。
「オレを踏んでくれないか?」
唐突な申し立て。いや、待って欲しい。待ってくれ、待って欲しい。落ち着いて聞いてくれ。これは決して、オレが好きで言った訳じゃないんだ! 違うんだ! そう、口からポロっと出てしまったのだ! 誰しもあるはずだ、目の前の女の子があまりに可愛かったから、ぽろっと、踏んでくれ、と言ってしまうことが。ない? いやいや、考えても見て欲しい。
「え、えーっと……」
「いやいや! 違うんだ、これは、その、オレのな、オレの中の内なるオレが目を覚ましてしまったというか……そう! 多分な、お前らのせいだな……。お前らが、仮想シミュレーションだかなんだか知らんがそこにいたオレをそのまま引き出すことができなかったんだろ! そうそう、タガが外れたように愉快痛快にこうして血迷ったことをポロっと口走ってしまうのは、そのー、えーっと」
「いえ! それは、ダイチ様の意志ですよぉ!」
グイッと俺に顔を接近させるほどの勢いでイオが言い切る。たじろぐオレに、彼女はさらに追撃する。
「意志って何だと思いますか? 意志とは自己決定です。じゃあ、赤と白、ダイチ様はどちらの色を選びますか?」
突然投げかけられた質問。特に意味はないだろう。オレは感覚的に、
「赤、かな……」
直前にさんざん赤を見せられていたから、ということもあるだろうが、赤を選ぶ。すると、瞬時、部屋の壁が赤一色へと変化する。まるで、オレの言葉とこの施設が連動しているかのように。はっと驚くオレに向けて、イオはさらに続けた。
「赤──それを選択したのにさしたる理由はなかったかもしれません」
コクリと頷くオレ。
「けれど、例えそこに、もう白は見飽きたから、という理由があろうが、あるいは、ダイチ様がこれまでに仮想シミュレーションの中で赤に対する好感度を上げていたからであろうが、それは紛れもなくダイチ様ご自身の選択によってなされたものなのです」
黙っているオレに、イオは笑いかける。
「さ! 行きましょう! ダイチ様! それと、先ほどのダイチ様の要求への答えは、これですっ」
イオはオレの手を握って、オレを外へと連れ出す。そして、手をぎゅっと握る。イオの肌の感覚、イオが力を入れている様子、そして、イオの心臓が振動している様子がオレに伝わり、また、イオの頬が僅かに髪と同じようにピンク色に染まっているのが目に入る。
「これ、って……?」
無粋にも、質問をするオレにイオはわざわざ自身の思いを言語化して伝えてくれる。
「大切な人を踏むことなんて、イオにはできませんっ! ……さっ、行きましょ?」
イオは、顔を隠すように前を向き、オレを引っ張って建物を出る。
建物の外に出たところで、何かとんでもないことが起きるかと思えば、まるでそんなことはなかった。しかし、オレの視界には、建物の中に居た時とはまるで桁違いの膨大な量の情報が入り込む。
建ち並ぶのはビル──しかし、オレが知っている街とは何か少し雰囲気が違う。ビルの窓が極端に少ないのだ。街の中心のビルと聞いて思い浮かべるのは、オフィスビルやら、商業施設としてのビルであるが、ここらの視界に入る範囲内に建ち並ぶビルに備え付けられた窓は人が活動する建物としてはあまりに窓が少ないように見える。中には、窓がないものさえ見える。それ単体で建っていれば決してビルと呼ばれることのないであろう長細い建築物は、周りにかろうじてビルと呼べる建築物が乱立していること、また、ここが街であるという事実から、何とかビルだと判断することができる。
道路はアスファルトで舗装されているし、道も決して狭すぎない。しかし、ないものがある。交通標識だ。一つもない。また、街灯もない。次に空を見上げれば、そこには、やはり、室内から外を見た時と同じような違和感が間違いなく存在した。
「あれは……?」
空を見上げてぽつりと言葉を発するオレ。滑稽な姿であるが、イオはそんなことにも全く動じないでしっかり説明してくれる。
「空、ですねぇ」
馬鹿みたいな回答。勿論、オレが問うているのはそんなことではないのだが、そのイオの発言は、オレの会話レベルに実に見事にマッチしている。低い意味で。さて、改めて問おう。
「いや、違う。それは知ってる。だけど、あれは、その……空、じゃないだろう? なんていうんだ、そうだ。オレが生きてた頃に見てた空じゃない、そうだよな」
そう、目に入る空なるものは、まるでガラスを通したかのような雲であり、それは、確かに、空といえば、空なのだが、どうも様子はおかしい。
「それを話すと長くなりますけどね……お外は危険がいっぱい、って感じです。汚染とかー、後は、紫外線とかー、えーと、だから、ドームの中で生活しないとダメなんですよ、この体を保護するためには」
なるほど、大体理解出来る。
「機械なら話は別ですけど……」
ごにょごにょと付け加える。
「え、なんだって?」
大体聞き取れたが、それが何を意味しているのかいまいち理解できなかったため、聞き返すも、イオは、何でもないですよ、と明るく返答をするに留まった。
まぁ、それはいいだろう。しかし、それら景観は、あくまでこの街を形成する外見上の要素に過ぎない。オレは日本の街しか見てきていないのだ。海外の街であれば、そんな街の景観なんてものはいくらでも変わるというのに、今は未来であるという訳だ。となれば、多少の変化というのはあってしかるべきと言えよう。けれども、この街に、それら以上に──何より欠落しているものがある。それは、
「人、いなくないか?」
人だ。もしかして、
「えっと……あれ? この街にいるのは、オレと、イオと、エーワン、だけ……?」
さらにオレの果てしない想像力は先を行く。
「も、もしかして、この未来の世界に残っている人の数はあまりに少ないのか? え? そうなのか、なぁ、イオ!」
イオは、きょとんとした表情でオレを見ると、道の先を指さして言う。
「えーと、残念ながら、ダイチ様、ここはイオとダイチ様だけの街ではありませんよ。ほら、そこ、歩いてますよ」
イオの指の先には、確かに人影がある。少し駆けて、その人が本当に人なのか確認できる距離まで行き、その人間を視界に収める。不思議そうにこちらを一瞥した男性は、スーツ姿の若い男であり、それは、まぎれもなく人に見えた。
彼は、オレを一瞥すると、目に疑問を浮かべつつも、歩みを止めることなくどこか目的地へ向けて歩いていってしまう。走ったことによってオレは施設前から移動していた。目の前には大通り。どうやら、施設は道を一本入ったところにあったようで、その大通りを走るのは自動車らしきものだ。歩道には少ないながらも人影がちらほら見受けられ、ここはやはりイオが言った通り、オレとイオの秘密の花園ではなかったことが明らかになる。
ぼーっと寂しいながら確かに存在する人通りを眺めていると、服装などもシンプルで、オレが知っている二十一世紀の日本とそんなに変化はないように見受けられ、安心感が増していく。ここにも人はいるんだという安心感だ。
同時に、不安もまだまだ沢山ある。なんとなく、今が科学技術の進んでいる時代であるということくらいは分かるのだが……。そんな風に思考を巡らせようとしていたところ、ポンポンとイオに肩を叩かれる。
「さて、ダイチ様。デートに行きましょう!」
「デートぉ?」
質問だらけのオレに、イオは全く面倒くさがることなく説明する。
「はい。まだダイチ様は知らなければいけないことが沢山ありますよね。聞きたいことも沢山あるはずです」
「そりゃ、勿論だけど……」
オレが考えるのは、一つだ。それは、エーワンが持っていた黒い箱のこと。あれと同じように、一気にもっとどばーっと情報を流し込んでくれればオレの不安の多くも解決するような気はする。
「ダイチ様が考えていることは分かりますよ。でも、それじゃ、味気ないじゃないですか?」
本当に彼女にはオレが考えていたことが分かるのだろう。鋭い洞察力である。その小さい体の中に無限の可能性を秘めているのだ。
「それに──データ送信じゃ、分からないことだって、あるんですよ……?」
イオが赤面しつつ、オレを見つめてくる。ビシビシと伝わってくるオレに対する好意は、もう言葉にせずとも、オレでさえ理解できた。ああ、間違いない。絶対にだ。この娘は、オレに好意を寄せているに違いない。ええ? 思い上がりだって? いやいや、聞いてくれ。これは、決してオレが前世でもてていなかったことからくる女性に対しての自意識過剰とかそういった生ぬるいものじゃないんだ。これは決して、朝挨拶をしてくれたから、あの子はオレのことが好きに違いない、とかいう悲しい思い込みじゃあないんだって、本当に。その証拠を見せようじゃないか。だってオレは開き直った男だからな。
「それは、こういうこと、か?」
オレはイオの体を抱き寄せる。オレより一回り小さな体の腰回りは驚く程に華奢で、可愛らしい服にオレの手によってシワが入る。けれども、イオはまるで抵抗を示すことなく、ただただオレの胸に顔をうずめるばかりだ。
考えても見て欲しい。こんなことをオレに好意がない女の子にいきなりしたらどうなるかを。
ああ、答えは簡単だ。オレの体は即時突き飛ばされ、な、なにしてるんですか、とドン引き顔で見つめられるに違いないのである。もし、仮に、それが人を踏むことを全くいとわないある種のオレの理想的な人だったとしたら、きっとその人はオレを土下座させオレに非礼を詫びさせたうえ頭を踏みつけ続けるに違いない。……おっと、話がそれてしまったな。とにかくだ、イオの取った行動はオレの主張を証明することになるものだった。