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距離感ゼロの如月さんと自己評価ゼロのオレ 関連作品

底辺冒険者のオレが、なぜか孤高の実力者だと勘違いされて聖女様に懐かれた。〜距離感ゼロの聖女様と自己評価ゼロの冒険者〜

掲載日:2026/07/02

 ギルドの掲示板には、いつも同じような紙が貼られている。

「薬草採取・銅貨3枚」「街道の見回り・銅貨5枚」「ゴブリン一体討伐・銅貨8枚」。

 マサキはその中から、一番隅にある、誰も見向きもしないような依頼票を剥がした。


(今日もこれだけあれば十分だ)


 パーティーを組めば、もっと稼げる。

 もっと早く終わる。

 分かっている。

 分かっているが、それをする気にはなれなかった。


 誰かと歩幅を合わせる。

 誰かの顔色を見る。

 誰かに合わせて喋る。


(無理だ、そういうの)


 ソロなら、誰にも気を遣わなくていい。

 誰にも失望されなくていい。


 マサキは依頼票を懐へしまうと、剣を担いで一人、街の外へ向かった。


 ◇


 その日、街外れの森の入り口。


「ねぇねぇ、聖女様。オレらとパーティー組もうよ」


「応援してくれるだけでいいからさ、なにもしなくていいよ」


 男が三人。

 柄の悪い冒険者崩れが、一人の女の子を取り囲んでいる。


 白い丈の短いローブ。

 金色の刺繍。

 頭には控えめな装飾のついた髪飾り。

 誰が見ても<聖女>だと分かる格好だった。


「うーん、また今度ねー」


 女の子は笑いながら、やんわりとかわそうとする。


「今度っていつ?」


「せっかく声かけてんだからさ」


 男たちはにじり寄る。

 距離が、じわじわと詰められていく。


「んー、誘ってくれるのは嬉しいんだけど」


「いまちょっと忙しくて、ほんとにごめんね」


 声は明るいままだったが、足だけが少しずつ後ろへ下がっていた。

 マサキはその横を通り過ぎようとしていた。


(見なかったことにしよう)


 面倒事の匂いがする。

 三対一。

 相手は柄の悪い連中。

 首を突っ込んで得することは何もない。


 そう思って、視線を逸らした。

 なのに、


「……それ、嫌がってる」


 声に出すつもりはなかった。

 ただの独り言。

 自分の中だけで処理するはずの一言。


(……あ)


 だが、思ったよりも声が出ていた。

 男たちがこちらを見る。


「あぁ?なんだお前」


(……聞こえてた)


 マサキは、内心で舌打ちした。

 剣の柄に手をかける。


(……とりあえず、それっぽくしとくか)


 喧嘩に自信なんて、これっぽっちもない。

 三対一。

 勝てる要素は、どこにもなかった。


「冒険者」


 簡単すぎる自己紹介に、男たちが一瞬だけ黙る。

 剣の柄に添えた指先を、コツ、コツ、と軽く叩く。

 いつでも抜けるという体勢だけは、崩さなかった。

 柄に手を置いただけで、実際に抜く気なんてない。

 だが、


 男たちの間に、一瞬の迷いが走った。

 視線が、マサキの指先へ、剣の柄へと、何度も往復する。

 目配せをするような、様子を窺うような、微妙な間。


「チッ……気分悪ぃ、行くぞ」


 男たちは思ったよりあっさり引いた。

 剣の柄に手を置いただけの、地味な格好の男。

 だが、その一瞬の迷いが、答えだった。

 得体の知れない相手だと、警戒されたらしい。


(……終わった。よし行こう)


 安堵した、その直後だった。


(……聖女様か)


 視界の端に、まだ立ち尽くしている白いローブが映る。

 噂には聞いていた。

 国に一人しかいない、特別な力を持つ女の子。

 だが、実物を見るのは、これが初めてだった。


(……噂どおり)


 いや、噂以上だった。


(可愛いな)


 場違いすぎる感想に、自分で自分に突っ込みたくなった。


 午後の光を受けて、こげ茶色の髪が、やわらかく揺れている。

 その下の瞳は、驚くほど澄んだ茶色だった。

 整いすぎた輪郭。

 困ったように下がった眉。

 それでいて、どこか幼さの残る顔立ち。


 視線が、無意識にもう少し下へ流れた。

 白いローブの上からでも分かる、圧倒的にボリュームのある胸元。


(どこ見てる)


 慌てて、視線を引き剥がす。


(うん、行こう)


 マサキは、男たちが去っていくのも、聖女の様子も見届けずに、さっさと背を向けて歩き出した。


 関わるつもりも、助けたつもりもない。

 ただ通り過ぎるついでに、ちょっと独り言が漏れただけだ。


 マサキは足早にその場を離れる。


 ◇


 リサは、目の前の背中を、しばらく見つめていた。


(……え)


 心臓が、まだ少し速い。


 男たちに囲まれて、いつもの笑顔で誤魔化そうとして。

 でも、うまくいかなくて。


 そこへ、あの声だった。


『……それ、嫌がってる』


 熱のない、静かな一言。


(誰、あの人……)


 名乗りもせず、剣の柄に手をかけただけで、男たちを黙らせて。

 それで、当然みたいに背を向けて去っていく。


 聖女という立場のせいで、いつも周りは変に持ち上げてくるか、変に馴れ馴れしいかのどちらかだった。


 でも今の人は、そのどちらでもなかった。


(お礼、言わなきゃ)


 リサは白いローブの裾を持ち上げて、慌てて追いかけた。


「あ、あの、待って……」


 ◇


「……なに」


 マサキは振り返らないまま、低く言う。


「お礼させて」


「いらない」


「でも」


「本当にいらない」


 マサキは足を速める。

 追いつかれそうになると、また速める。


(……なんでついてくる)


 聖女。

 街の中心にいる、雲の上の存在。

 自分とは違う世界の人間。

 底辺冒険者が関わっていい人ではない。


(顔が綺麗すぎる直視できない無理だ)


 その一心だった。


「ねぇ、名前だけでも……」


「言わない」


 森の分かれ道で、マサキは一気に走り出した。


 木々の間を縫うように。

 細い獣道を選んで。


 やがて、後ろから聞こえていた足音が、聞こえなくなる。


(……よし)


 息を切らしたまま、マサキは木の陰から様子をうかがう。

 リサの姿は、もうどこにもなかった。

 逃げる理由は、うまく説明できない。


(……綺麗だったな)


 ただ、さっき視界に入った顔だけが、頭から離れなかった。


 安堵と、ほんの少しの、

 説明のつかない何か。


 マサキはそれに気づかないふりをして、依頼のあるゴブリンの巣穴へと向かった。


 ◇


 リサは、森の中でぽつんと立ち尽くしていた。


「……見失った」


 ぽつりと呟く。

 白いローブの裾についた葉っぱを払いながら、リサは小さくため息をついた。


(お礼、言えなかった……)


 名前も、聞けなかった。


(……でも)


 頭の中で、さっきの声が何度も反響する。


『……それ、嫌がってる』


 低くて、静かで。

 それだけ言って、当然みたいに背を向けて。


(……ちょっとカッコ良かったな)


 認めてしまうと、余計にドキドキした。


 ◇


 それから数日、リサはギルドや街の人間から、それとなく情報を集めていた。


「ああ、あいつな。いつも一人でランクの低い依頼ばっかり受けてるよ」


「愛想が悪くてさ。誰かと組んでるとこ、見たことないなぁ」


「なに考えてるか分からないやつだよ。声もほとんど聞いたことない」


「あんな地味な依頼ばっかりで、食っていけるのが逆にすごいよ」


 どの言葉も、決して褒め言葉ではなかった。

 それでも、リサの頭の中では、少しずつ違う形に変換されていく。


(……誰とも組まない)


(……誰にも媚びない)


(……なにを考えてるか読ませない)


(……人と違うやり方で食べていってる)


 それって、


「……孤高のソロプレイヤー?」


 ぽつりと、口から漏れる。


(ずっと一人で戦ってきたんだ。実力を隠してるだけで、本当はすごい人なのに)


(だって、あんなにあっさり男の人たちを黙らせられたんだもん)


 一度そう思ってしまうと、もう止まらなかった。

 誰かと群れず、静かに一人で戦う男。

 リサの中で、あの日の背中は、どんどん輝いて見えてくる。


(……もう一回会いたいな)


 リサはそっと、自分の胸に手を当てた。


(会って、ちゃんとお礼しなきゃ)


 その『お礼しなきゃ』という言葉が、いつの間にか少しだけ、別の熱を帯び始めていることに、リサ自身はまだ気づいていなかった。


 ◇


 聖女には、いくつかの固有スキルがある。


 治癒。

 浄化。

 加護。


 そして、

 短距離の空間跳躍。

「ワープ」


 本来は、主にパーティーが窮地に陥ったときに緊急脱出用として使うものだ。

 座標を正確に把握し集中していなければ、転移場所は大きくずれる。

 だから普段は、いざと言う時だけ使うようにと教えられていた。


(でも……)


 リサは、聖女の力で街の外れに立つ人影を、うっすらと感知していた。

 一人。

 他の誰とも重ならない、一人だけの反応。

 ランクの低い依頼で稼いでいるという、あの人。


(……ちょっとだけ、会いに行くくらい)


 いいよね。


 その『ちょっとだけ』に、実はかなりの下心が混ざっていることに、リサはうっすら気づいていた。


(正確な座標じゃなくても、だいたい合ってれば……)


 慎重さより、はやる気持ちの方が勝った。

 リサは目を閉じて、詠唱を紡ぐ。


「――届け」


 光が弾け、視界が一瞬で切り替わる。


 ◇


 マサキは、今日も簡単な掃討を終えて、ちょうど一息ついていたところだった。

 汗を拭い、地面に座り込む。


(……こんなもんか)


 稼ぎは少ない。

 それでも、誰にも気を遣わずに済む。

 その方がいい。


 そう思っていた、次の瞬間。

 頭上に、白い光が生まれた。


「……ん?」


 ふと見上げる。


 光の中から、何かが、まっすぐ、

 自分の顔面へ向かって、落ちてくる。


「……?!」


 避ける間もない。


 ぼふん。


 と柔らかく、それでいて確かな重みのあるものが、マサキの顔面に着地した。

 勢いに押され、座り込んでいた身体が、そのまま後ろへ倒れ込む。

 背中が地面に着くのと、視界が真っ暗になるのは、ほぼ同時だった。


(……な、なに)


 息を吸うたび、薄い布が鼻先に張り付いて、息苦しい。

 完全に塞がれているわけではないのに、吸える空気があまりにも少なかった。


 布越しの、独特な弾力。

 熱い。

 吸うたびに、鼻先をかすめる甘い匂い。


(……これ)


 マサキの脳が、必死に状況を処理しようとする。


(尻)


(人の尻)


(誰かの尻が顔に乗ってる)


 何もないところから急に人が現れる。

 できるとすれば、指折りの上位魔法使いか、聖女様くらいのものだ。

 そんなことは、知識として知っていた。


(……?!)


 その結論に到達した瞬間、マサキの全身が硬直した。


 ◇


「……あぅ……」


 ワープの座標が、思ったよりずれた。

 あたりを見回すが、あの人はいない。


(え、失敗した…?)


 しかし、お尻に違和感を感じる。

 お尻の下が、地面にしては弾力がありすぎる。

 しかも、じんわりと熱を持っている。


(……なに、これ)


 草むらに座り込んだにしては、感触が違いすぎた。

 石でも木の根でもない。

 もっと、生き物めいた弾力。

 試しに軽く体重をかけてみると、下からわずかに押し返してくる感覚があった。

 さらに、もぞりと動く感触まである。


(え……動いた?)


 背筋に、じわりと嫌な予感が走る。

 おそるおそる下を見ると、飛び込んできたのは、

 自分の下に、人が倒れている、という光景だった。


 しかも。

 その人の顔の真上に、自分は座っている。


「……え」


 リサの思考が、一瞬で止まる。


(え、うそ……もしかして……)


 自分の下にあるものの正体を、確かめる。


 紫がかった髪の色。


(……あの人だ)


 あの日、自分を助けてくれた人。

 その顔に、


(……あたしのお尻が乗ってる……)


 理解した瞬間、リサの顔が一気に真っ赤になった。


「きゃーっ」


 思わず足に力を入れてしまう。


「んんんっ!?」


 くぐもった声が、下から聞こえる。


「ひゃっ。ご、ごめ…ごめんなさいっ……!」


 リサは慌てて両手をついて、お尻をずらす。


「……っ、はぁ……」


 マサキは仰向けのまま、荒い呼吸を繰り返す。


「だ、大丈夫ですか……?」


 リサが慌てて覗き込んでくる。

 だが、その身体はまだ、マサキの上に乗ったままだった。


 覗き込んできた顔が、想像していたよりずっと近くにあった。

 鼻先が触れそうな距離。

 吐息が、頬にかかるのが分かるくらいの近さだった。


(いや、近っ!)


 逃げようにも、後頭部はすでに地面に押し付けられている。

 仰向けのまま、身体をひねることもできない。

 この距離から、逃げる術がなかった。


 光に照らされたこげ茶色の髪が、覗き込んだ拍子にさらりと肩から滑り落ちてくる。

 毛先が、マサキの頰をかすめた。

 睫毛の長さが、数えられそうなほどの距離だった。

 瞳の色は、透き通った茶色。

 心配そうに揺れている。

 鼻筋が整いすぎていて、逆に現実味がない。

 薄く開いた唇が、何か言いかけて止まっている。


(近いっ、近い近い近い)


 頭の中で、同じ言葉だけがぐるぐる回る。

 状況を説明しようにも、言葉が一つも出てこない。


(なんでこんな綺麗な顔してるんだ)


 場違いな感想だと分かっていても、止まらなかった。


「……あの」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「……どけて」


「あ、ごめんなさい」


 リサは、体重をかけたまま、そろそろとお尻の位置をずらしていく。

 熱と柔らかさが、マサキの胸の上を擦るように、少しずつ後ろへ滑っていく。

 布越しに、お尻が移動していく感触が伝わる。

 胸の上から、腹の上へ。


「ぅぐ……」


 圧しかかる体重は変わらないまま、位置だけがずれていく。

 体重をかけたまま体勢を変えようとしたせいで、一瞬ぐっと圧がかかる。


「……っ」


 マサキは声を殺した。


 重みはずっしりとしているのに、当たっている部分は不思議なくらい柔らかい。

 その両方が、同時に伝わってくる感覚に、変な感想を抱きそうになる。

 腹の上から、さらに膝の上へ。

 最後まで、体重を抜くことはなかった。

 滑るように移動して、ようやく落ち着く。


 マサキは息を詰めたまま、その動きの一つ一つを、無言で耐えていた。


(……なんで乗ったままなんだ)


 疑問はある。

 だが、それを口にする余裕がなかった。

 重みが移動するたび、擦れる感触と熱だけが、はっきりと伝わってくる。

 思考のほとんどを、それに持っていかれていた。


 ◇


 マサキはようやく上体を起こしたが、リサは膝の上に居座ったままだ。

 立ち上がれば、リサがずり落ちる。

 視線をどこに置けばいいのか分からず、結局横を向いた。


「……お、おりて……ください」


 声が、思ったよりも小さく震えた。

 リサは、頬を膨らませるようにして、むっとした顔を作った。


「降りたら逃げるじゃない」


 拗ねたような、少しむすっとした声だった。

 図星だと、認めるしかない。

 マサキは、思わず言葉に詰まった。


挿絵(By みてみん)


 聖女といえば、常に人に囲まれて丁重に扱われ、物腰も上品で、隙などないものだと思っていた。

 気安く話しかけられる相手ではないし、住む世界が違う人間だとも思っていた。

 だが、目の前のこれは、距離感が近すぎるし、押しも強くて、こちらのペースなど少しも守られていない。

 聖女らしい<格>のようなものも、今のところ一つも感じられなかった。


(……でも、顔だけは無駄に可愛い)


「オレに、なんか用……?」


 困ったように、視線をわずかに逸らしながら聞く。


 リサは白いローブの裾を意味もなく指で整える。

 何か言おうとして、一度口を開き、また閉じる。

 少し迷ってから、リサは笑顔を作り直した。


「あのね、さっきギルドですごいクエスト見つけたんだー」


 声が、いつもより高く弾んだ。


「S級の討伐依頼なんだけど……」


 言葉を選ぶように、一度区切る。


「すごく綺麗な宝石が報酬なの。一緒に行こ?」


 ◇


 マサキは、露骨に困った顔をしているくせに、決してリサの身体を押しのけようとはしなかった。


(……優しい)


 実際は「どこを触っていいのか分からない」だけなのだが。


「S級のクエストなんて滅多に出てこないよ」


 それだけ言って、リサはにっこり笑う。


(……あたしの力を使えば、1人でもクリアできる)


 直接お礼を渡そうとしても、この人は絶対に受け取らない。

 それは、あの日のやり取りですでに分かっていた。


(だから)


 クエストの報酬という形にすれば、自分の力で稼いだものとして、押し付けがましくなく受け取ってもらえる。


 その企みは、リサの中では完璧な作戦のはずだった。


 ◇


「S級はダメだ」


 マサキは、顔を逸らしたまま言う。


「なんで」


「危険すぎる」


「あたしは大丈夫」


 にこにこと笑うその顔に、マサキは余計に落ち着かなくなった。

 危機感というものが、まるで感じられなかった。


「いくら聖女でも、S級は危ない」


 マサキの声は、いつもより少し強かった。

 自分は、パーティーを組んだことなど一度もない。

 誰かを守りながら戦うということが、どういうことなのか、実感として分からなかった。


(……もし、オレがもっと強かったら)


 力さえあれば、「いいよ」の一言で済んだはずだった。

 迷う必要も、断る必要もなかった。


(でも、今のオレじゃ)


 守り切れる自信が、どこにもなかった。

 そこから先を、あまり考えたくない。


「大丈夫、あたしが絶対に守るから!」


 リサは、自分の胸を叩くようにして言い切る。

 マサキは、その言葉に少しだけ言葉を詰まらせた。


(……守る、って)


 逆じゃないか、と思う。

 確かに、自分は弱い側の人間かもしれない。

 それでも、女の子に守られるのは何かが違うと感じた。


「……行かない」


 短く、はっきりと言い切る。


「え……」


「降りて」


 マサキは、リサの身体を今度こそ、そっと持ち上げるようにして膝から降ろした。

 突き放すつもりはなかった。

 ただ、これ以上この状況を続けられなかった。


「……名前だけ」


「言わない」


 リサは、初めてそこに気づいたような顔をした。


(……名前すら教えてもらえてない)


 『まだ他人』という距離感を、改めて突きつけられ、リサは少しだけたじろいだ。

 その事実が、じわじわと効いてくる。


「オレは行かない」


 マサキはそう言うと、剣を拾い上げ、リサに背を向けて歩き出した。


 リサは、その背中を見送るしかなかった。

 『待って』と言おうとしたが、うまく言葉にならないまま、口をつぐんだ。


 ◇


 マサキは、森を抜けながら、一人で考えていた。


(……宝石か)


 あの子が言っていた、S級討伐の報酬。


(あの子、宝石が欲しいのか…)


 聖女という立場だから、金には困っていないはずだ。

 それでも、女の子にとって宝石というのは特別なのかもしれない。

 それを手に入れるために、危険なクエストを受けようとしている。


(……それなら)


 マサキの中で、勝手な理屈が組み上がっていく。


(オレが代わりに取ってくれば、あの子は危ない目に遭わなくて済む)


 自分一人なら、危険を背負うのも自分だけだ。

 それなら、


(……行くしかないか)


 マサキはギルドの方角へ足を進める。

 誰も受けたがらないような、高難度の討伐。


(……いや別に、あの子のためってわけじゃないけど)


 そう自分に言い聞かせながら、マサキはギルドへ向かって、静かに歩き出した。


 リサが「一緒に」と言っていた言葉を、丸ごと置き去りにしたまま。


 ◇


 その夜、ギルドの掲示板から、一枚の依頼票が消えていた。


 S級討伐。


 受注者の欄には、いつも隅の依頼ばかり受けている、あの地味な冒険者の名前だけが、ぽつりと記されていた。


 ◇   ◇   ◇


 ギルドの扉を潜ると、昼下がりの喧騒が耳に飛び込んできた。

 依頼を終えたばかりの冒険者たちが、酒場スペースで武勇伝を語り合っている。

 受付カウンターには、討伐の確認をする列ができていた。

 掲示板の前では、数人が新着の依頼票を覗き込んでいる。


 リサは、その賑わいの端を、ゆっくりと歩いた。

 特に用事があったわけではない。


(……あの人、いるかな)


 そんな軽い気持ちだった。

 ワープを使えば一瞬だが、それでは狙って会いに来たのが、あまりにも分かりやすい。


(うっとうしいって思われたら困るし)


 前回、あんなに拒否されたのだ。

 今度は、もう少し慎重にいかなければならない。


(今日は、偶然のていで)


 だから、歩いて。

 わざと遠回りをして。

 通りすがりに寄っただけ、という顔を作って。


(今度会ったら、なんて誘おう)


 S級はダメだと言われたばかりだ。

 だったら、A級くらいなら文句ないんじゃないか。


(A級のクエスト、なんかあるかな)


 掲示板をちらりと見ながら、そんなことを考える。


 できれば、日帰りで終わらないものがいい。

 一泊するくらいのもの。

 そのほうが、一緒にいられる時間が長くなる。


(あ、洞窟系のとかいいかも)


 薄暗い洞窟。

 二人きり。

 灯りも心もとない。


(怖がったふりして、抱きついたりしたら)


(あの人も、少しは意識してくれたり)


 想像が、勝手に膨らんでいく。


(いやいやいや)


 我に返って、リサは自分の頬を軽く叩いた。


(まだ名前も知らないのに)


 浮かれすぎだ、と自分に言い聞かせる。

 それでも、掲示板を見る目は、自然と一泊系の依頼を探していた。


 受付の前を通り過ぎようとしたとき、カウンター脇にいた二人組の冒険者の声が、耳に飛び込んできた。


「え、あの地味な奴がS級受けたって?」


「一人でだろ? 正気かよ」


「あそこ、パーティー組んでも生還率五割切るぞ」


 リサの足が、思わず止まった。


(……地味?)


(……一人?)


(S級……)


 噂の欠片が、頭の中で一つに繋がっていく。


「……あの人だ」


 声が、無意識に漏れた。

 名前も知らない。

 顔しか覚えていない。

 それでも、確信だけがあった。


(噓、なんで一人で……)


 血の気が引いていく感覚があった。

 同時に、あの日の自分の声が、頭の中で蘇る。


『S級のクエストなんて滅多に出てこないよ』


(……あたしが、あんなこと言ったから?)


 その事実が、今更のように重くのしかかってくる。

 急がなきゃ、と思った。

 思ったのに、


(あ、待って)


 鞄から、反射的に手鏡を取り出していた。

 前髪を、指先でさっと整える。

 角度を変えて、右から。

 次に、左から。


(……左のほうが可愛いかな)


 こんな時でも、その確認だけは外せなかった。


(はっ、急がなきゃ!)


 鏡を放り込むようにしまうと、リサは目を閉じた。


「――届いて」


 詠唱よりも、祈りに近かった。

 光が弾け、視界が一瞬で切り替わる。


 ◇


 その頃マサキは、地竜の眷属から距離を取り、木の陰に身を潜めていた。


 巨大な鱗の体軀。

 振り上げられた爪が、近くの幹を裂き、乾いた音を森の中に響かせた。


(……硬い)


 ここへ来てから、何度か剣は当てた。

 だが、返ってきたのは刃が弾かれる感触だけだった。


 弱点は分かっている。

 腹の下、一瞬だけ光る場所。

 だが、そこへ踏み込む隙を作る余裕がなかった。


(このままだと、埒があかない)


 息が上がる。

 汗が、額から顎へ流れ落ちる。


 今は距離を取って、様子を窺うしかない。

 攻撃のタイミングを見極める。

 それしかできることがなかった。


 そのとき、

 頭上に、白い光が生まれた。


「……ん?」


 見上げる。


(……この光)


 光の中から、何かが、まっすぐ落ちてくる。


 一目で分かった。

 聖女の、ワープの光だ。


(また来たのか……!)


 驚きよりも先に、身体が動いた。


 このまま落ちたら地面に叩きつけられる。

 そう思った瞬間には、両腕がすでに伸びていた。


 だが、どこに触れていいのか分からなかった。

 肩か、腰か。


 結局、腕は中途半端な位置で止まり、勢いを殺しきれないまま、マサキは後ろへ崩れるように地面へ座り込んだ。


 同時に、受け止められなかった重みが、そのままマサキの顔に押し付けられる。


 むにゅっ。


「んぐっ……!」


 視界が、肌色になる。


 柔らかい。

 それでいて、確かな弾力がある。

 肌に直接伝わる熱が、じんわりと染みてくる。


(……これ、この前と)


 顔全体を塞ぐような感触。

 息をしようとするたび、甘い匂いが鼻先を掠める。


(……いや)


 深さが、違う。

 今度は、頬から鼻にかけて。

 左右から、柔らかく弾力のあるものに、顔ごと挟み込まれている。

 両側から、ぎゅっと。

 逃げ場が、どこにもなかった。


(……胸)


 その結論に至った瞬間、マサキの全身が硬直した。


(待て待て待て)


(今オレ、聖女様の……)


 思考が、まとまらない。

 自覚した途端、呼吸が勝手に速くなる。

 息を吸うたびに、甘い匂いが濃く鼻の奥まで届いた。


(嗅ぐな!嗅いでない!これはただの呼吸で……)


 言い訳のような思考すら、まとまらなかった。

 声も出せない。

 出そうとしても、口が塞がれていて、くぐもった音にしかならなかった。


 だが、リサの方もそれどころではなかった。


「ひぇっ!」


 地竜の姿を見たらしい。

 リサは短く悲鳴を上げると、反射的に腕の中にあったものへしがみつく。

 それが、マサキの頭だった。


 両腕で、力の限り抱え込む。

 リサの胸が、押し付けた顔の形にぐにゃりと歪むのが分かった。

 柔らかいものが左右に逃げ場を失って、変な方向に潰れている。

 それでも、力を緩める余裕なんてなかった。


「んんっ……!?」


 くぐもった声が漏れたが、リサの腕は緩まなかった。


 怖いものは、怖い。

 聖女だろうと、それは変わらない。


 地竜より先に、マサキはこの状況をどうにかしなければならなかった。

 リサはまだしがみついたまま、震えている。


(……怖がってる)


 無理もない。

 あんな化け物を、急に目の前で見せられたのだ。


(まずは、落ち着かせないと)


 頭では、そう分かっている。

 分かっているのに、顔に押し付けられたままの感触が、いちいち思考を邪魔してくる。


(柔らかい、いや今それどうでもいい、落ち着かせるのが先)


(でも柔らかい、いい匂いする。普通に無理、いや冷静に)


(冷静に。冷静に。地竜がいる。地竜が優先)


 言い聞かせても、頭の中はまとまらないままだった。

 マサキは、慎重にリサの身体を支え直しながら、声をかけた。


「……大丈夫だから」


 くぐもった声で、それだけ言った。

 声がまともに出せているかも、自分では判断できなかった。

 それでも、少しだけ、リサの腕から力が抜けた気がした。


「あ……」


 リサの手から、ようやく力が抜けた。


「あ、ご、ごめんなさい……!」


 慌てて腕をほどく。


 マサキの視界が開けて、ようやく地竜の姿が見えた。

 巨大な体軀。

 剥き出しの牙。

 振り下ろされる爪が、地面を抉る。


 リサはさっきまで震えていたのに、傍にマサキがいると分かった途端、その強張りは、驚くほどあっさりと解けていた。


「なにあれぇ」


 さっきまでの怯えが噓のように、間延びした声が出る。


「地竜の眷属」


 マサキは短く答えながら、リサの正面に身体をずらした。

 地竜が襲ってきても、自分が先に受けられる位置。

 腕を軽く広げて、リサを背に庇う形を取った。


「硬い。剣は効かない」


「すごぉ」


(……なんでそんなのん気なんだ)


 命の危険がある状況のはずなのに、目の前の聖女は、まるで散歩の途中で珍しいものでも見つけたような声を出している。


「腹の下だけ、時々光って」


 その一瞬だけ、皮膚が薄くなる。


「そこしか、通らない」


 言葉は少ないが、状況は十分に伝わった。

 力で押し切れる相手ではない。


 マサキの息は、すでに上がっていた。


 ◇


 地面にしゃがんだまま、マサキはリサの様子を確認する。


(……近い)


 髪が乱れて、頬に張り付いている。


(じろじろ見るな)


 分かっている。

 分かっているのに、視線が勝手に動いた。


 乱れた髪の隙間から、耳が覗いている。


(……耳、赤い)


 緊張のせいか、それとも別の理由か、頬もうっすら色づいていた。


(いやでも顔可愛いな)


 薄く開いた唇が、まだ何か言いかけている。


(見るな)


 視線を逸らそうとして、失敗した。


 長い睫毛が、瞬きのたびに小さく揺れる。

 視線が、そのまま下へ落ちていく。


(待て)


 白いローブの胸元が大きく開いていて、柔らかそうな谷間が主張してくる。


(でかい……)


 ふと、顔面に押し付けられた感触を思い出してしまった。


(いや、思い出すな。忘れろ)


(見るな見るな見るな)


 慌てて目を下へ逸らす。

 だが、逸らした先も、まずかった。


 しゃがみ込んだ体勢のまま、剥き出しの太ももが、視界に入り込んでくる。

 白い。

 やけに、白い。


(……眩しい)


 直視できず、目を細める。

 それでも、視線は勝手にほんの少し上へ戻った。


(待て、そこは)


 地面に落ち着いた、丸みのある輪郭。


(……こないだの、あれ)


 顔に乗った、あの重みと弾力。

 なぜか、感触まで鮮明に思い出せた。


(なんで覚えてる)


(忘れろ、今すぐ忘れろ)


 自分の頭を殴りたくなった。


(おい、集中しろ。地竜。地竜がいるだろ)


 言い聞かせても、思考は勝手に散らかっていく。


(可愛い、綺麗、まずい、集中、地竜、可愛い、柔らかい)


 順番も脈絡もなく、単語だけが頭の中を回っていた。


 ◇


 マサキの息は、すでに上がっていた。


 剣を握り直し、リサを背に庇う位置へ踏み出す。


(……守りながら、隙を待つしかない)


 次の攻撃をどう凌ぐか。

 頭の中で、いくつもの選択肢が浮かんでは消えていく。


「あ、待って」


 その動きに気づいたのか、リサがマサキの袖を軽く引いた。


「大丈夫、寝かせる」


「は?」


 剣を構えたまま、マサキは横目でリサを見た。


 リサは、こほん、と小さく咳払いをする。

 それから、確認するように、小さく喉の調子を整えた。


「んー……あ、あーー」


 高さを確かめるような、短い唸り。


(……何してる)


 戦闘中とは思えない悠長さに、マサキの表情が、じわりと怪訝なものに変わっていく。

 そして、リサは大きく息を吸い込んだ。


「ぁー……ら、らぁあ……あぁ……♪」


 次の瞬間、放たれたのは、何とも言い難い音の連なりだった。

 音程が、あちこちで跳ねる。

 伸ばすべきところで途切れ、止まるべきところで伸びる。


(……なんだこれ)


 マサキの怪訝な表情が、さらに深くなった。


「……これ、歌か?」


「聖歌ですっ。これも聖女の力なの!」


 叫ぶように返しながら、リサは歌い続ける。


 もはや旋律と呼べるかどうかも怪しい代物だったが、聖なる力自体は本物らしく、地竜の巨体が、少しずつ大人しくなっていく。

 振り上げられていた爪が、ゆっくりと止まる。


 唸り声が、次第に小さくなっていく。

 やがて、巨体はどさりと地面に沈み込んだ。

 その衝撃で、乾いた土埃が大きく舞い上がる。

 視界が一瞬白く霞み、砂混じりの風が、二人の顔を撫でていった。

 土埃がゆっくりと収まる頃には、地竜は完全に動かなくなっていた。


「……」


 マサキは、しばらく状況が理解できなかった。


「え……終わり?」


「どやぁ」


 得意げに胸を張るリサに、マサキは何も言えなかった。


 マサキは、剣を握り直した。


 眠ったままの地竜の腹の下へ、ゆっくりと歩み寄る。

 光る部分へ、迷わず剣を突き入れた。

 抵抗もなく、刃が沈み込む。

 どすん、と重い音を立てて、地竜の体軀が完全に静まった。


「……終わった」


 拍子抜けするくらい、あっさりとした幕切れだった。


 ◇


 剣を鞘へしまい、マサキは自分の身体を確かめる。


 傷は、浅い擦り傷が数か所。

 それだけだった。


(……なんとかなったのか)


 命の危険を感じるほどの戦いだったはずなのに、終わってみれば呆気なかった。


 リサは少しだけ言い淀んだ。

 何か言いかけて、唇をきゅっと結ぶ。

 そのまま一度、マサキの顔を窺うように見上げて、すぐに視線を落とした。


 ローブの袖口を指先でつまみ、意味もなく小さく引っ張る。

 一度断られたことを、まだ気にしているような間だった。


「ねぇ、この力があれば、どんなクエストだって余裕でしょ?」


 少しだけ声を明るくして、リサは顔を上げる。

 上目遣いだった。

 目を少し潤ませるようにして、口元だけは明るく笑っている。

 断られたくないのを隠しながら、それでも可愛く見える角度だけは外していない。


 ずるい。

 そう思った時点で、マサキはもう視線を逸らしたくなっていた。


「またクエスト、一緒にやろ!」


 リサは勢いをつけるように言った。

 パーティーに誘う、というより、断られる前に決定事項へ持っていこうとしているような口調だった。

 けれど、その声の端には、ほんの少しだけ不安そうな揺れが残っている。


「無理」


「……え」


 即答だった。

 リサは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。


「あたしがいれば、どんなクエでも楽にクリアできるんだよ?」


 今、身をもって証明したはずだった。

 この力があれば、どんな依頼だって怖くない。

 それは、いいことのはずだった。


「いや、無理」


「なに?なんで?」


 リサは、思わずマサキに詰め寄った。

 マサキは、視線を逸らしながら、ぼそりと言う。


「……聖女様が、綺麗すぎて無理」


 可愛い子が隣にいるだけで、意識が勝手にそっちへ引っ張られる。

 そんな状態で、いつも通りに剣が振れる自信なんてなかった。


 ◇


「ん?」


 予想外すぎる答えに、リサの頭が真っ白になった。

 一拍おいて、言葉の意味が染み込んでくる。


(綺麗って、言われた……?)


 ぶわっと、顔に熱が集まった。


(今!?このタイミングで!?)


 地竜が倒れるときに舞い上がった砂煙で、リサの髪は乱れ砂まみれだった。

 慌てて手ぐしで髪を整えるが、絡まった毛先がぱさぱさに乾いていて、うまくまとまらない。

 白いローブの裾は土埃で灰色に汚れ、葉っぱの切れ端まで挟まっている。

 乱れた胸元を引き上げ、よれた裾もぱんぱんと払う。


 とんでもない音痴も披露した直後だ。

 最後に、せめてもの体裁を取り繕うように背筋を伸ばす。


(不意打ちすぎる……っ)


 頭の中が、一気に忙しくなる。


(待って、なんでここで、いや嬉しいけど)


(顔、赤い。絶対赤い。見られたくない)


 聖女なら、こんな時こそ『うふふ、ありがとう』くらい涼しく返せるはずだった。

 なのに今のリサは、余裕のかけらもない。

 両手で、思わず頬を押さえた。


「な、なななにその理由?!」


 声が、盛大に裏返った。

 顔を褒められた、ということは分かる。

 でも、それが「無理」の理由になる意味は、まったく分からなかった。


 しかも、


(あたしの力、使う気ないの……?)


 さっきだって、あの地竜を歌一つで眠らせたばかりだ。


(この力さえあれば、S級だろうがA級だろうが、鼻歌交じりで終わるのに)


 マサキの視線は、リサの顔にすら向いていなかった。

 目を逸らしたまま、地竜の亡骸のほうを見ている。

 聖女の力を利用しようとする素振りは、微塵もなかった。


(……なんなの、この人)


 断る理由が、顔が綺麗だから。

 力があれば楽できると分かっているのに。


 困惑と、それだけでは片付かない何かが、じわじわと胸の奥に広がっていく。

 これまで感じたことのない種類の、落ち着かなさだった。


 ◇


「……ついてきて」


 それだけ言うと、マサキは背を向けて歩き出した。


「うん…」


 リサは、慌ててその後を追う。


 説明はない。

 理由も、行き先も。

 それでも、素直についていく自分に、リサは少しだけ驚いていた。


(……言葉、少な)


 隣に並んで歩きながら、さっきの言葉が、まだ頭の中に居座っている。


『……聖女様が、綺麗すぎて無理』


(綺麗なんて、言われ慣れてるはずなのに)


 聖女という立場上、そういう言葉は嫌というほどかけられてきた。

 でも、それはいつも、次に何かをねだるための前置きだった。


 パーティーに、名前を。

 依頼に、箔を。

 自分に、都合を。


 好意そのものは本物でも、その先には必ず、聖女という肩書きへの下心が透けて見えた。


(この人の綺麗は、なんか違った)


 パーティーに誘って、断られて。

 理由を聞いたら、出てきたのが『綺麗すぎて無理』。


(いや、普通に意味わかんないんだけど)


 断る理由になっていない。


(もしかして、照れてる……?あたしといると、緊張するとか)


 リサは、ちらりとマサキのほうを盗み見た。


(いや、そうは見えない)


(あたしが顔を隠せばいいの…?)


 考えれば考えるほど、ズレていく。

 モヤモヤしたものが、まだ胸のあたりに残っている。


 ◇


 ギルドに着くと、マサキは受付へ直行した。

 地竜の討伐証明を渡すと、受付の職員が奥へ引っ込む。

 しばらくして戻ってきた職員の手には、鍵のかかった小さな箱があった。


 中から取り出されたのは、拳ほどの大きさの宝石だった。

 光を受けて、青白く輝いている。

 厳重な包みから取り出されたそれを、マサキは無言で受け取った。


「ん」


 それだけ言って、マサキは宝石を持った手をリサの前に差し出す。


「……?」


 リサは、首をかしげた。

 差し出された意味が、すぐには分からなかった。


「やる。欲しかったんだよな……?」


 余計に分からなくなった。


(欲しかった……? 誰が……?)


 マサキは、リサの反応に戸惑ったように、視線を彷徨わせた。


「何のこと……?」


「宝石が欲しくて、パーティーに誘ったんだろ」


 あの日、S級討伐に誘ったときの自分の台詞を、頭の中でよみがえらせる。


『すごく綺麗な宝石が報酬なの。一緒に行こ?』


(あれは、あなたに受け取ってもらうための……)


 直接お礼を渡そうとしたら、絶対に断られる。

 だから、依頼の報酬という形にすれば…。

 そう思っていただけで、宝石そのものが欲しかったわけではなかった。


(え…でも危ないからって、パーティーは断ったよね。オレは行かないって言ったじゃん)


 口ごもるリサを見て、マサキの表情が、わずかに曇った。


(……え、これ、引いてる?)


 そもそも頼まれてもいない宝石を、いきなり女の子に差し出している。

 しかも相手は聖女様。

 冷静に考えれば、かなりおかしい。


(いや、かなりっていうか普通に気持ち悪いだろ)


(いきなり連れてこられて宝石押し付けてくるやつ、怖い。自分でやってて怖い)


 差し出した手が、少しだけ下がる。


 だが、ここで引っ込めたら引っ込めたで、今度は「やっぱりなんでもない」と宝石をしまう変な男になる。


(やらかした)


 マサキは宝石を持ったまま、逃げ場のない沈黙に耐えるしかなかった。

 そのとき、リサはようやく意味に気づいたらしい。


(あたしが宝石欲しがってると思って、S級討伐に1人で……?!)


 顔が、じわじわと赤くなっていく。


「あ、あたしのため、ってことぉ……?」


 その言い方に、マサキの指先がわずかに強張った。

 違う、と言おうとして、何が違うのか分からなくなる。


 この子が危ないクエストを受けずに済むなら、それでいいと思った。

 宝石を渡せば、少なくともこの子が無茶をする理由はなくなる。


 でも、それを「あたしのため」と言われると、たぶん違う。


「そういうわけじゃないけど」


 反射で否定した声は、自分でも少し苦しい気がした。


「じゃあ何ぃ?」


 マサキは、答えに詰まった。


(……なんだろう)


 言葉にしようとして、うまくまとまらない。


 自分が行けばこの子が危ない目に遭わずに宝石が手に入る。

 それは理屈であって、理由ではない気がした。


 結局、出てきたのは短い一言だった。


「理由はない」


「っ」


 リサの息が、一瞬止まった。

 その言葉は、差し出された宝石よりも重く、胸の奥へ落ちてきた。


 聖女と呼ばれるようになってから、「君のため」なんて言葉は何度も聞いてきた。


 聖女様のため。


 でも、そのたびにリサは、自分の前に差し出された言葉を受け取りながら、同じくらい何かを返さなければいけない気がしていた。


 もしここで、マサキが「キミのため」と言っていたら、きっと嬉しかったと思う。

 嬉しくて、照れて、たぶん今よりもっと顔が赤くなった。

 けれど同時に、その言葉は少しだけ重くなる。


 自分のために危ない依頼を受けた。

 自分のために宝石を持ってきた。

 自分のために、無茶をした。


 そう言われたら、リサはその気持ちを受け取らなければいけなくなる。

 どう返せばいいのか考えて、何を言えば傷つけないのか迷って、たぶん少しだけ困っていた。

 でも、マサキはそう言わなかった。


 理由はない、と言った。


 好かれたいからでもない。

 聖女の力を利用したいからでもない。

 感謝されたいからでも、格好つけたいからでもない。


 うまく説明できないまま、気づいたら動いていたみたいに。

 それが、どうしようもなく胸に響いた。


(……なにそれ)


 リサは、宝石を見ているはずなのに、視線がうまく定まらなかった。


(かっこよすぎない……?)


 理由がないのに、ここまでしてくれた。


 あたしのためだとは認めないくせに、あたしが宝石を欲しがってると思って、あたしが危ない目に遭わないように、ひとりでS級の依頼を受けて、宝石を差し出してきた。


 リサは、差し出された宝石を見つめた。


 売れば、大きなお金になるものだ。

 低い依頼ばかり受けているこの人なら、なおさら手元に残した方がいいに決まっている。

 それなのに、マサキは少しも自分のものにする顔をしていない。


 本当は、この人にもらってほしかった。

 自分が直接お礼を渡しても、きっと受け取ってくれない。

 だから、クエストの報酬という形なら、この人が自分で稼いだものとして受け取れると思った。


 そのはずだったのに。


「……もらって、いいの?」


「欲しかったんだろ」


 返ってきた答えは、やっぱり少しずれていた。


 リサは宝石へ手を伸ばす。

 指先が触れた瞬間、その重さに小さく息を呑んだ。


 突き返したら、マサキがここまでしてくれたことまで否定してしまう気がした。


「じゃあ……これは、あたしが」


 リサは両手で宝石を包み込むように持つ。

 それから、目元をゆるめてふにゃっと笑った。


「大事にする」


 ◇


 # 後日談 『聖女様はお礼がしたい』


 朝、扉を叩く音で目が覚めた。


 マサキは薄い毛布の中で目を開け、板張りの天井をぼんやり見上げる。街外れの古い家の二階を、月いくらで借りているだけの狭い部屋だった。ベッドと小さな机を置けば、それだけでほとんど埋まる。


「マサキくーん、起きてるー?」


 起き上がりかけた姿勢のまま、マサキは固まった。聞き間違えるはずがない。昨日、宝石を渡した聖女様の声だった。


「開けるねー」


「開けるな」


 反射で返すと、扉の向こうでくすっと笑う声が漏れた。


「起きてるじゃん」


 まだ朝だ。頭が回らない。回らないままでも、これだけは分かる。聖女様が、底辺冒険者の間借り部屋の扉の前にいる。


「……何しに来た」


「宝石のお礼」


「いらない」


 反射で返した直後、扉の向こうが静かになった。さっきまで少し弾んでいた声が、ふっと途切れる。


「……迷惑?」


 小さな声だった。扉越しだから表情は見えない。見えないせいで、マサキの頭の中では勝手に最悪の想像だけが膨らんでいく。


(……言い方)


 傷つけるつもりはなかった。ただ、聖女様が朝から自分の部屋に来て、宝石のお礼をすると言い出したから、どう返せばいいのか分からなかっただけだ。それなのに、出てきた言葉は「いらない」だった。


(最低だ)


 マサキは小さく息を吐き、結局、扉の取っ手に手をかける。


(泣いてたらどうしよう……)


 そう思いながら開けると、朝の光の中にリサが立っていた。白を基調にした軽い外套に、動きやすそうな短めのスカート。肩には大きめの鞄を提げている。


 目が合った瞬間、リサの顔がぱっと明るくなった。


「開けてくれたー」


 さっきの弱々しい声が嘘みたいに嬉しそうで、目元がゆるみ、口元がふにゃっとほどける。マサキは取っ手を掴んだまま固まり、扉を閉めるタイミングを完全に失った。


 リサは何のためらいもなく部屋へ入ってくる。


 ベッド。小さな机。椅子が一つ。壁に立てかけた剣。畳んだつもりで畳めていない服が、部屋の隅に少しだけ積まれている。


 リサの視線がそこへ吸い寄せられた。


「これ、洗うやつ?」


「……まぁ」


「じゃあ洗っちゃうね」


「やらなくていい」


「やる」


 マサキが止めるより早く、リサは服の山へしゃがみ込んだ。反射的に手を伸ばしかけて、途中で止まる。肩か、腕か。どこを掴めばいいのか分からず、結局何もできなかった。


「……自分でやる」


「もー、こんなに溜め込んで。仕方ないなぁ」


 リサは楽しそうに服を仕分け始める。汗で汚れたシャツも、討伐で土がついた外套も、まるで宝物を扱うみたいに丁寧に拾い上げていく。


「……汚いから」


 リサはきょとんとして、それから少しだけ困ったように笑った。


「だから洗うの」


 宝石のお礼。その言葉を盾にして、聖女様が洗濯をしようとしている。


(許されるわけがない……)


 ◇


 洗濯が終わると、リサは当然のように小さな調理台に立っていた。簡易台所なので鍋も火口も最低限しかないが、袖をまくったリサは手慣れた様子で肉と野菜を刻んでいく。


 自分の部屋。自分の洗濯物。自分のご飯。そこに聖女様が入り込んで、当たり前みたいに動いている。


「マサキくん、座ってていいよ」


「いや……」


(聖女様って、料理できるのか……?)


 意外と危なげない。包丁を持つ指も、鍋を覗き込む横顔も、普通に家のことができる女の子に見えた。部屋が狭いせいで、動くたびに距離が近い。すれ違おうとすると肩が触れそうになり、マサキの方だけが毎回半歩下がる。


「なにその動き」


 リサはずっと楽しそうだった。


 やがて鍋から肉と野菜の匂いが立ち上り、リサは器にスープをよそって机へ置いた。


「はい、どうぞ」


「……どうも」


 湯気が立っている。ちゃんとしたご飯だった。いつもなら硬いパンを水で流し込むか、依頼の帰りに適当な屋台で済ませる。誰かの手作りなんて、何年ぶりだろうか。


 一口、口に運ぶ。


「……」


 普通に美味かった。もう一口食べると、リサが机の向こうからじっと見ている。


「……なに」


「んー……どうかなって」


「……美味い」


 リサの顔がぱっと明るくなり、小さく両手を握った。


「やった」


(……そんなに喜ぶことか)


 ただ、スープが美味いと言っただけだ。それだけなのに、リサは宝石をもらったときみたいな表情をする。


 ◇


「じゃあ、部屋掃除するね」


「いや、待って」


 リサは首をかしげる。


「さすがに、悪いから……」


「洗濯物、乾くまで時間かかるし」


「……」


 完全に居座る気だった。


(……押しかけ女房かよ)


 浮かんだ言葉に、マサキは自分で固まる。


(違う違う違う違う)


 女房ではない。聖女様だ。これ以上はダメだ、勘違いしそうになる。止めさせないと。


 リサは、ベッドの下を掃除しようと、雑巾を片手に迷わずその場に四つん這いになった。両手と両膝を床につき、頭からベッドの下へ潜り込むような姿勢。


(待て、聖女様に床這わせるとか)


 マサキは慌てて止めようとして、リサの真後ろにしゃがみ込む。位置が悪かった。しゃがんだ先、目の前にあったのは、リサの下半身だった。

 短いスカートは、四つん這いの姿勢のせいで、大きくずり上がっている。裾は腰のあたりまでめくれ上がり、太ももどころか、下着まで丸見えになっていた。視界の隅で、淡いピンクの色だけが焼き付く。


(……)


 息が、喉の途中で止まった。


(見るな、見るな見るな見るな)


 頭の中で、同じ言葉だけがぐるぐる回る。なのに、身体はまるで言うことを聞かなかった。


「よし、届いた」


 満足げな声とともに、リサが上体を起こそうと、そのまま後ろへ下がる。避ける間もなかった。


 ぼふっ。


 柔らかい圧が、マサキの顔に、そのままめり込んだ。押し付けられた重みは、思ったよりもずっしりとしていて、それでいて弾力がある。布越しの熱が、じんわりと肌に伝わってくる。


「んぐっ……!」


 くぐもった声しか出せない。押し返そうにも、腕の置き場がなかった。変に動けば共倒れになる。


「……?」


 リサは、お尻に当たった何かの正体が、すぐには分からなかった。体勢を立て直そうと、もぞりと腰の位置をずらす。


 むにゅっ。


 その動きに合わせて、重みが少しだけ横へ滑った。頬から鼻先へ、圧のかかる場所が移動していく。

 視界を塞がれたまま、マサキは動けなかった。密着したまま、数秒。


「あ……!」


 ようやく気づいたらしく、リサが弾かれたように両手を床につき、腰を浮かせた。膝立ちのまま、頬を赤くして裾を摘む。


「ご、ごめんね。ぶつかっちゃった……」


 もたつく指先で、裾を腰の位置から膝の方へ、慌てて引き下ろす。マサキは床に座り込んだまま、しばらく声が出なかった。

 謝られる意味を、頭の中で処理しきれない。顔に当たった感触も、見えたものも、全部一緒くたになって、うまく言葉にならなかった。


「……いや」


 それだけ絞り出すのが、精一杯だった。視線を逸らした先で、リサがまだ膝立ちのまま部屋の隅へ手を伸ばそうとしているのが見えた。


「聖女様が、そんなことしなくていい」


 リサの手が止まる。責めるような顔ではなく、ただ不思議そうにマサキを見ていた。


「いいじゃん、やらせてよ」


 なんで、と思う。聖女様が、底辺冒険者の狭い部屋で洗濯をして、料理をして、掃除までしようとしている。そんなのは、おかしい。


「オレなんかのために……」


 言った瞬間、リサの表情が少しだけ変わった。笑っているのに、さっきまでの楽しそうな笑い方とは違っていた。


「そんなつもりじゃないし」


 声は明るい。けれど、どこか拗ねたようにも聞こえる。


「……じゃあ、何」


 自分で聞いておいて、答えを聞くのが怖かった。宝石のお礼。それは分かる。けれど、それだけでここまでするのは、どう考えてもおかしい。


 リサは少しだけ首を傾げた。


 それから、昨日のマサキの言葉をそのまま返すみたいに、ふにゃっと笑う。


「理由はない」


 マサキは固まった。

 その一言が、妙にまっすぐ胸に刺さる。


 『ため』じゃない。自分がやればいいと思っただけ。何も返さなくていい。そのくらいの顔で、リサもマサキの部屋に立っている。


 狭い。落ち着かない。心臓に悪い。


 それなのに、嫌ではなかった。


 リサは部屋の中を動き始める。狭いせいで、すれ違うたびに肩が触れそうになり、そのたびにマサキだけが半歩下がる。


「マサキくん、これどこ置くの?」


「……その箱」


「こっち?」


「そっちじゃない。あ、いや、そこでもいい」


「なにそれー」


 また、ふにゃっと笑う。


 昼の光が、窓の隙間から細く差し込んでいる。昨日まで、そこには何もなかった。ベッドと机と、剣と、畳みきれていない服だけの部屋だった。


 誰にも気を遣わなくてよくて、誰にも失望されなくてよくて、それで十分だと思っていた。


 なのに今は、楽しそうに動き回る聖女様の声がある。


 マサキは小さく息を吐いた。


(……なんでだよ)


 理由はない。

 はずだったのに、一緒にいたいという気持ちだけが、静かに残っていた。

この短編は、連載中の『距離感ゼロの如月さんと自己評価ゼロのオレ』の異世界パロディです。

良かったら本編も見てね~♥(・v・)

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