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atsuki-F?L?

 月が近い。月光が夜の住宅街を薄く覆っている。街灯が少ないせいで、いつもは所々に闇をつくる街路も、今晩は仄かに明るい。

 日本家屋が建ち並ぶ街を、璃緒は慣れた様子で歩いていた。懐かしい木造の香りが漂ってくるようだ。閑静な住宅街は夜ともなれば人も少なく、耳をくすぐるのは家々から漏れる談笑や、夏の虫の鳴き声だけだ。ここは璃緒の故郷だった。

 久しぶりに訪れたこの街を、璃緒はたった一人で歩いた。彼女が向かっているのは、街の一角にある家屋だ。そこに、古くからの友人がいる。一族の大半が黒軍に所属し、本人も学生兵として奇襲を担う男だ。女系一家に生まれたせいか女のように育ったが、心根が優しく面倒見も良いため、彼を慕う後輩も多い。

 璃緒はその家の前まで来ると、一つ息を吐いてから呼び鈴を鳴らした。軽快で陽気な調子のメロディが流れ、引き戸の向こうから慌ただしく人の駆ける音がする。璃緒は小さく笑いをこぼした。


「はーい、どちらさま?」


 戸の向こうからかかる声は、友人の姉だろう。


「お久しぶりです。璃緒です」


 名乗ると、勢いよく引き戸が開いた。やはりそこにいたのは、一番上の姉だった。彼女は、満面の笑みで璃緒を迎え入れた。


「久しぶりね、璃緒ちゃん。また、しばらく見ない間に綺麗になって!」

「ありがとうございます」

「やっぱり瑶二と別れて正解だったわねぇ。ある程度、いろんな男を経験しといた方が育つのよ、女ってのは」


 身も蓋もない物言いだった。しかし、それが璃緒の気持ちを楽にする。本来ならば、神経を研ぎ澄ませなければならない場所だ。ここは故郷であると同時に、璃緒が裏切ったかつての同胞たち、つまり現在の敵の領地でもある。それでもこうして訪れるのは、ほかならぬ、この男女島家の友人、篤輝に会うためだった。


「さ、上がってちょうだい。篤輝なら庭にいると思うわ。後でお茶持ってくから、先に行ってて」

「お手伝いします」

「やぁだ、何言ってるのよ! 璃緒ちゃんはお客様なんだから。手伝いなんて、させらんないわよ」

「いえ、連絡してあったとはいえ、こんな夜分遅くに訪ねてしまって申し訳ないですし」

「いいのよ、そんなこと気にしなくて。夜にしか、来られないんでしょう?」


 キッチンに立ち、湯を沸かす準備をしながら、彼女は言った。

 璃緒は単に全国を旅しているということになっているはずだった。黒軍を離れ、赤軍に所属したことを知る者は少ない。男女島家でそのこと知っている者も、篤輝だけのはずだ。しかし、璃緒が黒軍を出て、もう二年になる。詳細を知らずとも、だいたいの事情は察しているのだろう。気づいているような言動を取られる度に、肝が冷える思いだった。そうなのだ。この緊張感もまた、この家の独特な雰囲気なのだ。この家の女たちは強い。篤輝の母も、姉たちも、皆黒軍で奇襲部隊に所属する軍人だった。しかし、彼女たちが璃緒を問い質すようなことはなかった。だからまたこうして、璃緒はこの家を訪ねられる。


「それに、お土産持ってきたんです。お茶と一緒に準備しますから、やらせてください」

「あら、悪いわね、いつも。ありがとう。お願いするわ」


 これがいつもの遣り取りだった。もはや定番となりつつある。

 長女の用意した茶と持参した土産の茶菓子を盆に載せ、璃緒は裏庭に面する縁側に向かった。

 障子は開け放たれていた。盆を床に置き、裏庭に目をやる。その景色は一枚の絵のようだった。璃緒は静かに、それを眺めた。

 いつ来ても美しく整えられた庭に咲き誇る花々を、夏の満月が妖しく照らす。その中心に、彼はいた。波打つ豊かな金糸が月光に輝いている。虫の音が響く中、黙って花を愛でる後ろ姿は、以前より凛々しい。

 ただ、いつまでもそうしているわけには、いかなかった。グラスに淹れた茶の中で、氷が溶けて涼しげな音を立てたのだ。温くなってしまう前にと、璃緒はようやく篤輝に声をかけることにした。


「あつ姉」


 璃緒が静かに言うと、篤輝は肩を大きく揺らして驚きの声を上げた。突然で余裕がないはずだが、彼らしい品のある叫び声だった。


「璃緒、アンタいつからそこに!」

「ついさっきよ」

「全然気付かなかったわ……! アンタ、気配消して近寄るの、おやめなさい?」


 振り返った篤輝は、足音荒く縁側に戻ってきて、璃緒を叱りつけた。目尻に涙が浮かんでいる。


「ごめんなさい。つい、癖で」

「まったくもう、嫌な癖ね。はぁ、驚いたら喉渇いちゃったわ。それ、ちょうだいな」


 溜息を吐きながら、篤輝は璃緒の隣りに腰を下ろした。


「どうぞ」

「ありがとう。今日は泊まっていくんでしょう?」

「いいの?」


 璃緒が聞くと、篤輝は呆れたという表情をし、肩を竦めてみせた。


「いいに決まってるわよ。ちょうど姉さんの部屋が一つ空いてるはずだわ。遠征に行ってるらしくて。アンタがいれば母さんたちも喜ぶわ。もちろん、アタシも嬉しいわよ?」


 ありがたいと、璃緒は思う。どんな男の褒め言葉も、睦言も、全て虚言ではないかと疑心暗鬼になる自分が、この友人の言葉には素直に喜びを覚えるのだ。

 二人は茶を飲みながら、しばらくの間、他愛のない会話をした。共通の知人のこと、花のこと、菓子のこと。様々な話題の後、ふと思い出して、璃緒は言った。


「そういえば、あれだわ……」

「なぁに? どうかしたの?」

「久しぶりね、あつ姉」


 あまりにも遅い再会の挨拶に、篤輝は思わず噴き出した。口に含んでいた茶はなんとか飲み込んだものの、代わりに盛大に噎せてしまう。


「大丈夫?」

「だ、大丈夫よ」

「私、何かおかしなこと言ったかしら?」

「何かって……アンタ、本当に変わらないわねぇ、璃緒」

「それって、貶してるの?」

「やあね、褒めてるのよ」


 全くもって納得いかない。目で物を言うように篤輝を見るも、伝わっていないのか、はたまた知らぬふりをされているのか、彼は視線に反応せず、思い出したように言った。


「そういえば、最近どうなの? まだあちこちに男作ってるんじゃないでしょうね?」

「うん、そうよ」


 特に隠すつもりもなかった。どういう反応が返ってくるかも、分かっている。

 璃緒の思った通り、篤輝は渋い顔をして、こちらを見た。咎めるようなその視線にも、随分慣れた。


「不満なのね」

「当たり前でしょう? もっと自分の身体を大事になさいよ!」


 篤輝は姉たちのように、璃緒の状態を軽く見てはいなかった。篤輝の心配も、最もだった。

 璃緒はまるで己の状態を気にしないのだ。どうでもいいと言わんばかりに、常に奔放に振舞う。彼女にそのつもりがなくとも、騙されたと反感を持つ男もいるだろう。報復があっても、おかしくはない。それすらも、璃緒にとっては些細なことだった。それで死んでしまったら、それはそれで仕方のないことだと。

 篤輝はそれを心配していた。璃緒の身に何かあっても、彼女は彼女自身を守りはしない。彼女を守る誰かも、今はいないし、作る気すらないようだった。何かあってからでは遅い。考えるだけでも嫌だと、篤輝は激しく首を振った。


「ごめんなさい、あつ姉。心配させるつもりはないんだけれど」


 璃緒は謝り、苦笑する。その表情には諦めのようなものが混じっていた。

 彼女にとって、男は麻薬のようなものだった。砂漠を進む旅人のように、璃緒はいつも渇いていた。抱かれれば、その渇きは治まった。潤い、充実した。それもしばらくすると、またすぐに渇き始める。

 昔からそうだったわけではない。篤輝も、瑶二でさえも気づかぬうちに、璃緒の身体は渇き始め、いつしかそれが常となった。それに比例するように、彼との関係も崩れていったのだ。


「ねぇ、璃緒?」


 篤輝の呼びかける声色は、ひどく優しい。璃緒がそちらに顔を向けると、温かくこちらを見つめる瞳がある。篤輝の優しさを、全て乗せたような視線だった。


「なに、あつ姉?」


 応えると、篤輝は大きな、けれども繊細な手で、璃緒の頭をそっと撫でた。


「アンタを幸せにしてくれる人が、いつかきっと現れるわ。それまで、アタシはずっとアンタを見守ってる」

「……あつ姉?」

「いつでも帰ってらっしゃいね? アンタが本当に安心できる大事な場所が見つかるまで、ここがアンタの帰る場所よ」


 篤輝の言葉は、まるで子を包み込む母の手のように、優しく、温かく、柔らかく、璃緒の心を包み込む。堪えきれずに頬へと溢れ始めた雫を、篤輝の指が拭うほど、それは止めどなく流れ落ちた。




 あぁ、こんな男を好きになれたなら。




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