悪役令嬢の完璧な断罪シーンに大根役者は不要です! ~断罪される側ですが、周囲の演技指導を始めました~
王太子アレクシス殿下に呼び出され、聖女ミレイユと三人でお茶をしていた午後のことだった。
春の陽射しはやわらかく、銀のティーセットは上品に光り、焼き菓子も申し分ない。
ただし、空気は最悪だった。
王太子。
聖女。
そして、王太子の婚約者である悪役令嬢。
この三人が同じ席についている時点で、穏やかな茶会になるはずがない。
その最悪な空気の中、殿下は何度も口を開いた。
「あの、その……」
言葉はそこで止まる。
殿下は気まずそうに視線を落とし、やがて懐から一枚の紙を取り出した。
どう見ても正式な書状ではない。
言うべきことをまとめた覚え書きだ。
殿下は紙を一度見て、顔を上げた。
そして、意を決した。
「セラフィーナ、君との婚約を破棄――」
そこまで言ったところで、殿下は手元の紙を落とした。
「あっ」
向かいに座っていたミレイユが慌てて拾おうとし、ティーカップに袖をぶつける。
お茶がテーブルクロスへ広がり、侍女が急いで布巾を取りに動き、殿下は「大丈夫か」と立ち上がり――椅子の脚に足を引っかけて、見事にこけた。
私は静かに悟った。
これは、いけませんわね。
つい先ほど、東方の緑茶の香りで前世を思い出したばかりの私には分かる。
ここは、前世で夢中になって読んだ恋愛小説『聖女は夜明けの鐘を鳴らす』、略して『よあ鐘』の世界。
私はその物語の悪役令嬢、セラフィーナ・エヴァレット。
そして前世の私は、舞台女優であり、演出も兼ねる女だった。
原作終盤、卒業記念舞踏会での断罪シーンは芸術だった。
王太子は静かに婚約破棄を宣言し、聖女は涙をこらえ、悪役令嬢は最後まで気高く立って、ただ一言。
「ごきげんよう」
それだけを残して去っていく。
なんて美しい。
なんて気高い。
断罪される側こそ、最も美しくなければならないのだ。
だからこそ、断罪する側にも相応の格が必要だった。
それなのに現実はどうだ。
王太子はこける。
聖女はお茶をこぼす。
二人とも想像以上に頼りなく、妙にお人よしっぽい。
「卒業記念舞踏会でいきなり告げるより、先に君の心の準備をと思ったんだ」
「そのお心遣いで、紙を落として、聖女様にお茶をこぼさせ、殿下ご自身は転倒なさったと」
「……面目ない」
口を挟んだのは、ミレイユだった。
「あ、あの……先にセラフィーナ様へお伝えした方がいいと思ったんです。いきなり大勢の前で告げられるなんて、あまりにおつらいでしょうから……。ただ、殿下も緊張なさっていて、その……少し、うまくいかなかっただけで……」
なんとかその場を取り繕おうとして、ミレイユは半泣きだった。
小説の中の殿下は、もっと静かで、もっと決意に満ちていて、もっと「王子」だったはずだ。
物語の中なら、多少強引な展開でも読めてしまう。
けれど現実として目の前に出されると、無理がある。
どうやらこの世界は、登場人物に役割だけを押しつけて、細かい演出を放棄しているらしい。
王子は婚約破棄を言う役。
聖女は守られる役。
私は断罪されて去る役。
けれど、役割があるならなおさら、演出が雑でいい理由にはならない。
胸の奥で、前世の舞台女優の勘が騒いだ。
こんな走り書きの紙一枚で。
稽古もなしに。
声の出し方も。
立ち位置も。
相手を見るタイミングも整えずに。
「台本もなしに?」
「……」
「稽古もなしに?」
「……」
「段取りもなしに?」
「……」
「間の取り方も考えずに?」
「……」
「論外ですわ」
私は額に手を当てた。
これでは断罪ではない。
学芸会ですらない。
ただの事故である。
このまま今日の件を終わらせて、卒業記念舞踏会の本番を迎えさせるわけにはいかない。
「殿下」
「な、何だ」
「一度、仕切り直しましょう」
「仕切り直す?」
「ええ。ここから先は、すべてわたくしにお任せくださいませ」
◇
その夜、私は上質な紙に書きつけた。
『卒業記念舞踏会における断罪進行案』
最初に婚約破棄。
次に罪状。
その後、証言。
観衆のざわめき。
そして最後に、悪役令嬢の誇り高い退場。
どこで息を止めさせ、どこで視線を集め、どこで場を奪い返すか。
そこが肝心なのだ。
「よろしい。断罪の日まで、まだ時間はありますわね」
私は書き上げた進行案を見下ろし、満足して頷いた。
「明日から、配役指導に入ります」
◇
原作を思い返す。
卒業記念舞踏会で最初に証言するのは、宰相の息子ルーファス・グレンだった。
つまり、最初に鍛えるべきは彼である。
「せ、セラフィーナ様!?」
「ごきげんよう。断罪の件で参りました」
「だん、ざいの、けん」
「ええ。あなたが最初の証言役でしょう。ですから、指導に参りました」
ルーファスの顔が引きつった。
「ご自分の断罪を、ご自分で指導なさるのですか?」
「ええ。出来の悪い断罪で退場するなど、悪役令嬢の名折れですもの」
ルーファスは明らかに困惑していた。
けれど根が真面目なのだろう。
役割を示され、台本を渡されると、断るより先に姿勢を正してしまった。
「……分かりました。やるからには、きちんと務めます」
ルーファスは、真面目すぎるほど真面目な顔で立ち上がった。
だが、いざ口を開くと声が完全に泳いでいた。
「ぼ、僕は見ました……セラフィーナ様が、その、ミレイユ嬢の参考書を破っていたのを……」
「弱い」
「そんなことを言われましても」
「一言目から弱すぎます」
私はきっぱり告げた。
「あなたの一声目の『見ました!』が弱ければ、会場の空気が立ちません。断罪は空気で半分決まります」
「は、はい」
「それと、事実は少し違いますわ。わたくしは参考書を破っておりません。破れて落ちていたものを拾い上げただけです」
「では、私は見間違いを……?」
「見たものは合っています。ただ、意味を取り違えただけですわ。実際、わたくしはミレイユ様に嫌味も牽制もいたしました。けれど、本を粗末にするような真似はいたしません」
「しかし、それでは嘘の証言に……」
「そこは困りますわね」
私は少し考え、台本にさらさらと書き足した。
「では、こうです。『私は見ました。セラフィーナ様が、破れたミレイユ嬢の参考書を手にしていたのを』」
「たしかに、そうですが……」
「ええ。事実の範囲で、十分に伝わります」
「まるで破ったかのように?」
「ですが、嘘は言っておりませんわ」
ルーファスは納得したような、さらに混乱したような顔をした。
けれど結局、真面目に台本へ目を落とす。
三十分後。
「私は見ました! セラフィーナ様が、破れたミレイユ嬢の参考書を手にしていたのを!」
最初より明らかに熱が入っている。
片手を前に出す身振りまでついた。
よし。使える。
ようやく一区切りついたところで、私は机上の書類へ目を落とした。
「街道修繕の件、滞っておりますの?」
「え? あ、はい。父が、街道整備の予算配分で頭を抱えていて……」
「全面を一度に直そうとするから高くなるのです。崩れかけた区間だけ先に補強なさい。見た目は後回し。今必要なのは、美観ではなく荷車が沈まないことでしょう?」
「……そうです」
「では、優先順位を変えるだけですわ。我が公爵家から石材商と土木方に声をかけておきます」
「公爵家が?」
「ええ。断罪本番までに憂いを残されては困りますもの」
数日後、街道修繕は動き出した。
「どうしてそこまで……」
「期待しているからです」
「期待?」
「あなたには、場を支える脇役としての素質がありますわ」
「脇役」
「舞台は主役だけでは成立しません。良い脇役がいてこそ、断罪は締まるのです」
「それは褒められているのでしょうか……?」
「もちろんですわ」
ルーファスは、助かった安堵と、断罪相手に助けられている混乱と、嘘ではないのに気まずい証言をする戸惑いで、うっすら涙目になった。
◇
二人目は騎士団長の息子、オーウェン。
「礼拝堂で祈っていたミレイユ嬢を、セラフィーナ様の侍女がしばらく閉じ込めていたのを、僕は見た」
「悪くありません。ただし、閉じ込めていたは違います」
「え。違うの?」
「礼拝堂の鍵が壊れて開かなかったので、手先の器用な侍女に直させていただけですわ。少し時間はかかったようですが」
「……じゃあ、僕の受け取り違いか」
「その場面に限っては」
私は台本にさらさらと書き足した。
「こうです。『私は見ました。礼拝堂で祈っていたミレイユ嬢を、セラフィーナ様の侍女がしばらくそのままにしていたのを』」
「それ、聞く側が勝手に想像しないか?」
「してくださいますわ」
「悪役令嬢だな」
「悪役令嬢ですもの」
オーウェンは台詞回し自体は悪くなかった。
声も通るし、間も取れる。
問題は、表情だった。
「あなたの最大の欠点は、表情です」
「……やっぱり分かる?」
「分かりますわ」
「僕、緊張すると笑ってしまうんだ」
「最悪ですわね」
「結構言うな」
「悪役令嬢ですから」
私は彼を見た。
「ですが、直したいなら協力いたします」
「……君、本当に悪役令嬢か?」
「悪役令嬢でなければ、何ですの?」
まず、笑いそうになったら、息を止めない。
奥歯を軽く噛み、息を鼻から細く逃がす。
視線は相手の肩口へ落とす。
笑いを隠すのではなく、怒りをこらえている顔に変えるのだ。
「断罪中に笑う正義の味方など、かなり不快です」
「容赦ないな」
「本番であなたが嫌な人に見えたら、舞台が壊れます」
何度か繰り返したあと、彼がぽつりと言った。
「妹が来年入学するんだ。気が弱くてね」
「寮ですの?」
「そう。部屋割りが不安らしくて」
「では寮監に話を通しておきます。相性の良い子と同室にしておきましょう」
「えっ」
「もし何かあれば、わたくしの名を出しなさいと伝えてください」
「悪役令嬢の名を?」
「効きますわよ。悪役令嬢ですから」
オーウェンは妙な顔で笑った。
「……思っていた人と違うな」
「何がですの」
「悪役令嬢って、もっと問題を増やす側かと」
「本来はそうですわよ」
「本来は?」
「今は本番前ですもの。舞台を乱す要素は減らします」
◇
三人目は聖女ミレイユ。
小礼拝堂の控え室で会った彼女は、私を見るなり肩を震わせた。
「本日は、断罪シーンの件で」
「し、シーン」
「まず確認します。あなたはわたくしから殿下を奪おうとして近づいたわけではありませんね?」
「もちろんです! 私はただ、務めを果たしていただけで……」
原作通り。
善良で、不器用だ。
「あなたに必要なのは、勝者の余裕ではありません。傷つきながらも真実を語る覚悟です」
「か、覚悟」
「涙は一粒まで」
「一粒」
「二粒目からは演出過多です」
私は台詞を渡した。
「わ、わたしは皆さまと仲良くしたかっただけなのです……ですが、セラフィーナ様は、こ……怖い顔をなさって……っ」
「今の言い方では伝わりません」
「す、すみません」
「そこで謝らない」
「すみま……あっ」
駄目だ。
善良すぎる。
しかも何度やっても演技が揺れる。
私は首を傾げた。
「恐怖だけではありませんわね。何か別のことで気を取られているでしょう」
ミレイユは迷ったあと、小さな声で言った。
「……私が育った孤児院が、このままでは今年中に立ち行かなくなるかもしれなくて」
「まあ」
「寄付先がなくなって、修繕費も食費も足りないんです。でも聖女になったばかりの私が、あそこだけ助けてほしいなんて言えなくて……」
私はため息をついた。
「あなた、そういうことはもっと早く言いなさいませ」
「申し訳ございません……」
「謝罪ではなく報告です。必要なのは」
孤児院の場所、人数、困っている内容を確認し、実務用の手帳を開く。
「屋根は応急修繕で足ります。食糧は、王都の商会で売り物にしづらい小さな果物や形の悪い野菜を買い上げさせればよろしい。味は変わりませんもの」
「え……」
「公爵家の名で職人を動かします。商会には余剰品を回させます。聖堂には、孤児院支援を慈善事業の一環として通します」
「そ、そんなことまで……」
「できますわ。公爵家ですもの」
私はミレイユをまっすぐ見た。
「孤児院のことはわたくしに任せなさい。あなたはここで、あなたの役目を果たすのです」
「……はいっ」
三日後、孤児院の修繕は始まり、食糧も日用品も届いた。
その後のミレイユは、どうも様子がおかしくなった。
何度目かの稽古で、彼女の演技がようやく良くなった。
「わたしは……皆さまと仲良くしたかっただけなのです……」
怯えではない。
責めでもない。
傷ついて、それでも相手を憎み切れない演技だった。
私は思わず、ふっと笑った。
「今のは、とても良かったですわ」
その瞬間、ミレイユは目を見開いた。
そして、なぜか頬を薔薇色に染める。
「……い、今の……」
「何がですの」
「微笑みが……とても……」
彼女は胸の前で両手を組み合わせた。
「尊……」
小さく呟いたあと、すっと十字を切る。
「何をなさっているの」
「い、いえ、その……祈りを……」
「なぜそこで祈るのです」
「尊いものを前にすると、つい……」
「ミレイユ様。そこは祈る場面ではありませんわ。泣く場面です」
「は、はいっ!」
それ以降、なぜか彼女は、
「セラフィーナ様、もう一度あの微笑みを」
「練習しなさい」
「セラフィーナ様、立ち位置を直していただいても?」
「構いませんわ」
「セラフィーナ様、もっと稽古をつけてくださいませ」
「随分と熱心ですわね」
と、妙に一緒にいたがるようになった。
方向はおかしいが、演技の精度が上がるなら問題ない。
◇
最後は、王太子アレクシス殿下。
正直、少し気が重かった。
前世を思い出したとはいえ、私はセラフィーナのままだ。
好きになった相手に断罪され、その人の前から去るのだと分かっていて、何も思わないはずがない。
それでも、舞台は仕上げなければならない。
温室で待っていた殿下は、私を見るなり言った。
「ルーファスとオーウェンとミレイユ嬢から話は聞いている」
「そうでしょうね」
「私のところにも来ると思っていた」
「逃げようかとも思いました」
「君が?」
「ええ。殿下相手の演出指導は最難関ですもの」
私は台本を差し出した。
「殿下の問題は二つです。一つ、優しすぎる。二つ、迷いが顔に出すぎる」
「迷い?」
「ええ。『つらい』『できることなら婚約解消したくない』『だが言わねばならない』が全部お顔に出ています」
「それは……」
「その顔では、観客は罪状より先に『悪役令嬢が可哀想』と思ってしまいます」
「可哀想ではないのか」
「可哀想です。ですが、美しくなければ意味がありません」
殿下は黙り込んだ。
「……私は、いつもそうだな」
「何がですの」
「決めきれない。傷つけたくないと思って、結局いちばん中途半端な形にする」
彼は視線を落とした。
「やはり私は、王太子の器ではないのかもしれない」
「何を馬鹿なことを」
「父上ほど決断力もなく、歴代の王太子たちほど華もない。何一つ抜きん出ていない」
私は静かに言った。
「ですが、あなたは見る目がありますわ」
「……何?」
「実際、ミレイユ様はいい方ですし、ご友人にも恵まれておられる。あなたはそういうものをちゃんと見ておいででしょう」
「それは……」
「それに、わたくしが悪役令嬢だと分かっていらっしゃる」
「自分で言うのか」
「事実ですもの」
私は続けた。
「見る目のない方なら、ミレイユ様の善良さにも、ご友人たちの誠実さにも気づきませんわ」
「だが、私は迷ってばかりだ」
「それも、人を見ているからこそでしょう。
何も見ていない方なら、迷いすらしません」
「迷っていることまで褒めるのか」
「褒めてはおりません。事実を述べているだけです」
殿下は苦く笑った。
「君に励まされる日が来るとは思わなかった」
「励ましたつもりはありませんわ。あと、全部できないことを嘆く必要はありません」
「では、どうしろと?」
「足りないものがあるなら、足りる者を隣に置けばよろしいのです。見る目とは、そのためにあるのでしょう」
「君は、私に見る目があると?」
「ええ」
私は少しだけ視線をそらした。
「わたくしが好きになった方ですもの。そのくらいの目はお持ちでしょう」
殿下が息を止めた。
それから台本を見下ろし、もう一度、婚約破棄の台詞を読み上げた。
今度の声は、少しだけ落ち着いていた。
◇
卒業記念舞踏会の前々日。
王宮の小応接間には、妙に重い沈黙が落ちていた。
「……で、結局、本当にやるのですか」
オーウェンが言った。
「私は、もうやらなくてもよいのではと思っております」
ルーファスが視線を伏せる。
「私もだ」
アレクシス殿下が低く言った。
「少なくとも、彼女を悪役だからの一言で片づけてよい相手ではないと分かった」
ミレイユも小さく頷く。
「わ、わたしも……本当は、したくありません」
「だよなあ……」
「でも本人が一番やる気なんだよな」
「断罪とは芸術、だそうです」
全員が黙った。
「やっぱりやめたいって、言えますか?」
オーウェンの問いに、誰も答えない。
やがて殿下が額を押さえた。
「言ったところで、理詰めされ、説得され、さらに完璧な進行表を持って来そうだ」
「それは持って来ます。セラフィーナ様は完璧ですから」
ミレイユがなぜか誇らしげに言った。
「ずいぶん分かったような口をきくな、ミレイユ嬢」
「少なくとも、殿下よりはセラフィーナ様を存じ上げております」
「……何?」
「殿下は、あの美しい微笑みをご覧になったことがありますか?」
「微笑み?」
「ないのですね。お気の毒に……」
「それは自慢か?」
「はい。自慢です」
「お二人とも、何の話をしているのですか」
オーウェンが呆れたようにきっぱり言った。
だが、結局、誰も止めるとは言い出せなかった。
もう誰も、本気でセラフィーナを追い落としたいと思っていない。
それでも、卒業記念舞踏会へ向かう流れだけは止まらなかった。
まるで物語そのものが、幕を上げろと急かしているようだった。
ならばせめて、半端な役者で終わるわけにはいかなかった。
◇
そして迎えた卒業記念舞踏会。
大広間は眩く、音楽は高く、衣装は花のように揺れていた。
何かが起きる。
誰もがそう思わずにはいられない夜だった。
完璧だ。
やがて音楽が止み、アレクシス殿下が立ち上がる。
「セラフィーナ・エヴァレット」
よし。声、良し。
私は前へ進み、立ち止まった。
「何か、御用でしょうか。殿下」
「私は今ここで、君との婚約破棄について告げる」
空気が震えた。
いい。とてもいい。
「君はこれまで、聖女ミレイユに対し、たびたび厳しい言葉を向け、その活動や学友との関わりを妨げた」
ルーファスが進み出る。
「私は見ました! セラフィーナ様が、破れたミレイユ嬢の参考書を手にしていたのを!」
声量、十分。
オーウェンも続く。
「私は見ました。礼拝堂に閉じ込められたミレイユ嬢を、セラフィーナ様の侍女がしばらくそのままにしていたのを」
笑っていない。よし。
そしてミレイユ。
「わたしは……皆さまと仲良くしたかっただけなのです……ですが、セラフィーナ様は、わたしが殿下にお声をかけられるたび、怖い顔をなさって……っ」
一粒。
完璧な一粒の涙が落ちた。
その後も、断罪は滞りなく進んだ。
罪状は短く。
証言は過不足なく。
観衆のどよめきは、予定したところで起こり、予定したところで静まる。
よろしい。
観衆も、舞台も、完全にこちらの手の内だ。
私は心の中で頷いた。
完璧ですわ。
広間は静まり返っていた。
誰も咳払いひとつしない。
誰も目を逸らさない。
素晴らしい。
私は敗者として立っていた。
けれど、不思議と敗北した気はしなかった。
私は息を吸う。
最後の台詞のために。
「――ごきげんよう」
声は、驚くほどよく通った。
私はゆっくりと膝を折り、完璧な一礼をした。
謝罪ではない。
許しを乞うためでもない。
敗北を受け入れ、それでも誇りを手放さない者の礼だった。
そして私は踵を返す。
広間は、まだ静まり返っていた。
誰も王太子を見ていない。
誰も聖女を見ていない。
人々の視線は、去っていく私の背に吸い寄せられていた。
断罪された令嬢の背中。
すべてを失ったはずの悪役令嬢の、揺るぎない矜持。
その美しさに、誰も声を出せなかった。
これで幕は下りる。
そう思い、私はそのまま歩き出した。
「……やっぱり駄目だ」
静寂の中、殿下の声だけが落ちた。
「待ってくれ、セラフィーナ」
予定にない引き留めだった。
私は足を止め、振り返る。
「……何か」
殿下は私を見ていた。
断罪を言い渡した勝者の顔ではなかった。
「最初は、婚約を破棄するつもりでいた。君は悪役令嬢で、断罪され、去っていく。それが当然なのだと、なぜかわからないがそう思っていた」
「なぜか、ですの?」
「ああ。そういう流れなのだと。そういうものなのだと、疑いもしなかった」
殿下は息を吐いた。
「だが、この数日で分からなくなった」
「何がですの」
「君を、悪役という一言だけで終わらせていいのか、だ」
会場が静まり返る。
「君は、僕に見る目があると言ってくれた」
「言いましたわね」
「だったら、今度こそ自分の目で見たい」
「何を、ですの?」
「君をだ」
それは整った言葉ではなかった。
けれど、不格好なぶんだけ真実味があった。
「君は、悪役として去る準備をしながら、誰より周りを立たせていた」
「断罪とは芸術ですもの」
「ああ。だから僕は、君を悪役令嬢という役名だけで片づけたくなくなった」
殿下は一歩近づいた。
「私は、君のことをよく知らなかった」
「……」
「だから、もっと知りたい」
そこで彼は、少しだけ苦く笑った。
「君は以前、足りないものがあるなら、足りる者を隣に置けばいいと言っただろう」
「ええ」
「なら私は、君に隣にいてほしい。私に足りないものを補ってほしい。間違えたときは叱ってほしい。迷ったときは、今のように目を覚まさせてほしい」
殿下の声は、少しだけ震えていた。
「けれど、それは王太子として必要だからだけではない」
殿下は、まっすぐ私を見た。
「君が何を見て、何を選び、何に怒って、何を美しいと思うのか。それを、隣で見てみたい」
「それで?」
「その隣に立つ機会を、もう一度だけもらいたい」
私は少し黙った。
台本にはない。
段取りにもない。
間の取り方も、決して上手くはない。
けれど。
悪くない台詞だった。
「セラフィーナ様……」
そう呼んだのはミレイユだった。
彼女は殿下より先に前へ出た。
しかも勢い余って、殿下の足を踏んでいた。
「ミレイユ嬢」
「あっ、申し訳ございません、殿下……!」
謝りながらも、彼女の視線は私から離れない。
……足を踏んだままですわよ。
「ありがとうございます……っ」
「何に対してかしら」
「たくさんありすぎて、まとまりません……でも、わたし、今日ちゃんと立てました。孤児院のことも、わたくし自身のことも、全部……セラフィーナ様が見てくださったからで……っ」
彼女はうるんだ瞳をなぜかうっとりとさせた。
「その……もしご迷惑でなければ」
「何かしら」
「お姉様と、お呼びしてもよろしいでしょうか」
「何がどうしてそうなりましたの」
会場がざわつく。
ルーファスが肩を震わせ、オーウェンは顔を背けて笑いをこらえている。
殿下まで呆れた顔をした。
「だ、だめでしょうか……?」
「だめかどうか以前に、話の流れがおかしいのです」
「でも、今日いちばん美しかったのはセラフィーナ様だと思います……!」
「それを今ここで言わないでくださいまし」
頬が少し熱くなったが、もちろん泣きはしない。
悪役令嬢は最後まで美しくあるべきだ。
私は背筋を伸ばし、扇を閉じた。
「殿下」
「何だ」
「もっと知りたいとおっしゃるのでしたら」
「ああ」
「次は、もっと演じごたえのある舞台をご用意なさって?」
「……善処しよう」
「善処では困りますわ」
「では、必ず」
「ええ。そのくらいはなさってくださいませ」
私は今度こそ踵を返す。
唇には、悪役令嬢らしい不敵な笑みが浮かんでいた。
完璧な断罪シーンは、最後の最後で台本どおりではなくなった。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
背後では、なおもミレイユの声が聞こえる。
「せ、セラフィーナお姉様……本当に、今日の一礼、目に焼き付けました……」
「セラフィーナは、まだお姉様と呼ぶことを許可していないぞ、ミレイユ嬢」
「……殿下」
「何だ」
「お静かに。今だけは、余韻に浸らせてくださいまし」
「私が叱られるのか?」
張りつめていた静寂の端から、小さな笑いがこぼれていった。
後に王都ではこう噂された。
卒業記念舞踏会で、悪役令嬢は完璧な断罪劇を作り上げた。
けれどその日、最も鮮やかに人々の記憶へ残ったのは、罪を告げた王太子でも、涙を流した聖女でもない。
断罪されるために舞台を整え、
証人を立たせ、
王太子に「隣にいてほしい」と言わせ、
聖女を自分の推しに変え、
人の悩みまで片づけて去っていった、
ひとりの悪役令嬢だった。
なお聖女ミレイユはその後しばらく、彼女の一礼について語るたびに十字を切ったという。




