ichi-E
闇は深い。木々の隙間から覗く夜空では、月が朧に霞んでいる。その仄かな月明かりに照らされて、小さな花々が風に踊る。
瑶二はそんな森の中を音もなく走った。花の清らかな香りが、彼の鼻腔をくすぐる。肺の中を浄化されるようで心地がいい。
あと五分も走れば学舎が見えるという地点で、瑶二はゆっくりと速度を落とす。徐々に視界が開け、自然の小さな広場が現れた。そこへ踏み入る彼を迎えるのは、闇夜に美しく咲き誇る桜の大樹だ。
瑶二は撫でるようにその幹に触れ、肺いっぱいに空気を吸い込む。全身に清廉な自然の気を行き渡らせ、夜桜と朧月を見上げる。任務後の高揚した気持ちが、静かに落ち着いていくのを感じた。
今年度初の任務は円滑に進んだ。諜報部隊の手引きで忍び込んだ瑶二の手によって、標的はあっさりと事切れ、後始末はなんの障害もなく終えた。瑶二がいたことも、標的がいたことも、その場で何があったのかも、痕跡は全て消した。朝になれば、標的は行方不明者として、敵軍のリストに名前が挙がるだろう。あとは学舎で報告を終え、自宅で深い眠りに落ちるだけだ。
瑶二はひと仕事終え、清々しい気分で桜を見上げた。薄桃色の花弁が、夜空を背景に白く美しく輝いている。今年も立派に咲いた。
任務上、瑶二は日によって帰路を変える。いくつかの経路を予め用意し、これをランダムな順で使用する。尾行による個人の特定を避けるためだ。
しかし、瑶二はこの桜を見つけて以来、春になるとこの広場を経由して学舎へ帰っている。特別な何かがあるわけではない。殺人後の悍しい高揚感を抑えるために立ち寄る、それだけだった。
瑶二は一息つくと、見上げていた顔を戻し、半歩左に身体をずらした。直後、瑶二のいた場所を何かが通り抜け、桜の根元に落ちる。訓練用のペイント弾だった。夜戦用の蛍光塗料が不自然に光り、趣を壊す。そして、それを追うように今度は悔しげな声が瑶二の背に投げられた。
「えー! 避けられた! こっち見てなかったのに」
瑶二が顔だけで振り返った先には、地団駄を踏む少女がいた。悔しさを全身で表現する彼女は、バズーカ砲を肩に担いでいる。ペイント弾を発射したのは、それなのだろう。どうりで、着弾後の塗料の広がり方が派手なわけだと、瑶二は冷や汗をかいた。実弾でないにしろ、直撃すればそれなりの痛みがあったに違いない。
「それ、どう考えても人に向けて使うもんじゃねぇだろ……」
「大丈夫だって。火薬の量減らしてるし、実践じゃ一発でいっぱい吹っ飛ばせるから楽しいんだ!」
少女は胸を張って笑った。セーラー服から一瞬だけ覗いた腹筋は見事に割れている。それなりに訓練してきたのだろう。
「お前、こんなとこで何してんの? 訓練中だよ? 勝負だよ? ぼーっとしてると負けちゃうよー?」
彼女は楽しそうに小首を傾げた。桜とは異なる主張の強いピンク色のヘルメットが揺れる。その下で、溢れんばかりの好奇心を宿した瞳が、爛々と輝く。
瑶二は彼女を知っていた。情報収集部隊のデータベースで見かけたのだ。今年の一年生の中でも屈指の肉体派。頭脳面は問題あり。そんな彼女の無邪気さに、思わず笑みが零れた。
「俺は訓練中じゃねぇよ、周防いち」
「え、そうなの? ていうか、なんでわたしの名前知ってんのー?」
「さてなぁ、なんでだろうなぁ。なんでだと思うよ?」
「え、えっと……、エスパー?」
「んなわけねぇだろ」
本気で悩むいちを横目に、瑶二は桜から離れて学舎の方へ歩いた。
「え、ちょっと待って、どこ行くのさ!」
「どこって、帰るんだが」
「いやいや、まだ話の途中じゃん! なんでわたしの名前知ってるのさ! ていうか、お前誰だ!」
「誰でもいいだろ、別に。あ、そうだ。お前、今日ここで俺に会ったこと、誰にも言うんじゃねぇぞ。じゃあなー」
「あ、こら、待て!」
いちが止めるのも聞かず、瑶二は再び走り出した。背後から叫び声が追ってくる。自然と口角が上がるのを自覚した。
翌日、仮眠をとるために訪れた救護室で、瑶二はいちが全力で自分を探していると知った。
「瑶二、お前何したの?」
ベッドに寝そべる瑶二に、ゼラは呆れた様子で問いかけた。隣のベッドを静かに整える紫苑も呆れ顔だ。
対して、瑶二は軽く鼻で笑う。必死に自分を探すいちを想像すると気分がよかった。
「別に、何も? つか、なんでお前、んなこと知ってんだよ」
「Ymが言ってた。聞かれたらしいよ。髪が長くて、歯がギザギザしてて、目つきが悪くて、人をおちょくるみたいな、はぐらかすみたいな態度の上級生を知らないかって。そんなのもう瑶二しかいないよね」
悪意を感じる表現に、瑶二は思わず顔を顰めた。
「あー、かわいこちゃんって一年だったか。つか、それで俺のこと思い出すって、もしかして俺嫌われてんのか?」
「いや、それは知らないけど」
「兄貴だろうが。俺がかわいこちゃんに嫌われたらどうすんだ。しっかりフォローしとけよ」
瑶二はベッドに寝そべったまま、いやらしく笑う。全て分かっていてやっているのだ。
ゼラはその様子に思わず溜息をついた。
「最初から、フォローがいるようなことをしなきゃいいんじゃない?」
「私も、そう思う……」
ゼラの隣で紫苑が首を縦に揺らす。味方はいないようだ。
「ていうか、今はその話じゃなくてさ、あんまり後輩からかうのも大概にしないと」
「からかってんじゃねぇよ。可愛い後輩たちを鍛えてやってんの」
「遊んでるようにしか、見えな……?」
紫苑の言葉を遮ったのは瑶二ではなく、けたたましく鳴り響いた扉の音だった。
「やっと見つけた、せんがようじ!!」
「お? 来たな、周防いち」
「昨日はよくも逃げてくれたな!」
「別に逃げたわけじゃねぇんだけどな。つか、お前、俺に会ったの言うなって言っただろうが。何、人に聞いて回ってんだ」
瑶二はベッドから降りながら、こちらを睨みつけるいちに聞いた。すでに昨晩の仕事がニュースになっている。勘のいい者なら、瑶二の仕業だと気付くかもしれなかった。
そんな瑶二の心配をよそに、彼女は自慢げに胸を逸らす。
「いつどこで会ったかは言ってないもん! 探してるって話しただけ」
その返答に瑶二は目を丸くする。彼女は、思ったより見込みがある。阿呆だが、馬鹿ではない。そう判断すると、彼女との関わりをより一層楽しくしたいと思えてくる。昨夜のように、瑶二の口角は自然と吊り上がった。
「なるほど。偉いぞ、おいち」
「おいちってなんだよ!」
「お前のことだよ。可愛いだろ?」
訳が分からないという顔のいちに笑って、瑶二は窓際へ移動する。いちより手前にいるゼラや、黙って様子を見守っていた紫苑は、まさかという顔で彼を見た。
「さて、うるせぇのが来たから、俺はもう行く。邪魔したな、ゼラ、紫苑」
言うが早いか、瑶二は学ランを靡かせて窓枠を飛び越える。
「あ、待て、瑶二!」
「先輩、上履きのまま……」
背後の声に喉を鳴らして笑う。校舎に沿って走り振り返ると、窓枠からいちが顔を出していた。その眼を快哉で輝かせ、瑶二を追いかけるべく身を乗り出す。
「逃げるなよ、ようじ!」
「先輩を呼び捨てすんな!」
「いいだろ、別に。待て、ようじー!」
「待てはお前だ、おいち。ステイ!」
「待ったら、ようじ逃げるだろー。嫌だ!」
楽しそうな声が、瑶二の背中を押す。
悪い気は、しなかった。