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火の鳴るほうへ

作者: 一

 

 悲しい金魚みたい、と言われたことがある。

 弱々しく泳ぎ、短い命のその生き物が僕と重なるらしい。単調で、消極的で、ただ死ぬのを待っているだけのような希薄さがすごく似ている、と。

「柊くんといると、たまに思うの」

  夢のなかで沙倉さんは言う。金魚鉢をのぞきながら、ある時は金魚にえさをあげながら。僕は、そのきれいな背中を黙って見ている。不思議だった。この部屋で一緒に暮らしていた頃、彼女が夢に出てくることはなかったから。

「悲しみって人にうつるでしょ」

 沙倉さんの声は涼しい。

「柊くんといると、そのことがよく分かるの。分かってしまうの」

 身にしみる、というのは、こういう喋り方だと思う。しかも、わざとそんな風に言うのだ。知っている、沙倉さんの性格は、不器用で、意地悪。

 ――悲しみは人にうつる。

  僕も、沙倉さんといるとたまにそう思う。ほんとうに、その通りだ。

  目がさめて、ベッドの隣を確認する。沙倉さんはいない。シーツには夏の匂いがありありとしみこんでいた。蝉の鳴き声がする。

 いない。当り前だ、と受け入れつつ、けれどがっかりすることはなかった。あと一週間もすれば彼女はここに帰って来るのだから。そう信じていれば大丈夫だった。沙倉さんの部屋で暮らす、三度目の夏。


  冷たいシャワーを浴び、朝食をすませると九時を過ぎていた。午後から雨宮が遊びに来る。食事の材料を買っておかないといけない。あと、掃除も。ずいぶんとしていない気がする。頭の中で予定を組みながら、あ、と気づく。あ、まだ薬を飲んでいない。

  忘れるなんてどうかしてる。どうかしてることが、最近はとくにひどい。バイトのスケジュールを間違えたり、大学に行く電車を乗り間違えたり。うまく冷静になれない。

  僕は生まれつき持病がある。心臓が弱く、学校も休みがちだったので、中学まではずいぶん内向的な性格だった。これでちゃんと成長できるのかと心配していた両親は、いまでも三日に一度は電話をくれる。

  薬を飲む姿を、沙倉さんはいつもまじまじと見ていた。楽しそうに。どことなく緊張感があるのがいいらしい。

「どうかしてるよ」

 僕が言うと、沙倉さんは、そうかな、と嘯いた。

「悲観的なんじゃない」

 あまりにも当然のように言ってしまうので、どきりとした。沙倉さんの言うことは的を射ていて、適当だ。

 出会った頃、そのきっぱりとした性格にはほとんど心を奪われた。

 僕はまだ高校二年生で、彼女は大学一年生だった。年齢が二つしか違わないのに、沙倉さんの話す言葉や、振る舞いや、考え方には魅力が詰まっていて、僕はなにに対しても目を輝かせていたと思う。小説家になりたい、と言われたとき、あれだけ誰かを応援したいと思ったことはなかった。彼女はいま、いろんな経験をしたいからとアメリカに留学している。海外ボランティア、だそうで、ちょうど一年間日本を離れなければならなかった。僕はもう、二十歳だ。

 外は容赦なく暑い。自転車を走らせながら、沙倉さんとの出来事を思い出す。坂道を下ると、四角い家が並ぶ新興住宅がしばらく続く。その先にある商店街に、僕と沙倉さんはよく出かけた。本や服、雑貨を選びに。実際に彼女と生活していたのは、高校を卒業してからの一年と半年だけだったが、それはもう、言いようのないくらい十全としていた。

  退屈がなにより嫌いだ。

  だから、それから救ってくれる存在がいることは嬉しい。病院暮らしをしていた過去と比べて安心する。安心していたのに、最近は不安になりつつある。日常が、病室の窓から眺めているように遠く感じる。沙倉さんがいないから。

  初めて僕たちが話したのは、冬の図書館だった。

  その日、期末考査の勉強をしていると隣の人のことが妙に気になった。原稿用紙が目に入ったからだ。熱心になにかを綴っていて、たまに手を止めては考えこむ。また一気に走り書きする。それが沙倉さんだった。納得がいかない、というように髪を掻きむしり、不満げな顔が印象的だった。

  けれど、それよりも目がいったのが手だ。手に見入った。抜けるような白い肌に、わずかに浮き出た骨と、きれいに切り揃えられたピンクの爪。

  彼女が僕の視線に気づき、目が合う。はっとした。なんと言えばいいのか迷っていると、沙倉さんは原稿用紙の端をちぎってメモを見せた。

  ――よかったら読んでくれませんか?

 少し戸惑った。横に重ねられていた原稿用紙を幾つかくれた。あたたかく、それなりに重さがあった。

「いいんですか?」

 ええ、と沙倉さんは頷いた。

  一行目を読むと、自然に目が滑っていった。ほとんど吸い込まれるように、なにか魔法にかかったように。すぐに夢中になった。弟を病気で亡くす家族の話。姉の目線で書かれていて、この姉とはこれを書いた人だと直感した。つまり、沙倉さんだ、と。どうしてかは分からないけど、ふいに。なぜか真実のようなものに触れた気がした。

  途中まで読み終えると、沙倉さんは感想を聞くことはせず、

「ありがとう」

 と微笑んだ。

「よかったら、また読んでほしい」

 五時になり、館内アナウンスが流れる。閉館の時刻だ。

「いい?」

「ここじゃない場所でも、いいですか」

 耳が熱くなる。沙倉さんは一瞬驚いた顔をした。

「もちろん」

 一緒においしいものとか、食べながら。

 実際、沙倉さんの弟が亡くなっていると聞いたのは、僕が部屋に遊びに行くようになってすこし経った頃で、その頃にはもう、完全に彼女のことを好きになっていた。

「驚いたでしょ。柊くんと同じ年だったの」

 謝るように、沙倉さんはそう告げた。

「図書館で見かけたとき、心臓が止まるかと思った。だって、陸に雰囲気がそっくりだったから。もう少し近くで顔を見れたら、って隣に座ったんだけど、話しかけようとまでは思わなかったの。でも、あまりにも……」

 そこで沙倉さんの話は途切れた。

 沙倉さんは、死んだ弟と僕を重ねているのかもしれない。いや、重ねている。そのとき思った。

「大丈夫だよ」

  僕は強い声で言った。大丈夫だから。

「悲しいとか、淋しいのが好きなんだから、僕たち。大丈夫だよ」


 家に帰って、豆腐や魚の切り身、カップアイスを冷蔵庫にしまう。カーテンと窓を開けて、掃除機をかけた。雑巾もかけた(埃が目につくところだけ)。汗で服が濡れていたので、ついでに、と洗濯もしておく。

  誰かと一緒に暮らしたことがあるからだろうか。

  こうやって、一人で一人分の部屋を使うことを、とても淋しく感じる。洗濯も、掃除も、食べ物も。

  そうだ、先生に手紙を書こう。近況報告、だ。


  もうすぐ沙倉さんが帰ってきます。

  僕は毎日落ち着きがなく、子供みたいにはしゃいでいます。沙倉さんの読んでいた本を読み、聴いていた音楽を聴く。金魚にえさをやる。でも全然、退屈さが紛れることはなくて、本当に悲しい金魚になってしまった気がします。いつか、彼女が僕に言った言葉です。

  また今度、三人で食事でもしませんか? 

 先生といると心が安らぐ。二人目のお父さん、みたいで気軽に心を開けます。会いたいです。是非うちに遊びに来てください。


  真白い便箋に「柊つかさ」と名前を書いて、きれいに折りたたむ。それだけで幸福を感じることができる。

  僕たちの同棲のようなものに対して、不満を持つひとがほとんどだ。うちの親と、沙倉さんの友達と、雨宮。同棲していること知っているひとで、なおかつそれに賛成してくれているのは先生だけだった。

「僕はとても素晴らしいことだと思うよ」

 前に一度、三人で食事をしたことがある。

  どうしても柊くんに紹介したかったの、と沙倉さんが会わせてくれたのだ。春の日だった。日曜日の夜、駅の近くにある中華料理店で、約束の時間に行くとすでに先生は来ていて、挨拶をしようとしたとき、すっと手を差し出してきた。

「はじめまして」

 僕は緊張した。すごく穏やかな声だったから。

  ぐっと握手をする。かなり力が強くて、昔、教科書に出てきたルロイ修道士を思い出した。背が高く、肌が赤くて、まるで外人のようにも先生は見えた。

「私が通ってる大学の先生なの」

 沙倉さんはとてもうれしそうだった。よろしくお願いします、と言う。

「はい、よろしく」

「いろいろお世話になってる方だから、柊くんも頼りにしてほしいなって」

「きみのことは沙倉から聞いていたよ。今日は楽しみだ」

 料理が運ばれてきて、しばらくお互いの話で盛り上がった。どこで出会ったとか、喧嘩はするのかとか、飼うなら犬か猫か、とか(そのときは猫と答えた気がする、金魚がいるのに)。沙倉さんの大学の話も先生から聞かせてもらった。僕と沙倉さんは大学が違う。彼女はとても優秀で、感服する、らしい。

 先生は例えるなら、おおきな樹だ。理知的で、寛容で、本物の紳士だ。五十歳とは思えないほど見た目が若く、思考も柔軟だった。なにより、彼といると安心感がすっと体を包んでいくのが分かる。

「きみは沙倉のどこが好きなんだい?」

 その質問に、急には答えられなかった。全部、と言いたかったけど、この人はそれじゃ納得しないだろうと思った。

「小説を書いているときの、手です」

「なんだって? 素晴らしいじゃないか」

 先生は満足したように頷き、

「沙倉は?」

「小説を読んでるときの顔とか、ですかね」

 目を閉じて感動したように、素晴らしいじゃないか、と言った。彼の口癖だ。沙倉さんはおかしそうにクスクスと笑う。僕もつられて笑った。

「きみたちは姉弟だね」

  そうかもしれない、と三人で笑った。とてもいい夜だった。


  文庫本を読んでいると雨宮がやってきた。

「よお」

 玄関で、コンビニの袋をちらりと見せると――中身は缶ビールだ――、まるで自分のうちのように上がりこんできた。陽気で、底なしに傲慢なのが彼女の性格だ。いまは二人、彼氏がいるらしい。

「ちょうし、どう」

 リビングの金魚を見ながら雨宮は聞いた。

「変わらないよ」

 さきいかやチーズ、スーパーで買ったものを皿にのせて運ぶ。

「そっけないなー。今月なんでしょ、あの人が帰って来るのって」

 あの人、とは沙倉さんのことだ。雨宮は一度だけ挨拶をしたことがある。反応は芳しくなかった。

「そしたらもう、ここで映画観ることできなくなっちゃうよね」

「映画館に行けばいいよ。大したことじゃない」

 雨宮が苦笑する。髪が明るい。長い脚をテーブルの上で組んで、後ろのソファにもたれかかっていた。あつい、と言って彼女が服をぱたぱたと扇ぐたび、香水の匂いがする。

 僕と雨宮は高校生のとき付き合っていたことがある。沙倉さんと会う前の話だ。共通の友達――タカオ、という不良――がいて、週末になると三人で街に出て夜まで遊んでいた。警察に補導されたこともある。あの頃は興奮した。内気な僕を変えさせてくれた、二人とも僕の大親友だ。

「お前ら、相性いいよな」

 タカオがいつか言っていた。

「磁石みてえ」

 もう誰もいなくなった教室で。警備員が見回りをしたあとの、夜の学校。

「それ、おもしろいねー」

「だろ? 俺さ、お前ら見てたまに思うときあんの。趣味とか価値観とか、全然合わねーからぴったりなんだなって。あ、べったりか」

「なんだよ。それ」

 なんだよ。月光が当たったタカオの横顔を見ながら、僕は動揺した。まったく見当違いなことを、だってタカオは言っているから。そういうものじゃない気がしてしまった。結びつく、ということに怖気づく。自分のことをつまらないと自覚していたから。

「依存かな」

 雨宮が嬉しそうに言った。僕はまた不安になる。

  二人とも見えないものを信じすぎていた。気が強い雨宮と、冷淡な僕がほんとうに釣り合えるなんて、どこか恐怖に感じた。感じていて、それを信じてみたいと思った。帰り道、自転車の後ろに乗せた雨宮の体温が生々しくて、このまま大人になると考えた途端、泣きそうになった。相性。ほんとうの相性をまだ知らなかった僕は、ただただ心細かった。

  それから実際に泣いたのは、雨宮と別れるときだった。あれはひどかった(罵り、言い争い、二人ともぼろぼろの状態で)。いま、こうやってうまくやれているのはタカオのおかげだ。

「さっきの話、嘘でしょう?」

 雨宮が言った。部屋は暗くしてあり、映画の予告編がすでにはじまっている。

「なにが?」

「つかさは、あの人が帰ってきたらもう私とは遊ばないよ。知ってる」

「どうしてそんなこと言うんだよ」

 いつもと様子が違う。妙な沈黙ができる。

「つかさはさ、鬼だよ」

  わざと明るく雨宮は言った。

「埋められないことで確かめてるんだよ。私なんかじゃ全然足りないものを、こうやって会うことで実感してる」

 夏なのに、足の指先がひんやりとしている。ほんとうに、どうしてそんなこと言うんだよ。

「なんかあったの? 雨宮とは、喧嘩するのイヤなんだ。落ち着いてよ」

 缶ビールから水滴がぼたぼたと垂れている。テレビの音も映像も、まるで遠く感じる。いま、こうして過ごしている時間が無意味だなんて思いたくない。それは、そう思った時点でそうだし、嫌なことのほうが誰だって肯定しやすい。

「なんてね」

 すっ、と音がクリアになる。

「え?」

「私だって、つかさと会うことで確かめてる。あのさ、実はタカオと付き合うことになったんだ」

 けらけらと、雨宮は嘘みたいに笑った。

「なんか、ごめん」

「謝らないでよ。私はタカオのほうが好きなんだから」

 そっか、と頷く。

「よかったんじゃない」

「うん」

 そこから二人は何もしゃべらなかった。

 あの頃、痛いほど分かっていた雨宮の気持ちが、いまはその十分の一も読み取れない。沙倉さんと出会ってしまったからだろうか。

 ――磁石みてえ。

 だとしたら、好きという気持ちはいつだって二極化する。僕が雨宮以外を好きになれば、仕方のないことが、ひとつ増える。

  沙倉さんといると、かわいそうになる自分がいる。彼女にとって、いつもベストな状態で接していたいと思う。性格に似合わず、僕はひどく饒舌になってしまう。彼女の反応はいつも新鮮だ。いつも新鮮、とは一緒にいて感じれることじゃない。飽き、や、慣れはどうしても生まれてしまうのだから。

「じゃあ、帰るね」

 一本目が終わった。いつもならあと三本は観る。

「雨宮」

「つかさには付き合ってられないよ。次は、二人で来るから」

 雨宮が玄関に向かう。

「本当はつかさのこと待ってたんだけどね、一年間。タカオのほうが決着つけるの早かったみたい」

 振り返ってそっと笑った。やっぱり、感情は読み取れない。

「ありがとね」

  まるで別れるみたいだと思った。まるで、恋人みたいな。

  雨宮は部屋を出て行った。香水の匂いがほのかに部屋に残っている。

 おめでとうと言えなかった。

 青い金魚鉢の、名前のない二匹の金魚を見つめながら、自然とため息が出る。どうして僕は謝ったのだろう。なにもできなかったからだろうか。

  こんな気持ちになるときがある。沙倉さんが執筆しているときだ。

  小説を書くときの沙倉さんはひどく機嫌が悪い。目つきが悪くなるし、金魚に餌をやることも忘れる。口をきくのも憚られる。僕が先に寝ることが多くなって、深夜、ベッドにこっそりと沙倉さんは入ってくる。背中で分かるのだ。

「こんな私いやでしょう?」

 ある日、とうとう耐え切れなくなったのか沙倉さんは聞いた。いつものようにベッドに入ってきて、独り言のように。午前三時だった。

 沙倉さんの書く話がおもしろいのか、僕には分からない。彼女の物語はいつも影が差している。文章が冷たい。主人公は、みんな、悲しい金魚だ。沙倉さんも悲しい金魚だ。鏡を見ているんじゃないかと疑う。

「焦らなくていいよ、慎重にいこう」

「ダメよ。それじゃ忘れることに追いつかない」

「そんな」

 追いつけるわけがない、と言おうとして、でも結局言えなかった。言ってしまえば、なにかを壊すような気がして。

「僕にできることがあったら、いつでも言ってね」

「柊くんはやさしいね」

「うん」

 やさしい、という言葉を使われたのが悔しかった。

 沙倉さんは忘却をなにより恐れる。だから、アメリカに旅立つと言ったとき、それはひとつの挑戦だと思った。この部屋と、僕を置き去る勇気。たぶん、お互いが離れるということは二人にとって試練だった。

「もっとこっちにきて」

 沙倉さんは不安になると、よく僕を触った。服の上から、僕の好きな、その手で。触る、だけで落ち着くらしい。骨格をたしかめるように、とくに骨が浮き出ている部分――頬、手、背骨、肩甲骨、腰のあたり――を丹念に撫でた。

「体のバランスがいいのね」

 沙倉さんの手はひんやりとしている。それに相反するように僕の体は熱くなって、その温度差にさえ、僕は悲しくなれた。


 目をさますと、午後八時をすぎていた。いつのまにか眠ってしまったらしい。リビングはひっそりと暗く、窓の向こうに小さく夜の灯りが見える。また夢をみていた気がする。沙倉さんのことを思い出すだけで一日が終わる。僕の一日は、沙倉さんで説明できる。

 突然、おおきな音がして窓が光った。――花火だ。

 花火。僕はばかみたいに気が立ってしまって、ベランダに裸足で出た。

 あの火花!

 最高だ。光が、火が、一気に弾け飛んで、そしてちゃんと散っていく。迫力そのものが鼓膜をふるわせる。小さいとき、病室から眺める花火は幻想的だった。高校に入って、雨宮とタカオと河原に見に行った花火は、もっと幻想的だった。沙倉さんとはまだ見たことが無い。

「もっと近くで見たい! 真下に行くことってできないの」

 僕がじれったく言うと、タカオは肩を叩いてげらげら笑っていた。雨宮も「冗談でしょう?」とからかってきた。

「線香花火ならできるけどな」

 勿論、それも魅力的だ。昔、危ないから、と親からそんな遊びはさせてもらえなかった。皆でコンビニのライターと花火を買う。タカオが火をつける役に回り、僕は火が噴き出す瞬間を見届ける。

  すごかった。あんなに近くに花火を近くに感じたことはなかった。火薬の匂いが堪らず、火花が闇を走るように輝く様を、一生忘れないと思った。

「ありがとう」

 僕は二人の親友に心から感謝した。

 タカオが気恥ずかしそうに、ガキかよ、と馬鹿にしてきても構わなかった。

 携帯が鳴る。机の上だ。

「柊くんかい?」

 この声、僕はまた感激する。まるで今日はひとりじゃないみたいだ。

「どうしたんですか、先生」

「沙倉が帰国したようだよ」

 背中で花火の音がする。開花の気配がひっきりなしに僕を痺れさせる。夜が強く脈打っているのが、見なくても想像できる。

「ほんとうですか?」

「勿論。実はさっきまでうちにいたんだ。元気そうだったよ。予定より帰国が早まったらしくてね、きみを驚かせたかったらしい。もうきみの、いや、二人の家に向かっていることだろう」

 どこまでも穏やかだ。電話口に先生が微笑んでいるのが分かる。

「さあ、思いきり抱きしめてあげなさい」

 心臓が高鳴った。

「はい」

 電話を切ると、夜の景色がさきほどとは違って見えた。光っている。ここに立っていることが、その事実が、僕を歓喜で満たしていく。

  そうだ、やっと一年経ったのだ。一年間、僕は待つことで気持ちを確かめてきたのだ。ずっと。孤独にならないと僕は――おそらく、沙倉さんも――人を好きになれないんだ。悲しいとか、淋しいのが、なによりも好きだから。

  花火と似ている。この音も、光も、思い出も、絶対に忘れることが無いのは、ちゃんと一年経つからなんだ。そう思う。人は誰だって焦がれながら夏と、それから花火を待っている。愚直に信じることを疑わない。単純な話だ。

「ただいま」

 玄関で聞き覚えのある声がした。それは、懐かしくて、いつも僕の身近にあった声だった。きっと悲しい金魚でいる限り、この声から遠ざかることはないだろう。


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