魔王とジョーカー 第3話
ゲートを通ってきた言葉の通じない女の子の世話をすることになった日の翌日。
凪は自分の部屋のベッドの上で、うーんと唸りながら顔を歪める。なぜか胸の方に重さを感じていて、それのせいで苦しい。凪の布団の中で、不自然にモゾモゾと動く物体。人間の構造上、腹にあたる部分が、不自然に膨らんだり伸びたりしている。凪の体型からだとありえないその動き。
モゾモゾと動いていた物体は、少しずつ腹の上から胸へと移動して、布団から姿をひょっこりと現した。
「ぷはー」
布団から顔を出したアイカが、大きく口を開けて息を吸い込む。猫耳をピクピク動かして、周りの音を聞く。異常がないのを確認したアイカは、自分の下で唸る凪を見下ろす。そして、凪の肩に手を置き、思いきり前後に揺すり始めた。
「オハヨー! ナギ、オハヨー!」
アイカはニコニコ笑顔で凪を揺すり続ける。
凪はそれにビックリして目をさまし、すごい勢いでブレる視界に訳がわからず、あー……と声をあげる。
「ナギ、オハヨー!」
アイカは、揺する手を止めて凪の顔をじっと見る。凪はまだ目を回したまま答える。
「お、おはよう……アイカ」
フラフラして、グルグルな視界から、早く正常な状態に戻ろうとする凪。
ゆっくりと視界が安定してきて、ボヤけた視界にアイカの姿が段々と見えてくる。距離が近いため、目が悪くてもアイカの笑顔がよく見えた。アイカは、笑顔で凪に覚えたての言葉を話す。
「ナギ! アサゴハン!!」
アイカは昨日の夜に覚えたばかりの言葉、『アサ、ヒル、バン、ゴハン』とあいさつの中から2つを使っていた。まだ単語だけだが、物覚えは悪くないようだ。それに、昨日の晩に食べた料理が美味しかったようで、ゴハンはすぐ覚えていた。
凪はボリボリと頭をかきながらあくびをして、アイカをどかそうとする。
「ちょっとどいて。起きるから」
それにアイカは首をかしげて凪を見る。やはりまだ難しいか。凪は仕方なく、自分の寝てるベッドの横をポンポンと軽く叩く。それに首をかしげるアイカ。
「すわって」
ポンポンとそこを叩きながら短く言う。
アイカはその言葉を繰り返した。
「スワッテ?」
やはり短い言葉は聞き取れるようなのだが、意味のわからない言葉に首をかしげている。
「すわる」
凪はそのまま短い言葉で続ける。
アイカはそれに首をかしげながら、凪の手に誘われるように、凪の上からどいて、手の方に移動する。
だが、すわるという意味がわかってないから凪の手を掴む。
「!? いや、手を握るんじゃなくて……」
ギュッと柔らかい手で握られて戸惑う凪。嫌ではないが、恥ずかしい。アイカは、頭に?マークを浮かばせて凪の手を見る。
凪はそれに照れつつも、その場から起きてすわるの説明を始めた。
「すわる」
言いながら、ベッドに座る凪。
アイカは手を握ったままそれを見ていた。
「スワル?」
アイカは凪の言葉を繰り返す。
そして、凪と同じようにベッドの横に座って聞く。
「スワル?」
「座る」
凪は、うんと頷いて笑う。それを見て、アイカは嬉しそうに笑う。そして、立ったり座ったりをその場で繰り返す。
「スワル! スワル!」
覚えたての言葉を口にしながら、何度も立って座ってを繰り返す。
その時に、凪は気づいた。昨日、アイカの寝巻きとして貸したジャージのファスナーの下がり具合に。贔屓目に見なくても控えめな胸なのだが、お腹の辺りまでファスナーが下がってるのと、ノーブラなのが合わさって横から見えそうになっていた。凪はそれに気づき、慌てて顔を背けた。アイカは凪に気づかず、新しく覚えた言葉を嬉しそうに繰り返す。
ふと、凪はアイカが朝御飯を待ってた事を思い出した。凪はその場から立ち上がって、ドアへと向かう。アイカも凪に気づき、嬉しそうな顔をしたまま凪の後についていく。
「ゴハン~、ゴハ~ン!」
アイカは鼻唄混じりで、凪と一緒に部屋を出た。
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凪とアイカは朝御飯を食べ終えて、イミュニティの日本支部に来ていた。支部に来ないと行けないわけではないが、やることもないしミリアにアイカを押し付けるために支部に来た。アイカの世話をしたくない訳じゃないけど、ちょっと疲れるんだ。朝もいつのまにかベッドの中に潜り込んできてたし、それに言葉が通じないってだけで、こんなに疲れるとは思ってなかった。
凪は若干の申し訳なさを感じつつ、ブリッジ兼管制室へと続く廊下を、アイカと共に進んでいた。アイカはキョロキョロしながら凪についていく。
そして、目的の部屋の扉の前についた。プシューっと音をたてて、扉が開く。それに若干ビックリするアイカ。凪はそれを尻目に苦笑いして、中に入る。
「おはよーございまーす」
凪が挨拶して管制室に入ると、アイカも同じように挨拶して中に入ってくる。
「オハヨーゴザーマース」
惜しい挨拶だ。
中に入ると、オペレーター達から返事が返ってきて、オペレートしているミリアが手を高く伸ばしてブンブンと大きく振り、更に光もいた。一番高い位置で、ブリッジを見下ろせる位置に席のある光。光は、皆を見下ろすような位置のそこが嫌いだったりする。立場上仕方がないため、やむ無くそこに座っている。
光は凪とアイカに気づき、挨拶を返してくる。
「おはよう。よく眠れた?」
凪は、どっちに言ったんだろうかと思いながら、たぶんアイカの事だろうと判断して答える。
「よく眠ってたみたいですよ。俺の眠りは妨げられたけど……」
最後の方はボソッと答える。
それに苦笑いする光。
「あら、凪くんは寝れなかったの?」
「寝れなかったっていうか、起こされたんで」
凪は複雑な顔になる。アイカは言葉を話せないし、行動で表すしかないからしょうがない。
光もそれをわかっていて、半ば押し付けたようなものなので申し訳なさそうにしている。
「ま、いいんですけどね」
凪はそのまま歩いていき、光の真下の席につく。その後についていくアイカは、空いてる隣の席に座る。
オペレーターやサポーターの人達は固定席であるため自分の席に座るが、凪達ストライカーは支部の中ではなく外にいることが多いため自由席。オペレーター達は壁モニターの近く、ストライカーは指揮塔の真下の席と決まっている。そこだと、すぐに管制室から出て現場に向かえるからという理由がある。
自分の真下に座った凪を見下ろし、光は宙にモニターを現してモニターを指で操作する。そして、何かのデータを呼び出して指で横に流した。
すると、凪の目の前に光が出したモニターと同じサイズの物が宙に現れて、先程のデータを映し出していた。凪はそれに気づき、そのデータに目を通す。そこで、ん? と思いデータを良く見る。
「魔力SSSクラス? 誰のデータ……」
人間や魔獣の強さを表すのが魔力で、魔力SSSクラスは数えても5人いるかいないかに等しいぐらいの人数しかいない。血液型で言うボンベイ型よりもはるかに少ないと言えばしっくりくるだろうか。いるとしたら、‘魔王’とか‘神様’とかが一番近い。‘魔王’なら実際にいそうな気がする。
凪は指でモニターを操作しながら、そのデータに書かれた名前に目を移す。そこに書かれていたのは‘アイカ’という3文字。それに驚き、隣でモニターを興味深げに見ているアイカを見る。
「?」
アイカは凪に見られてることに気づき、首をかしげる。
それを見て、凪は苦い顔をして光を見た。そんな表情のアイカがSSSクラスだなんて信じられない凪は、何かの間違いだと言ってくれるのを若干期待していた。
だが、その期待もすぐに打ち破られる。
「残念ながら事実よ。アイカさんはSSSクラスの魔力持ち。計測に誤りも不具合も無かったわ」
光りは凪に別のデータを送る。
それを確認する凪。
送られてきたデータはアイカの健康診断の結果だった。それを上から見ていくと、健康ではあるようだ。だが、頭を打った形跡ありとなっていた。
凪はそれを見て、隣にいるアイカの方を向き確かめるように頭を触る。アイカはそれにくすぐったそうにしている。後頭部辺りをさすると、不自然に盛り上がった箇所があることに気づく凪。
「……内出血は?」
あまり大きくはないようだが、可能性がないとは言い切れない。見落としてると大変なことになる。
「幸いにもなかったわ」
それを聞いた凪はホッとして手を離す。アイカは首をかしげて凪を見て、凪の真似をするように凪の頭をさする。
「……」
凪は無言で光を見た。助けを求めるように、光をじっと見る凪。が、光はそれに苦笑いするだけで何もしてくれない。アイカは次第にエスカレートしていき、両手で凪の頭を撫でくり回す。段々と髪がぐしゃぐしゃになり始め、表情が強ばり始める凪。光はそれに気づきつつも話を続けた。
「でもね、頭を打った影響なのか、記憶がない可能性があるわ」
それに強ばった顔から驚きで表情が固まる凪。その間にも、アイカはぐじゃぐじゃと凪の頭を撫でる。
「でも、自分の名前を言ってたじゃないですか」
「名前だけ覚えてたかもしれないし、本人の名前とは違う可能性もあるわ」
つまり、アイカは唯一覚えていた‘アイカ’という言葉を自分の名前と勘違いした可能性もあるわけだ。ホントにアイカが名前なのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。わかるのは本人だけ。凪達は黙ってしまった。
「ふんふーん」
楽しくなったのか、アイカは2人の空気を無視して鼻唄を歌いながら凪の頭を撫でる。
いい加減我慢できなくなってきた凪が、額に青筋を浮かべてアイカの手を取る。
「や・め・ろ」
口の端を引くつかせながら、無理矢理笑って言う凪。なぜか理解したようで、アイカは首をかしげてから、コクンと頷いて凪の頭から手を離す。
凪はそれを確認してからつかんでた手を離し光の方に振り返る。そして、何事もなかったかのように話し始めた。
「記憶喪失だから自分がSSSクラスなのをわかってない?」
光はその切り替えの速さに苦笑いする。
「かもしれない。SSSクラスの魔力持ちが、どんな存在なのかは正直わからないけど、この子が記憶喪失で良かったともとれるわ」
「記憶があったままで、交渉できずに戦闘になったらどうなってたかわからないから?」
「そう。少なくとも、あの地域一帯は焼け野原になってたはずよ」
それは現場にいた凪も含んでいる。凪の魔力はAランク。SSSクラスとは差がかなりある。と言っても、SSSクラスは規格外。そもそもが存在しないとさえされている。Aランクの上はSランクのみで基本的に強い部類に入る。それでも、凪はアイカに‘普通には勝てない’。強さのみで言えば、凪の3ランク上の存在。DランクがAランクに勝てないのと同じだ。差がありすぎる。
「厄介な落とし物を拾ってしまった……」
凪はため息をついて片手で頭を抱えた。言葉がわからないだけでも厄介なのに、下手したらとんでもない存在なのだ。これは早急に何とかしないと不味いことになりかねない。
「これからどうなるかはわからないけど、なるべく早いうちに対処はするわ。それまでアイカさんをお願いできる?」
それまでって言ったって、いつ記憶が戻るかはわからないし、暴れだすかもわからない。でも、そんな風に言われたらやるしかないじゃないか。
「誰かに回すのも怖いですし、このまま引き続き俺とミリアが保護します」
ミリアも巻き込むがな。
ミリアなら、やるって自分から言いそうだけど、危ない事になりそうなら守ろう。
「ところで凪くん。制服はどうしたの?」
さっきの話とはうってかわって、光が冷たい目で凪を見る。
凪はしまった、もうバレたと思い苦笑いする。制服ではなく、私服で来ていた凪。黒いジャケットのインナーに白いVネックのTシャツ、黒いズボン。黒ベースのコーディネートの多い凪。
「お、俺は仕事で来た訳じゃないんで」
あはは、と力なく笑う凪。仕事じゃなく、ミリアにアイカを押し付けに来ただけ。
そんなこと言えないから凪は苦笑い。そんな凪を冷たい目で見る光。
「じゃあ、暇なのね。ちょうどいいわ。今訓練場で、新人の戦闘訓練をしてるんだけど、講師が1人足りないの。だから行って手伝ってきてくれる? 先輩として後輩達の面倒をみてあげて」
「アイカさんは、私が見てるから気にせずね」
ニッと笑う光。先に逃げ道を封じる辺りが、流石だ。逃げ場を失った凪は、諦めて立ち上がりトボトボと扉へと歩く。
「いってきまーす……」
その声に、張りも何もない。ただ、管制室から出ていくその背中は哀愁を帯びていた。
その後ろ姿を見送る光とアイカ。
「全く。あの子は油断してるとすぐ制服を着てこないから困ったものだわ」
はあ、とため息をつき頬に手をあてる光。
そんな光の制服の裾をちょいちょいと引っ張るアイカ。
「ナギ! ドコ!」
凪との会話で少しずつだけど言葉を覚えているアイカ。凪が何処に行ったのかを聞きたいようだ。
「凪くんはお仕事。アイカちゃんは、私とお勉強しましょうね~」
光はニッと笑い、机の中からかな文字が並んだ表を取り出した。あいうえお表と同じ物だ。
アイカは、その表と光を見て、表情を固まらせて後ずさる。直感で、今からどんな目に遭うかわかったのだろう。
だがアイカを逃がすまいと、光はアイカの腕をつかみ逃がさない。
「っ~!」
アイカの声にならない悲鳴が管制室に響き渡った。
遅れてオペレートを終えたミリアが2人の元に来てキョロキョロと周りを見渡す。
「あれ? 凪君はどこ?」
首を傾げるミリアに光は引きつった笑みを浮かべた。