十一月の Have a nice day
〈十一月の Have a nice day〉
時計代わりの携帯電話のアラームで目を覚ます。
毛布に身体を埋めたままで時刻を確認すると、午前七時半。俺の勤める会社はアパートの近所なので、出社するにはまだ時間の余裕がある。
しかし――
「さむっ……」
秋も深まった霜月の早朝の冷たい空気が、俺の起床を妨げる。しかも俺の場合は自転車で出勤――想像しただけで凍えそうだ。
とはいえ、無断欠勤するわけにもいかない。俺は死力を振り絞って上半身だけ布団から這い出し、こたつとヒーターの電源をつけた。部屋がある程度暖まったのを見計らって、俺はついに身体を起こした。
布団を離れ――しかし、今度はこたつに潜り込む。冷え切った手先足先に熱が浸透していく。快感と幸福の絶頂だ。
「仕事休みたい……」
極楽浄土の温室に気が緩んだのか、思わず本音が吐露してしまう。
どうも今朝は特別寒い――ような気がする。こんな真冬日にまで定時出勤など、狂気の沙汰としか思えない。
――本当に休んでしまおうか。
耳元で悪魔の囁き。
甘言に一度耳を傾けたらもう止まらない。俺は全身にぬくぬくと恍惚を味わいつつ、欠勤を伝えるため再び携帯を手に取った。
「もしもし」
『おお、佐藤か。どうした?』
「実はちょっと風邪ひいちゃいまして……。なので今日は休ませてもらいたいんですけど」
当然、風邪なんて患っていない。仮病って奴だ。
できるかぎり声を低くする。わざとらしく咳などをするのは偽装には逆効果だ。とにかく覇気のない気だるげな口調を演出する。
『……なるほど、わかった。じゃあ昼休みにでも見舞いにいくか? 俺でもお粥くらい作れるぞ』
「え」
いや、それはまずい。
普段から世話になっている先輩のことだ。直接会ったら“社会人にもなって仮病”大作戦は間違いなく見抜かれてしまう。
「さ、さすがに遠慮します! 先輩も仕事が忙しいでしょうし!」
『あぁ?』
先輩の声音に疑念が混じる。危険な兆候だ。これは嘘がバレたか……?
しかし、続く先輩の言葉は、俺の予想をさらに上回る突拍子もないものだった。
『よし。なら見舞いには岡野をよこす』
それを聞いて、俺の心臓は飛び跳ねた。狼狽にこたつの温もりも忘れて立ち上がりかける。
我が社に岡野はふたりいるが、その片方はハゲ散らかした重鎮だ。先輩が敬称もなしに呼ぶはずがない。
となれば話題に昇った岡野とは、俺が職場で密かに恋心を抱いている、岡野環さん以外にいない。
ちなみに、俺の片想いは(酒の席でゲロったため)男子社員の間では羞恥の――もとい周知の事実である。
「ちょ、ちょっと待ってください! それは岡野さんに迷惑じゃ……」
『うるさいな、おまえに拒否権はない。……だろ?』
必死で逃走経路を探す俺に、先輩は妙に語気を強めて断言した。
「ま、まさか……」
――そう、先輩は勘づいたのだ、俺の仮病に。あるいは、最初からわかっていたのかもしれない。
しかし後輩を脅迫するとは、なんて先輩だ。
『じゃあ岡野と話つけてくるから、通話切らずに待ってろ』
「……はい」
もはや唯々諾々と従うしかない。会社をズル休みなんて、職場に広まったら洒落にならないのだ。
ともあれ考えようによっては、先輩の計らいは喜ばしいものかもしれない。
岡野さんは生粋の仕事人間と評判で、これまではお近づきになる機会がなかった。そんな彼女との仲を進展させる絶好のチャンスだ。
同年代の男の部屋に赴くのだから、彼女だって多少は意識するだろう。なにもない、なんて可能性は皆無だ。そうに決まってる。
さて、どうやって歓待しようか。お茶菓子でも買ってきて、お洒落な格好をして……ああ、そういえば風邪をひいてる設定だったっけ。
電話の向こうでは、先輩が岡野さんを絶賛説得中のようだ。耳を澄ますと、微かに先輩の声が聞こえる。
『……うん、頼むよ。俺の代わりに。住所がわからない? ああ、大丈夫だよ。佐藤のアパート“まで”はついていくから』
先輩! 一生ついていきます!
『おう、聞こえてたか?』
唐突に声が近くなる。説得を終えたのだろう。
「はい、ありがとうございます!」
『いいってことよ。十二時半にいくから、しっかり準備しとけよ。それじゃ、お大事にー』
がちゃり。
やけに飄々とした『お大事に』を最後に通話は切れた。
こたつから亀みたいに出した顔の筋肉が意図せず緩む。
――本当に岡野さんが来るんだ。
こいつは一大事だ。あんなことやこんなことを期待せずにはいられない。いや、俺は病人を演じなきゃいけないんだけど。
それでも部屋の片づけくらいは必要だろう。なにせ男の独り暮らし、他人を――それも異性を招けるような空間ではない。
しかし、張り切る胸中とは裏腹に、肉体はまったく命令を聞いてくれなかった。
身体って奴は正直で、こたつの温もりを手離そうとしない。この呪縛から逃れられない。
あまりの心地よさに、頭までも次第に夢うつつをさ迷い始める始末だ。
――まあ、いいか。
どうせ午前中はまだまだ長い。二度寝をしてしっかり眠気を払ってから、おもてなしの準備に精を出そうじゃないか。
しばらくは、この微睡みに溺れていよう――
――その後“正午を告げる”鐘に尻を叩かれ、俺は慌ててこたつから跳ね起きたのだった。
読んでいただきありがとうございます!
この時期の布団には魔物が住んでいますよね。奴らに気力を食われないようご注意ください。
はい、私は今こたつに身体を丸呑みにされております。