第3話
イオは、見るからに完璧な容姿の持ち主だった。最も、その完璧というのはオレが二十何年生きてきて蓄積された知識の上に、オレから見て完璧であるという話であり、つまるところ、オレの好みの女性であると言えた。
何も特別なことはない。スタイルが特別に良い訳でもなければ、絶世の美女と言うほどに顔やら何やらが整っているという訳でもないだろう。しかし、オレは彼女に不思議な魅力を感じていた訳だ。さて、そんなことを言えば、まるでオレはイオの全てが好きなのかと思われてしまいそうであるが、勿論、そんなことはない。何故なら、オレは彼女とまともに会話をしたこともなければ、彼女がどういう人間であるかということも知らないからだ。
オレが彼女について知っていることといえば、イオという名前。そして、白に淡いピンクが僅かに混ざった、セミロングの髪の毛を持っているということと、今、目の前にいる彼女が着ている服装は不思議なことにオレがかつて生きていた地球の日本で一部の層の女の子が来ていたであろう服装とさして変わりないということくらいだ。
フリルのついた黒のミニスカートに白のオーバーニーソ。上? まぁその辺は大体下に併せた感じだよ、うん、白とか黒とかっぽい感じでね。その辺はとにかく、可愛い、に全神経を振りきっていると言えばよかろうか。オレから見れば、その服装は完璧そのもので、まるでオレの脳内の理想服装カタログの一ページをはぎ取ってそのまま再現したかのような──。
「その服装って、もしかして……」
俺のふと頭に浮かんだ疑問を口に出すと、イオは、にっこりと屈託のない笑顔を俺に向けて答える。
「はいっ! ダイチ様の理想的な外見に合わせてみましたっ!」
ふー、と首を二度、三度横に振る。何より魅力的なのは、その脚である。露出はゼロ。しかしながら、脚のラインがしっかりと主張されている。艶めかしい訳ではないのだ。あくまでそこにあるのは可愛いであり、天使っぽさがにじみ出ているといってもよい。ところが、ところが、である。
「そんなもの、教えた覚えはないんだが……」
俺のもっともすぎる疑問に、イオは微笑む。
「えーっと、まぁ、そのーですねー。なんというか、基本的な情報は、把握してるんです! 勿論、深層心理、深いところまでーという訳にはいかないんですケドー……」
「そういうものなのか、未来って」
「ええ、そういうものなんです、未来っていうのは。受け入れきゃ!」
そんな会話を二人でしている今、オレとイオがいるのは、相変わらずエーワン管理の施設の中だ。ベッドから起き上がったオレにエーワンが言い渡したのは、とりあえず、イオに施設とか外とか案内してもらって? という大雑把なものだった。
その場面において、オレは、あなたが色々教えてくれるんじゃないんですか? と問おうとしたが、まぁ、少し考えれば、とどのつまり、イオと二人きりで時間を過ごせるということでもあり、悪くはない話であったので、抗議の声を発する必要はなかったわけだ。
さて、みなさんも実に気になっているであろう、イオの下で一時的に床になった話については、その直後、イオがものすごい瞬発力でオレの上から飛びのいて、頭を抱えてふらふら倒れそうになったという結末を迎えている。
室内はシンプルな造りだ。安いビジネスホテルの一室のような室内には、ベッドとテレビか何か、後は、壁沿いの机の上に何か黒い箱……。用途は不明である。
「そこが、睡眠用のベッドで──あとは、そのモニターはー、視覚学習のための装置──言い換えれば、暇つぶしの道具、旧時代の言葉で言えば、テレビ……ですね! 特に何かの役に立つことはありませんが、この街の歴史を知ることができますよ」
「へぇ、歴史……?」
「はい、歴史です。歴史はどこにでもあるものです。歴史とは蓄積です。あらゆる蓄積が私たちを作るんですよ~。それでですねぇ、そのモニターを含めて、この部屋の機能は全て音声指示で動くように設定されています」
全然分からん……が、
「へぇー。つけーっていうとつくのか?」
全く反応しないモニター。
「はい、モニタースイッチオン」
そのイオの声に反応し、モニターの画面が映し出される。どうやら合言葉が違ったらしい。流れる映像の画質は何故かあまり良いようには見えない。これだと、自分の記憶に新しい自宅にあったテレビの方が綺麗だったのではなかろうか。
「未来のテレビっていうんだから、もっと、こう、綺麗な……なんていうかな、そう、例えば、3Dとか、そんな感じに映し出されるものだと思ってたけど、そうでもないんだなぁ」
俺が若干の落胆の声を漏らすと、イオは、うーん、そうですねぇ、と少し考えてから言う。
「これ、昔の製品を復元して使っているだけですからねー……そもそも、視覚による娯楽文化は研究中といいますか、何と言いますか……」
煮え切らない様子のイオ。ああ、それとこっちがトイレでぇ~、なんて説明するイオを傍目に、未来には未来の事情があるのだろうかと考えつつ、俺は部屋の中を移動する。
窓のない部屋は、入室と同時に明かりがつく仕組みであり、今、俺が足を踏み入れた恐らくシャワールームもまた同様の機能を兼ね備えているらしい。
「うーん、まぁ、こんなもんか……」
特にこれと言って驚きのないシャワールーム。ビジネスホテルと違うのは、湯船がないところだろうか。未来といえど、人々が要求する生活というのはさほど変わりないのだろうか。いや、そもそも、未来にいるということは分かっていても、ここはどこなのか、君たちは誰なのか、そもそも、自分がどういう扱いなのか、といったような様々な情報が欠落しているため何をどうということもできないのであるが。
「えっ……?」
シャワールームの蛍光灯が無事点灯し、シャワールーム内には鏡があることも明らかになる。大きな鏡だ。全身が映り込むくらいに大きな鏡。別にその鏡自体に問題はない、けれど、そこに映し出されているものに問題があった。
写り込むのは、オレの後ろに立っているイオ──カッコいい、男。その男は、入院生活を送っている時に着させられるような病院用服とでもいうべき白い布を身にまとっていた。それは問題ないだろう。しかし、そこにある顔は、オレのものであり、俺のものではなかった。
「あー、えーっと……」
そうだ。未来がどうだとか、イオがどうだとか、ここがどこだとか、そんなことの前に、オレが考えなければならないことがあったのだ。それは、オレが誰か、ということ。
訳の分からないことを言っているように思われるかもしれないが、しかし、目の前の鏡に映し出されいてる人間の顔は、オレの顔とは微妙に違う気がしたのだ。
そんな戸惑うオレの脇から、ひょこんとイオが顔を出し、オレの顔を覗き込む。可愛らしい目が、オレらしき者の顔を捉え、サラリとした淡いピンクの髪の毛がオレの脇腹をさする。
「どうしました?」
純粋なる疑問に、オレはそのまま思っていることを口にする。
「これは──その────誰だ?」
ぐわ、と歪む思考。ここにいるのは誰だ? ここにいるのはオレなのか? いや、俺、なのだろうか。果たして、ニ十一世紀の日本で生まれ、順風満帆な人生を送りつつも、電車にひかれて死んでしまった俺はどこへ行ってしまったのだろうか?
イオは、オレの脇からひょこりと出した頭を引っ込めると、次にオレの前へと移動する。しかし、俺はそんなことを気にしている余裕はない。イオによってオレの視線は鏡の中にいる何者かを捉えずイオを捉えることになるが、だからといって、オレの中に生まれた壮大なる違和感がなくなることはなく、不気味な思考がひたすら頭の中に渦巻く。気持ちが悪くなり、嗚咽する。しかし、何も出てはこない。何も食べていないのだから当然だ。
頭を抱え、自分が誰であるかという無意味な問いを繰り返す。果たして、頭の中にある蓄積された知識は、本当に、オレが、オレ自身によって、体験して、得たものなのだろうか? それは、まやかしなのか、シミュレーションの中でいただけというのは、一体、何が、何で、どうなって、どうやって、そうやって……ああなって……。
ぐるぐると渦巻く気味の悪い思考は、このまま進めばきっとオレ自身を破壊してしまうのだろうと心の奥底でオレ自身が警告する。けれども、思考は留まることを知らず、オレの手元を離れ、制御などできない領域へと踏み込んでいく。これを止められるのは、もうオレではない。オレが自らこの負の思考の連鎖を止めることはできないのだ。膝から崩れ落ち、膝が地面に当たる。しかし、その痛みさえも、もうオレの脳には届いているのか、いないのかさえ分からない。だから、その──もう──。
あ。
そんなオレの思考を遮る者がいる。今、オレは、誰かの手によって包まれていた。誰かの体で包み込まれていた。いつの間にか閉じていた目を恐る恐る開く。勿論、この場にいるのは、オレとイオだけ。半立ちになっているオレの頭を抱え込むようにして、イオは俺をそのあまり大きくない体で包み込もうとしていた。
「……えっと」
オレが口を開く。しかし、イオは答えない。答える代わりに、ギュッと腕に力を込め、自分はここにいるということを知らせる。彼女の体は、確かに柔らかく、彼女は間違いなく、そこにいる。オレはオレを包むその感触を楽しむことに精一杯になり、少しずつ脳の混乱を収束させていく。落ち着く、という表現が適切であろう。そこに興奮は一切なく、慈悲を感じさせる彼女の行動は俺の思考の暴走を制御することに成功する。
何秒が経ったか、最初に口を開いたのイオだ。そのままの姿勢で、抱擁を解き、オレの顔を見下ろして、にっこり笑いながら言う。
「大丈夫です。大丈夫。ダイチ様はダイチ様です」
何も大丈夫なんかじゃないのだが、まぁ、言葉というのは不思議なものだ。そう言われることが、そう伝わることが、オレにとっての安心へと繋がるのだ。
「いいですか、よく聞いてください。これは別に特別なことじゃないです。確かに、ダイチ様の身体は、ダイチ様が仮想シミュレーションで持っていた体とは違う──多少の違和感があるでしょう。全く同じものを再現するというのは、難しいんです。でも、前向きに考えてください! エーワン様がいうには、ダイチ様から見ると、若干自分の理想に近づいている、とかなんとか……ね、カッコイイですよ!」
うーむ……。
これといって中身のない言葉ではあるが、彼女がそう言っているという事は、まぁ、そう言うことなんだろう。
「体ってそんなに大切なものですかね? だって、例えばですよ、仮想シミュレーションの中の物理法則でも、人間は、一晩寝ればその間に体の細胞は何千個、何万個、いやいや、もっともーっと死滅して、新しく生まれているんですよ? そこにある共通点はDNAという遺伝子要素のみじゃないですか? タンパク質と水ですよ、生き物って。容器ですよ。確かに、体と脳は連動しています。体がなければ感じられないことは沢山ありますよね。だけど、体はあくまで体。見た目が少し違ったところで、それは自己を脅かすほど重大なことでしょうか? ニ十歳の若者が五十歳の外見になったところで、継続していれば問題はないはずです。ダイチ様、あなたが継続していることは、このイオが保障します!」
「うーん……」
屁理屈にも思えるが、ど真面目な言葉真顔で吐くイオの言葉には、何とも言えない説得力がこもっている。それはともかく、彼女の言っていることが真であれ、偽であれ、不思議とオレの心は落ち着きを取り戻していた。
そこで、オレは前向きに考えることにする。
立ち上がり、イオの両肩を掴んでその体を横へずらすと、再び鏡と向き合う。
「まぁ」
カッコイイじゃないか。いい感じの男だ。好青年という言葉が似合うだろうか。気持ちが落ち着けば、多少姿形が違うことくらいどうということはない。それにオレは決して自分を見失ってなどいないはずだ。今でも立派に床になりたいという夢を持ち続けているし、隙あらばイオの下に潜り込もうと機を伺ってもいる。大丈夫、オレは、オレだ。
落ち着きを取り戻したどころか、なんだかパワーが溢れてきたオレは、イオの顔を伺う。そこには、相変わらず笑顔のイオがいる。
「落ち着きました?」
そんな気遣いも心地いい。
「浴槽はないんだな」
「えー、はい、そうですねー、残念ながら……ニホンにはそういう文化ありましたもんねー」
そんな会話を繰り広げながら、
「じゃ、次はこっちですー」
そう言って軽い髪を揺らしながらトテテと歩いていくイオの後ろに続き、自室を出ていく。