zera-E
瑶二は覚束無い足取りで、救護室を目指していた。今朝から、とにかく眠たかった。授業の内容など、入ってくるはずもない。あまりに上の空なので、午後の授業はふけることにしたのだ。
やっとの思いでたどり着いた救護室の扉が、今の瑶二には眩しいほどに輝いて見える。中で待ち構えているはずの清潔なベッドに心を躍らせ、瑶二はその白い扉を開いた。
「ちーっす」
「ちーっすじゃない。今、授業中だろ」
学ランの上に白衣をまとって出迎えたのは、ゼラだった。瑶二とは気のおけない友人だ。
救護室は授業中であれば救護担当の教官や軍医が詰めているはずだが、会議や任務でどちらも不在の場合は、救護班の学生が代わることになっていた。瑶二は今日、ゼラが救護室に詰めていることを知っていた。だから、来たのだ。
「俺のこの状態で、授業なんかまともに受けられるわけがねぇだろ」
「そりゃ、ごもっともだけどね。そういつもいつもベッドを占領されると、本当に必要な人が使えないだろ」
「いつも来てるわけじゃねぇよ。使わせてくれそうなやつが詰めてるときだけ……。本当に必要なやつが来るまで……」
歩きながら器用に船を漕ぎ、瑶二はなんとかベッドまで行き着くと、そのままそこへ倒れた。
「あー、もう、上履き履いたまま寝るなって」
後を追ってきたゼラが、甲斐甲斐しく上履きを脱がした。それはきちんと揃えられ、ベッドの脇に置かれる。
足元の窮屈さが取れて、瑶二は改めて布団に潜り込んだ。
「悪ぃな。おやすみ」
「ベッド足りなくなったら起こすからな?」
念を押すゼラに生返事をして、瑶二は目を閉じた。
ベッド周りのカーテンを閉められる。しばらくは、静かに眠りたかった。ここ数日は、忙しかった。家を留守にして、帰ってもほとんどは疲れ果てて眠っていた。
「あれは、相当疲れてるね」
カーテン越しに、苦笑するゼラの声が聞こえる。独り言ではない。誰かに語りかけているのだろう。その相手がいることに全く気がつかなかった。それだけ疲れているということなのだが、瑶二はそれに少しだけ落胆する。
「なんだ、あれ……」
応えたのは、Ymだった。ゼラの最愛の弟だ。瑶二も彼を気に入っている。からかい甲斐があって、愛らしい。いちいち反応が初心なのだ。嫌がりはするものの、自分にもそれなりに懐いてくれている。そう感じていた。
だというのに、無視するような形になってしまった。唖然とした表情が思い浮かぶほどの声音に、少しだけ申し訳なく思う。
ゼラの失笑が聞こえた。
「気づいてもらえなくて、残念だったな」
「ばっ、っんなんじゃねぇよ! あんな瑶二、初めて見たからびっくりしただけだ!」
「そう? ここではわりとお馴染みなんだけど。ね、広瀬さん?」
どうやらもう一人いたらしい。ゼラが声をかけたのは、同学年の救護員の一人だ。救護室にいるときは無口な彼女は、諜報員でもある。暗部の瑶二とも、それなりに親交があった。
彼女がいたことにも、気付かなかった。こうして目を瞑っていると、金属の触れ合う音が微かに聞こえてくる。医療器具の整理でもしているのだろう。
「えぇ、でも、ゼラくんがいるときだけよ。千賀くんが来るのって」
「そうなの? 知らなかったよ」
「信頼されているのね」
「なんだかんだ、昔から仲いいよな、兄貴たち」
「なんか、そういう言い方されると、ちょっと気持ち悪いんだけど」
これには同意だった。Ymや美鈴に悪気が無いことを分かっていながらも、瑶二は思わず顔をしかめてしまう。そういう言われ方をされると、いやにこそばゆいのだ。
「男の子って、そういうのを妙に嫌がるわよね」
普段は多くを語らない美鈴に笑われるのは、妙な心地がした。
「でもさ、ほんといつの間にか一緒にいるようになってたよな? なんで?」
「んー、なんでだろう? なんとなく?」
「えー? んなわけあるかよ!」
Ymは椅子に座りながら、地団駄でも踏んでいるのだろう。想像するとひどく微笑ましいが、今は古い丸椅子の軋む音すら睡眠妨害だ。このまま会話を聞いていては、眠れもしない。
「こらこら。瑶二が起きちゃうでしょ」
ゼラが笑いながら叱る声がする。ここは一つ脅してやろうと、瑶二は気怠げに体を起こした。
カーテンを少しだけ開いて、瑶二は今にも閉じそうな目だけを覗かせる。Ymの姿を捉えると、わざといやらしい笑みを作った。捕捉対象の体が、怯えるように小さく揺れるのが、またおかしい。
「かーわーいーこーちゃーん。うるさくするなら、無理矢理にでも添い寝してもらうぜ?」
虚ろな目のまま笑う顔は、いつにも増して凶悪だ。
「いや、お前ら、いつ仲良くなったのかなって、思い出せなくて……。あ、えーっと、そんな眼で俺を見るな、キモい!」
Ymが全身を震わせるのを横目で見て、ゼラが大きな溜息を吐いた。
「瑶二、いいからもう寝ろ。Ymを怖がらせるな」
「ちっ、抱き枕できると思ったのによ」
瑶二は大人しくカーテンの内側へと戻った。もともと長居するつもりはなかった。それほど疲れているのだ。
「Ymも、救護室内ではもう少し静かに、ね?」
「わ、分かった」
布団に潜り込みながら、カーテン越しに伝わるYmの落ち込んだ様子に笑う。瑶二は今度こそ、眠りの中に穏やかに堕ちていった。
瑶二の実家には柿の木がある。塀の手前に立ち、そこから腕を伸ばすように、隣にある璃緒の家へと枝を広げている。幼い瑶二は、その柿の木に登るのが得意だった。
そして瑶二は今まさに、その柿の木に登っていた。
「おい、瑶二、何してんだ、んなとこで」
下から声がして、瑶二はそちらを見下ろした。
「お、ろか! ひさしぶりだな。いまからあきおと、こうえんいくんだ。おまえもいくか?」
そこにいたのは、父の友人、六佳だった。呆れ顔で見上げる彼は、面倒見がよく瑶二や璃緒に構ってくれる。瑶二はこの呆れ顔が好きだった。
「行かねぇよ」
「なーんだ、つまんねぇの」
「詰まってたまるか」
六佳のため息と同時に、遠くから甲高い音が聞こえ、瑶二は盛大に顔をしかめた。母が瑶二の不在に気づいたのだ。
「芙乃さん呼んでんじゃねぇか」
「しらねぇ! なんかてきとーに、いいわけしといてくれよ。じゃ、いってきまーす」
「あ、おい、こら!」
瑶二は木から飛び降りた。塀の向こうから、六佳の呼ぶ声がする。それに構うことなく、五六家の母屋へと向かった。
瑶二が降り立ったのは、五六家の庭だった。庭といっても、ただ物を置いておくだけの場所だ。一般的な家庭にある庭の広さで、少なくとも塀から見える位置に母屋がある。千賀家の手入れされた広い庭も嫌いではないが、瑶二はこの生活感のある五六家の庭も好きだった。
璃緒の部屋は庭に面している。瑶二はいつもそこから、璃緒を遊びに誘っていた。今日も瑶二が訪れるのを待っているかのように、障子は大きく開け放たれている。
瑶二は縁側に手をついて、障子の向こう側にいるであろう璃緒に呼びかけた。
「あーきーおー! こうえん、いこうぜー!」
呼びかけに答えて、滑らかに障子が開いた。普段とは違う穏やかな開き方に、瑶二は首を傾げた。いつもならば瑶二の呼びかけに対して、食い気味に障子が勢いよく開き、そこから璃緒が飛び出して、やはり勢いよく瑶二に突進してくるのだ。
今日はその様子がない。代わりに顔を出したのは、璃緒の母だった。
「ごめんなさいね、瑶二くん。璃緒ってば、風邪引いちゃって」
「えー、マジかよ! かぜかぁ……。しょうがねぇなぁ。わかった。おじゃましましたー」
「風邪が治ったら、また誘ってやってちょうだいね」
「はーい!」
風邪ではどうしようもない。無理に連れて行くわけにもいかないだろう。
瑶二は仕方なく一人で、公園に向かった。
公園にはすでに何人か子供がいた。近所の見知った子供たちだ。そのうちの一人が瑶二に気づいた。駆け寄ってきた少女は、璃緒と同い年だったはずだ。少女が駆け出したのに気づいて、その取り巻きも駆け寄ってくる。周囲を見回し、璃緒がいないことにも気づいたようだ。
「ようじくん! アキオちゃんは?」
「アキオはかぜだ。だから、きょーは、おれだけできた!」
「そーなの? じゃあ、あたしたちとあそぼー!」
集まってきた少女たちが、瑶二の腕を掴んで連れて行こうとする先には、女児用の玩具が散乱している。ご丁寧に地べたにビニールシートが敷かれ占拠された公園の一角は、ままごとのセッティングがされていた。
瑶二は引っ張られるのをなんとか耐えた。
「おれは、ままごとなんてぬりぃあそびしねぇよ」
「えー、なんで? アキオちゃんとはあそぶのに、あたしたちとは、あそんでくれないなんて、ふこーへーよ!」
「アキオとも、ままごとなんかしてねぇよ!」
瑶二は少女たちの腕を振り払った。相手が泣きそうな顔をしていることも、璃緒を持ち出されたことも、瑶二にはひどく不快だった。
少女たちをそのままに、瑶二は木々を伝って公園の反対側まで走った。あれ以上、あの場で彼女たちの話を聞いてなどいられなかった。ともに遊ぶことなど、できるはずもない。苛立ちを抑えるように、木の枝に寝転がって葉の間から漏れる陽光に目を閉じた。
葉が風に揺れ、擦れ合う音が耳に心地よい。しばらくそれに耳を傾け、落ち着いてきた頃に、別の音が混じった。公園の芝生を踏みしめる誰かの足音だ。
足音は瑶二の腰掛ける木の下で止まった。
「ねぇ、きみ」
下から声をかけられて、瑶二は目を開けた。今日はどうにも、下から声をかけられる。普段なら見つからないのだが、調子が悪いようだ。
見下ろす先にいたのは、美しい顔立ちの少年だった。細く柔らかそうな波打つ髪が、下手をすれば少女と間違われそうな柔和な面を縁っている。
瑶二は彼を知っていた。この公園で遊ぶ子供たちの中で、自分と璃緒以外にも周囲から浮いたペアがいる。彼はその片割れだった。いつも弟と共に、小さくまとまって遊んでいるのを、何度か見ていた。しかし、今日はその弟の姿がない。
「なんだよ?」
「そんなところでねてると、かぜひくよー?」
少年は小首を傾げて、瑶二を見上げた。
春が近づき、暖かな日差しはあるものの、確かにまだ風は冷たさを残している。現に、璃緒も風邪をひいてしまっていた。
瑶二は大人しく彼の忠告を受け入れて、その身を起こした。瑶二が素直に、他人の注意を受け入れるのは珍しい。自分でも、何故彼の言うことを聞く気になったのかは分からない。
「きみのかのじょ、かぜひいちゃったんでしょ? おれのおとうともなんだー」
少年は拗ねたような、仕方がないと諦めるような表情で肩を落とす。
「じゃあ、きょーはおれもおまえも、ひとりか」
「そうだね」
「よし、それならひとりみどーし、きょーはおれとあそぼーぜ!」
瑶二は腰に手を当ててふんぞり返る。名案だと思った。璃緒はいないし、今日は六佳もついてこなかった。遊ぶにも、一人では退屈だと思っていたところだった。かと言って、入口で誘ってきた少女たちの相手をする気など、さらさらない。
ところが返事のないことに気づいて少年を見ると、瞠目して瑶二を見上げたままだった。うんともすんとも言わない。
痺れを切らした瑶二は、猫のように木から飛び降りた。目の前に軽い音を立てて降り立つと、少年は漸く口を開いた。
「ひとりみって、なんかちがうとおもう……」
少年は困ったように笑う。口に手を添えて笑う様は、どこか大人びていた。
「んなこたぁ、どうだっていいんだよ! あそぶのか、あそばねぇのか、どーすんだ?」
瑶二の問い掛けに、少年は考える素振りを見せた。散策路を挟んで反対側の茂みが気になるようだ。
そこに少女たちが隠れて、こちらの様子を伺っていることは、瑶二も気づいていた。魂胆が見える彼女たちの行動に、瑶二は不快感を隠すこともなく、茂みを睨む。茂みは小さく揺れ、やがて気配はなくなった。
「そんなこわいかお、やめなよ。みんな、きみとあそびたいだけだよ」
「あと、おまえな」
瑶二は間髪入れずに、そう返す。この容姿だ。彼女たちがこの少年を放っておくわけがない。
「なんだ、きがついてたの?」
「なめてんのか、てめぇ」
「ううん、ちょっと、ぼくにまでそんなかお、やめてよ」
睨む瑶二に、慌てた様子で彼は手を振る。
「ぼくも、ちょっとこまってたの。だから……そうだね。うん、きみとあそぶことにする」
少し遅い返事をして、彼は微笑んだ。
毒気を抜かれた瑶二は、大きく肩を落として溜息を吐いた。
「まぁ、いいや。おれ、よーじ! おまえは?」
「ゼラだ。よろしく、よーじ」
「瑶二、そろそろ起きなよ」
身体を揺さぶられて、瑶二の意識は緩やかに浮上した。上体を起こして、少しの間宙を見上げる。目の前で骨ばった掌が振られた。
「起きてるか、瑶二? もう午後の授業終わるんだけど?」
先程まで目の前にいた幼い姿ではない。そうだ、あれは昔の夢だ。未だ判然としない意識が、徐々に戻ってくるのを感じる。瑶二は軽く頭を振って、ゼラを見上げた。
あぁ、まさかあの柔和な雰囲気の少年が、あんな反抗期を迎えて、こんなところにいるとは、当時の自分には想像もつかなかっただろう。思えば長い付き合いだ。この男の波瀾万丈な人生には、それなりに驚かされる。自分も変わった出自ではあるが、彼ほど壮絶な過去はない、と思う。今はどうやら幸せを満喫しているようだが、今は戦時中なのだ。この先、何が起こるか分からない。まして、ゼラの恋人は敵軍の学生なのだ。
「何、見てんの……」
ゼラを見つめて考え事をしていたらしい。訝しげに見返してくる顔がおかしくて、瑶二はいつもの笑い方で応じた。
「お前とセックスする夢見た」
「笑えない冗談やめろ、マジで」
「だよな。俺も言ってみて、寒気がした」
今はこうして冗談を言い合うことができれば、それでいいとも思う。逐一なんでも報告するような仲ではないが、お互い他に代わりのいない友だという認識はある。良い報せも悪い報せも、自然と耳に入るだろう。この友人が自分を必要とした時に、そこにいられればよいのだ。
瑶二はベッドから降り、大きく伸びをした。清潔なシーツは心地よく、疲れも随分取れた気がする。
「さてと、あー、まだ寝たりねぇな。木の上で寝るかー」
そう呟く瑶二に、ゼラが小首を傾げて笑った。
「そんなところで寝てると、風邪引くよ?」
あぁ、願わくば、この唯一無二の友人に、幸多からんことを。