二人は視てる
「ただいま、じゃーん」
久我桃子は手に提げたビニール袋をアピールした。中身はビールだ。二本買ってきてある。
靴を猥雑に放って、ドスドスと足音を立てて、居間までやってくると、桃子は男が陣取っている真っ黒い牛革のソファーに尻から倒れこむ。
ぎゅむっとつぶされそうになるが、奥行きのあるソファーに救われた。彼女の尻は手前側に、男の体は奥のほうに押しやられた。それでもまだ圧迫感があるのはふっくらとした桃子の桃尻のせいだろう。彼女はそう言われると苛めみたいでなんか嫌だと言っていたけれど、男はその官能的なラインをみると、なんとなく満足な気持ちになるのだった。
「ビール」
「見りゃわかるよ。なんで?」
「そりゃあ飲みたかったからーふふんふーん♪」
飲む前から酔っ払っているような桃子に調子を合わせるほど、男は元気ではない。
彼の顔はしゅっと伸びたイタチやキツネのように長細い顔とナイフの切れ痕のような小さな目をしていた。それが青白く、不健康な輝きを放っている、じっと死んだような目で、テレビをにらみつけながらたまに咳き込む姿は不気味なものであったけれど、桃子が隣に座ると不思議と安らかに見えてくるのであった。
「あんまり飲むなよ」
そういいつつ男はプルタブを開け放つ。炭酸の放出される小気味の良い音を楽しむ間もなく喉を鳴らして酒を流し込む。
「ぷはっ うまっ」
「乾杯がまだなんですけどー?」
「何もめでたいことおこってねーよ」
拗ねた顔をしながらも桃子も発泡酒を口にした。
男とは対照的にちびりちびりと少しずつ煽っている姿は、どことなく小動物的である。
普段は酒を飲まない二人であったが、その日は不思議と酒がすすんだのであった。カラになったビールがずらりと並び、床には微妙に中身の残った日本酒の瓶が二つほど置かれたころ。すっかり酩酊の様相を成してろれつも怪しくなってきた桃子が男に訪ねた。
「今日は何してたの?」
男は眠そうに、まぶたをこすりながら答える。
「履歴書書いて、資格の勉強して、あとゲームやってたわ」
「ほんと、ニートみたい」
「あ?仕方ないだろニートなんだからさ」
あまりにとげとげしい皮肉に男の声のトーンが荒くなる。
「バイトでもすればいいのに」
「働くために準備してるんだけど」
「へー ゲームもそういうことなの?」
「ゲームくらい、どうだっていいだろう!」
「全くいいご身分ですこと、私は働いて、あなたは自由にやるんですね」
男は桃子の余りにも辛辣な物言いに我慢ならなくなった。カッと目を見開いて立ち上がった。あまりに勢いよく立ち上がったせいでテーブルの上の柿ピーが床に転がった。
頭にすっかり血が上り、呼気も乱れた男の肩の辺りがほんのすこしだけぼやけたかと思うと、男の全身から燃え上がる炎のようなゆらめきが立ち上る。
「俺を誰だと思ってやがる!18代目安倍晴明だぞ!!」
部屋中に霊的な波動が拡散され、びりびりと振動するようなプレッシャーが桃子に届いた。
しかし、当の桃子は冷ややかな目をしていた。恐怖におののくのでもなく、胡散臭い物を見るような目でもなく。
その手に持った日本酒の瓶をぐびりと飲み干して桃子はこういった。
「でも実家追い出されて、私みたいな式神に働かせてるヒキニートじゃん…」
威圧感を感じると実際よりも物が大きく見えるとよく言うが、霊的オーラもそうなのか反論のしようのないその事実を突きつけられ、スーパーサイヤ人みたいに波動をまとっていた安倍晴明の孫、阿部晴秋は小さくしょぼくれたただの青年に成り下がっていた。
そう、晴秋は安倍晴明の孫でダメ人間なのである。有名人の孫だからって成功しているとは限らない。現実とは非情なものなのであった。
膝を抱えてソファーに丸まって柿ピーをつついていじける晴秋を放って、その従者である桃子は一人酒を始めていた。その時である。
ガタンという、音がした。
この部屋からではない。隣の部屋からだ。
それも物を落としたような単純な響ではなく、大きな動くものが、床に倒れた音だ。桃子と晴秋は顔を見合わせた。隣は空室のはずだった。
「今音したよな」
「んー、そーいや最近、不審者がこのあたりに出歩いてるって話聞いたなあ」
「マジで!?大家さんに電話して見てきてもらう?」
「こーの!!!安倍晴明の孫っ!!不審者ごときでビビってどうするっ見てこい!!!」
「ええ~…」
いくら安倍晴明の孫でもつよいわけではない。霊的オーラと喧嘩の強さにはなんの関係もなかった。つまるところ、現代では無用のちからなのである。
晴秋が隣の玄関の前に立つと、電気がついているのに気がついた。やはり、何者かが潜んでいるのか。
桃子はすっかり面白がっているようで、金属バットを持って晴秋の後ろに立っていた。不審者とはいえ、金属バットで殴ってもよい、なんて法律があるわけがない。
ドアの向こうから何やら話声が聞こえてくる。もしやこれは麻薬取引とか、そういうヤバイことなんじゃないかと思えてきた。やはり警察に電話くらいした方がいいのかもしれない。
が、そんなことを提案させる暇もなく、日本酒三本目に突入した桃子はドアに向かって強烈な蹴りを放った。人間に作られた存在である式神は、主人である人間がどれほどの霊力を注いで制作したかによってその性能が変わる。人間を遥かに超えた身体能力を持つ桃子の蹴りを受け、225の隣の224の玄関のドアは、哀れにも粉々になって砕け散って吹き飛んだ。
果たしてそこにいたのは、パーカーをきた男と、スーツをきた女性であった。取っ組み合っているだったが、突然の来訪者に驚きの声も出ないらしく、こちらを見たまま完全にフリーズしていた。
ホームレスのような汚らしいおっさんや、スーツをきたどう見てもカタギじゃないお兄さんが突っ立ってる可能性すら予想していた桃子と晴秋は拍子抜けしてしまった。
時は止まる…っ こんなときにくだらないことを考えてる自分の頭はやはりまだ酔っ払っているのだろうか、晴秋が脳内でセルフツッコミをいれたあと十分な間を持って。
「助けてください!!この人!!ストーカーなんです!!!!」
「違います!!二人は愛し合う運命にあるんです!!!!!」
思考が追いつかない晴秋と桃子に向けたというよりは、悲鳴のように聞こえる不審な二人の慟哭が1LDKに響いたのであった。