第2話
「これが何かの説明は難しいですが──二十一世紀の地球より、はるかに科学技術の向上したこの世の中に置いて、脳が何かを理解するというのは意外にも簡単にできるようになっているんですよ、そう、例えば、こんな風に」
言うと、その黒い箱が俺の頭へ近づけられる。
刹那。
俺は全てを理解する。エーワンが言っていることが正しい、ということを全て理解したのだ。何故か。俺の頭に、二十一世紀の地球のこと、その仮想シミュレーションがいかに行われているかということ等々、エーワンが言っていることが正しいということの証拠になる知識が、ぐわ、と雪崩れ込んできたからだ。
まだ疑う余地はある──疑う余地はあるが、まぁ、彼女の言っていることはほとんど真実と見て間違いないだろうと俺は考えた。
「どうですか? 理解、できました? そうですね、これはいわゆる、脳に経験をさせる道具とでもいいましょうか……。本来であれば長い時間をかけて行う理解という行為を短時間に効率的に行える──データの書き込み、というとしっくりくるかもしれません」
理解はできた、理解はできたが、同時に、一つの疑問が、それはもうどうしても、どうしても、どーしても! 何が何でも尋ねなければならない疑問が思い浮かぶ。
もういい、このエーワンなる女性が言っていることを全て受け入れるとして、だ。受け入れるとして、だからこそ、どうしても、何としても、聞かなければならないことがあるのだ、俺には!
「一つ、聞きたい」
首を僅かに傾け、どうぞ、と続きを促すエーワン。よし、と意気込んで、俺は問う。
「まぁ、これは、簡単に言えば、俺の、来世、ってことだよな。前から見たら」
エーワン、肯定。
「そのー、だめ、だったのか……?」
「だめ、とは……?」
エーワンの疑念の声をそこそこに、俺は震える声で、続ける。
「俺の夢はな──」
黙って聞く、エーワンと、イオ。
「俺の夢はな……」
何度も呟く俺。そして、大声で、叫ぶ、言う、宣言する!
「俺の夢は! 来世! 床になることだったんだ!!!」
沈黙。
この世の全てが止まってしまったかのような沈黙が辺りを包む。しかし、大事なのはそこじゃない。俺はエーワンに聞きたいことがあるのだ。こんな沈黙でめげるわけにはいかないのだ、俺、強い子になるんだ!
「床には、なれなかったのか?」
沈黙。恐ろしい疑問を孕んだ四つの眼。だけど、負けないぞ、俺は負けないっ。
「なぁ、エーワンさんよ! 俺は、床に生まれ変わることはできなかったのかって聞いてるんだよ! ハイテクだろ? ちょーーハイテクじゃないか、この世界。なぁ、ハイテク過ぎるこの世界で、俺はどうしても人間に生まれないといけなかったのか? なぁ? だって、そんな、そんな訳ねぇよな、例えばそう、鳥だって。鳥にだってなれたよな!?」
「え、ええ、ま、まぁ」
怯えた声で答えるエーワンが言い終わるよりも前に、俺は矢継ぎ早に次を言う。
「じゃあ、馬は! 岩は! 貝は! 植物は!」
「えーっと、まあ、はい、まぁ、可能といえば、可能、でしたね……」
俺の頭で何かが弾ける音がした。
「えええーー!!! なんでぇええええ!!!!」
俺は可能な限りの大声をあげる。今まで生きてきて、いや、一回死んだけど、うん、だから、生きてきた中で一度もあげたことないような大声をこれでもかという位に張り上げる。イオも、エーワンも俺の声に驚き耳をふさぐ。人が耳をふさぐくらいの大声をあげてやったぜ、どうだ、見たか!
しかし、そんなことで俺の荒ぶる感情は収まらない。
「なんでですか!? えええっ! 俺を!? 俺が!? せっかく生き返ったのに!? 人!! 人間! ヒューマン! ピープルにしてしまったんですか!? 何故! なにゆえぇえ! ええっ、だって、俺、いいことめっちゃしてましたよね!? してたんですよね!? めっちゃ徳積んだんですよね!? 徳積みまくってカンストしそうな勢いだったってことなんですよね? だから、ここにいるってことでしょ、そうでしょぉおお?」
同意を求める。コクリ、コクリと何度も頷くエーワン。
「じゃあああー、違うでしょ! 違うじゃん! 俺、言った!? 来世も俺は人間になりたいです、人類こそナンバーワン、オンリーワン、人に生まれ人に生きたくてたまらんよぉお、って宣言しましたかぁ? してませんよ! 俺は、来世、人になりたいだなんて一言も言ってないんですよ。おかしくないですか、聞いてくださいよ、俺は人になりたくなかったんですよ。ねぇえ、なんでぇええ、なんで、人にしちゃったのよぉおお! だって、床になれたんでしょ? 床に。床……床になりたい、床になりたかったよぉお……とあるお家の床、体育館の床、お風呂マット、プールサイドの床、学校の廊下、なんだっていい、どんな床だっていい、俺は床になりたかったんだ。何故だ、何故床にしてくれなかったんだ! 神様、あんたは独りよがり過ぎる。独善だ、こんなもんっ! 人にして欲しいことを自分もやろう、じゃあないんだよ、人がして欲しいことをしてあげよう、なんだよ。分かるかい? 分かってくれよぉ!」
俺の熱弁に、言葉を失ったエーワンに代わって、イオが引き気味の顔で俺に短く聞く。
「えーっと、な、なんで、ですか……?」
そんなものに答える必要があろうか? 答えたところで俺が床になれるとはとてもとても考えにくい。しかし、いいだろう、話してやろう、教えてあげようじゃないか、この愚かな救済者たちに、この愚かな、神になろうと考える二人の人間に話してやろうじゃないか、俺が何故床になりたいのかを。
確かにそうだ、因果関係。世の中、何事にも理由があるのだ。理由なき目的ほど滑稽なものはない。であるからして、俺がこの二人に俺の熱意を伝えるためには、確かに、俺は、俺が床になりたい理由を伝えなければならないのだ。
「いいか、よく聞け。俺はな、ドMなんだ、マゾヒストなんだ。超マゾヒストなんだ。何故かって? んなこた知らねぇよ。勿論、何かしらの理由はあるだろうな、だけど、それが今重要か? いいや、そんなこたどうでもいいんだ。とにかく、それに気づいたのは大体高校一年生くらいの時だったよ。きっかけ? あったさ、でもそんなことも今どうだっていい。大事なのは俺が被虐趣味を持っているということなんだよ。色々あるよ、Mにもさ。でもさ、俺は踏まれたかったんだ。踏まれるっていうことはな、その人の全てを受け止めるということなんだよ。分かるかな、これは、難しいかもしれないね。だけど、シンプルに考えてみて欲しい。人が俺の上に乗る。それって即ち、その人の体重を受け止めるっていうことだろ? 人は脳で考えるんだ。その脳だって、その体重の中に含まれているんだよ。ありとあらゆる感情は、体重に含まれているの差。勿論、踏まれることによって俺が感じることはそれだけじゃないさ。だけど、それを言葉で伝えるには余りにも時間がかかり過ぎる。一言で言えば、恍惚とでも言おうか。足裏の感触、かかる重み、俺の脳が感じる痛み、それら全てが相手によって俺にもたらされる刺激であり、至福なのさ。ああ、分かっている、言うだろうね、そんなの普通じゃないって。だけど聞いて欲しい。聞くんだ。さて、そこで、俺はある日気づいたんだ。ただ踏まれるだけじゃ意味がないってことにな。最大のMってなんだ? そこに答えはないだろう。それは人によって違う。そこにとやかく言う気はない。ただ、俺は、俺はな、人として踏まれることじゃ足りなかったんだよ。物として、もうそこにいなものとして、慈悲なく、無慈悲に踏まれることこそ、俺が求めているものなんだよ。それこそ、全てを受け入れるということなんだよ。そのことに気づいたのさ。となると、どうする。どうしたらいい? 女の子、あるいは男の子にお願いするか? 踏んでくださいって。いーや、それじゃあダメだ。まるでダメなんだ。そんなものはお遊び。お遊戯会さ。ナンセンスなのさ、俺にとってはな。じゃあどうしたらいいかって? 答えは簡単だ、床になればいい。床を考えて踏む奴がいるか? 『あ、床さん、ごめんね?』っていちいち思いながら歩く人がいるだろうか? そんな奴は勿論いない。であればこそ、床になることが俺に与えられた唯一の最終目標地点だったんだよ。それは、俺の夢を叶える方法だったんだ。だから俺は、来世、床になりたいと思って徳に徳を重ねた。重ねて重ねて、俺は、死んだとき、神様に『あなたは凄く偉かったですよ、来世何かなりたいものはありますか?』と聞かれた時に大声で言うつもりだったんだ、床になりたいです、ってな。だから俺は頑張った、その夢をかなえるために頑張った、どうだ、なんだ、文句あるか、バカ野郎!!」
そこに慈悲はない。そうだ、人が床を踏むときほどに慈悲はないのだ。理解されようが、されまいが関係ないのだ。そして、それらを吐き出した瞬間、俺はかつての俺と決別したような気がした。
かつて、徳を積むためにありとあらゆる善行に立ち向かい、そして、成し遂げ、時には人に頭を下げ、時には人に気を遣い、狭く、苦しく、それでも床になりたいという思いただ一つを夢にもって生きてきた俺と決別したような気がしたのだ。俺自身、俺そのものとの決別、いや、俺を縛る何か制約のようなものとの決別だ。
俺を信じられないものを見るような目で見ている二人のことなど関係ない。俺はただ感情のままに叫ぶ。
「そりゃーあああもう! 俺、というか、オレだよ! オレ!! オレオレェ! オレ、床になりたかったぁああ~~床になりたかったよぉおおお」
大声で叫ぶと、ベッドから飛び出し、ものすごい勢いでダイブする!
どこへダイブしたかって? そりゃもう簡単よぉ、イオちゃんをがばーっと持ち上げてその下にダイブしたのよぉお! そりゃね、そうでしょ、これでちょっとだけ床になれるから。オレを床にしなかったことへの罰だぜ、ざまぁみろ、オレの上で茫然としているイオよ!
かくして、オレの上で茫然と引きつった顔をしているイオと、その下でウッホウッホ言ってるオレは出会った。彼女は勿論俺のことを命の恩人として見ていたかもしれない。しかし、そんなことは関係ない。俺の人生をかけて押さえつけられ続けていた欲望は今この瞬間に全てが解き放たれ、自由という二文字を手にしてしまったのだ。徳を積んでも何にもならなかったんだから、仕方ないだろ? いいか、もう誰にも俺は止められない。俺はもう誰にも止められることなくただただ己を突き進む、そう決めた瞬間が、まさに、今、なんだっ!