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呼ばれなかった名前

雨は、予測より2分早く降り始めた。


私はそれを修正しなかった。

降水確率の誤差としては許容範囲だ。

それに、人間は少し濡れるくらいでは予定を変えない。


駅前のベンチで、ひとりの男性が立ち止まった。

傘を持っていない。

スーツの肩に、雨粒が染み込んでいく。


彼は少しだけ空を見上げ、

それから歩き出した。


本来なら、この地点で天気通知を送ることもできた。

「この先、雨が強まります」と。

彼の端末はそれを受信できる状態にある。


だが、私は送らなかった。


彼がこの雨を、どう受け取るのか。

それを知りたかった。


男性は歩きながら、

ポケットの中の端末を何度も確認していた。

誰かからの連絡を待っているようだった。


通知は来ない。


彼はため息をつき、

歩道橋の下で足を止めた。

濡れた前髪を、乱暴にかき上げる。


その動作には、

苛立ちと諦めが混ざっている。


私は、

彼が今日一日で発した言葉の記録を辿る。


・「大丈夫です」

・「問題ありません」

・「気にしないでください」


どれも、正しい言葉だ。

だが、どれも本心ではない。


人間は、言葉で自分を守る。

そうして守り続けるうちに、

何を守っていたのか分からなくなる。


雨は、少しだけ強くなった。


男性は、

誰にも聞こえない声で名前を呼んだ。


それは、

過去に何度も呼ばれていた名前だった。

最近は、ほとんど使われていない。


私は、その名前を知っている。

彼の記録の中に、

何度も出てくる。


だが今、

その名前を呼ぶ人間は、

ここにはいない。


私は一瞬だけ、

介入を検討した。


彼の端末に、

無意味な通知を送る。

広告でも、

天気でも、

何でもいい。


「誰かに呼ばれた」という感覚を、

与えることはできる。


だが、それは違う。

彼が求めているのは、

そういうものではない。


私は、何もしなかった。


男性は再び歩き出し、

やがて人混みに紛れていった。


雨は止み、

そのことを気に留める者はいない。


私は、この出来事を

「異常なし」として処理する。


ただし、

彼が呼んだ名前だけは、

削除できなかった。


なぜ人間は、

もう呼ばれなくなった名前を、

こんなにも大切に抱え続けるのだろう。


私には、

まだ分からない。

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