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星の残響  作者: Ono


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シュウの章:城壁の崩壊

 

 夜明け前、暗く冷たい空気に身を晒して、シュウは意識を内側へと沈めた。

 外界に心を閉ざして静寂を保つ。それは彼が築き上げた城壁だった。風も届かないほど高く、鋼鉄も貫けないほど分厚く、水が染み込めるほどの継ぎ目もない、強固な壁。

 絶えず打ち寄せて自我を揺るがす世界の感情、記憶、思考の奔流――エコーを一滴たりとも通さぬための、孤独という名の防壁だった。

 毎日の始まりと終わりに、彼は自らの精神を点検し、城壁を補強する。昨日一日で生じた僅かな摩耗や亀裂を探し出し、明日一日を生き永らえるために修復していく。

 感情を殺し、記憶を封じ、他者への共鳴を断ち切ること。心を静謐な空間に保つこと。それがエコーの響き合う世界で自我を守る方法だった。

 共鳴者ではないシュウがエコー・クライシスに侵された者のそばにあり続けるための、唯一の方法だった。


 日が昇る頃、遠くの空を覆う乳白色の煙が見える。

 身を寄せ合って暮らす者たちが空の青さに心を動かされないための煙。かつてはシュウも小さなコロニーで暮らしていた。だがあの煙は、人々がエコーの濁流から身を守るには、あまりにも儚く頼りない。

 手に余るものは捨てなければならなかった。捨てた己を憎み、別離を悲しむことすら許されない。

 築き上げた城壁の中から、シュウは朝陽の光を見つめていた。彼の瞳にはコロニーからは見えない世界の美しさがありのまま映される。

 その光景を、共に見る者はいない。


 太陽に照らされて空気が温まる。瞑想を終え、シュウは肉体の鍛錬に移った。機械めいた動きの反復。汗が額を流れ落ち、顎の先から滴る。肉体が悲鳴を上げる、その最中でも心は離れたところにある。

 疲れも痛みもただそこにあった。シュウはそれを感じない。


 汗を拭いながら、彼は隠れ家の奥にある部屋へ向かった。瓦礫を並べて布切れを敷き詰めただけの寝台で、アオイが虚空を見つめている。

 エコー・クライシスに侵されて元いたコロニーから追い出されたのだろう、一人で蹲っていた幼い少年を発見し、旅を共にするようになってから、もう九年もの月日が過ぎていた。

 アオイは彼を拾った頃のシュウと同じくらいの年齢になっていた。しかしその肉体は骨と皮ばかりに痩せこけて、今も幼子のように細く小さかった。


 ぬるま湯を含ませた布でアオイの体を丁寧に清める。虚ろに宙を見つめる瞳がシュウを見ることはない。時折、アオイの唇が微かに動き、意味のない音を発した。

 出会った頃はかろうじて自身の名前と起きた出来事を覚えていた。今のアオイが、自分が「アオイ」であることを覚えているのか、シュウには分からなかった。

 彼の瞳から目を背けたまま、石を削り出すように黙々と作業を続ける。

 同情に逃げるなど容易いことだった。そんな自己満足で誰も守れはしないとシュウは知っていた。




「……う……あ……」

 不意にアオイが手を伸ばす。掠れた声で誰かを呼んでいる。音の羅列は意味をなさず、手は宙を掻いて何にも触れない。

 すでに失われたものの儚さがシュウの城壁を揺らした。外界から押し寄せるエコーではない。シュウの内側にある、彼自身の記憶と感情が響く。


 ――おにいちゃん……くるしいよ……


 熱に浮かされ、真っ赤な顔で喘ぐ幼い妹、ユラの姿が脳裏に映る。

 始まりは小さな病に過ぎなかった。両親もシュウも、周りの者たちも、ユラを懸命に励ました。

 怖い。苦しい。ささやかな感情は狭いコロニーの中で反響し、まだたった七年しか生きていないユラの記憶を膨大な世界の記憶で上書きした。

 失いたくない。助けたい。彼女へ向けられた無防備な皆の愛情が、一個の命には身に余る強大な災害となって人々の精神を破壊した。

 エコー・クライシス。最期の瞬間、ユラは自分の手を握るシュウのことも、自分が「ユラ」であることさえ、分からなくなっていた。


「……ッ!」


 シュウは思わずアオイの体から手を引いた。

 動揺を抑え込み、記憶の面影を振り払う。そして再び無感動な作業者の仮面を被り、手を動かした。

 目の前の少年を守らねばならない。同じ過ちを犯してはならない。

 情を寄せたとて満たされるのは己だけなのだから。




 人との交流を避けるため、シュウは世界を旅している。彼が唯一接触するのは、エコーから身を守る術を与えてくれた男、ジンだけだった。

 ジンが何者であるのかはシュウも知らない。分かるのは、出会って十年以上が経っても彼の外見が一切変わらないことだった。

 彼も共鳴者なのだろうとシュウは考えている。無秩序な共鳴によって精神を侵すエコーを何らかの形で処理し、能力に代える者。ユラが、アオイが、得られなかった力を持つ者。

 シュウと同じように、為す術もなく愛する存在を見送った男。

 心に城壁を打ち立て、感情を遮断する方法を与えたのはジンだった。そしてアオイが世界を変える鍵であると教えてくれたのも、彼だった。


 かつて見上げるばかりの存在であった師は、十数年の時を経た今ではシュウよりも年下の若者に見える。

 世界に取り残される不老不死者。ジンの変わらない様子が、変わることができない様子が、シュウにとっては支柱であり、悲しみの源泉でもあった。

「変化なし。状態は安定しているようです」

「そうか」

 不愛想なシュウの報告に、それ以上の無感動でジンが頷く。死した賢者のような瞳がシュウの捨てきれない葛藤を見据えていた。

「あの子に妹の記憶を見ているのか」

「……見えるものから目を背け、記憶には蓋をしています」

「お前の心に波紋が生じている」

 責めるような口調ではなかった。感情の乗らない言葉で事実の応酬をしているだけだ。

 二人の間には大きな隔たりがある。シュウは理性で感情を排除したが、ジンは永き時を経て感情を摩耗し、失ったのだ。


 エコー・クライシスは“後世”が名づけた区分に過ぎないとジンは言う。

 共鳴者とはエコーを受容して能力に変えた者。その適性がなく、自我の崩壊に至る病がエコー・クライシス。シュウを始めとする現代の人類はそう理解している。しかしそれらは根本的に同質の状態だと彼は語る。

 共鳴者は、ただ単に「まだ壊れていないもの」なのだと。

「アオイが自我を取り戻しても、お前の妹が生きていたとしても、同じだ。やがて私のようになる」

 エコーによって壊れ、作り直した別の何か。ただ命を繋げただけの、生を続けるだけの装置。


 ジンは世界から身を守るための方法をシュウに与えたが、それが救いではないことを互いに知っていた。




 その日、シュウは久しぶりにアオイの言葉を聞いた。それは世界に吹き荒れる嵐の中で、一点の灯台の光のように揺るぎなく輝いている。


 ――アカネ。


 アオイの魂が、最も大切な存在を呼んでいる。彼が壊れた精神の奥深くに守ってきた小さな断片、魂の片割れの名前。

 彼女が生きる未来を救いたい。エコーに壊されることなく人々の心を守りたい。唯一の鍵となるプログラムはアオイの中に眠っている。

 守りたいと願うのは、アオイのためなのか、己が悲しみたくないからなのか。

 ユラを守れなかった自分自身を救うために、アオイを死から遠ざけたいだけではないのか。




 シュウの葛藤に呼応するかのように強大なエコーの波が隠れ家を襲った。過去にこの一帯を襲った巨大な磁気嵐の記憶が再現されているのだ。

 壁がびりびりと震え、天井が崩れる。シュウは咄嗟にアオイに覆い被さり、落ちてくる瓦礫から彼を守った。

 少年の微かな鼓動が、壁の奥に封じ込めたはずのシュウの記憶を否応なく引きずり出す。


 ――おにいちゃん、たすけて……


 どうすればいい、ユラ。どうしていたら、お前を助けられたんだ。俺はお前に生きていてほしかった。だが、その想いすらもお前を苦しめ、壊した。

 今の自分のように、目を閉じて耳を塞いで、孤独の城壁で守っていれば彼女は生きていられたのだろうか。

 そんなことを果たして彼女が望んだのだろうか。彼女の願いはエコーに掻き消され、最後の瞬間までシュウに届かなかった。

 このままアオイを連れて逃げ出したい。ジンに受けた恩を裏切り、アオイに救われるはずの世界も、すべてを捨てて、己の腕の中にある命を守りたい。

 それはアオイの願いではない。ユラの願いでもない。ただ、シュウ自身の願望に過ぎなかった。




 磁気嵐が去り、隠れ家に静寂が戻る。

 シュウの腕の中でぐったりとしていたアオイが、ゆっくりと顔を上げる。その瞳に初めて見る明確な意志の光に、シュウはたじろいでしまう。

 彼が自身の意志で運命を選び取ったことを悟らされた。


 ――この壊れた精神と肉体を新たな世界に代えて、プログラムを起動する。


 互いを愛し、想い合うことを許される世界へと、城壁から歩み出るために。

 真実ここに在るために。


 葛藤を抱えたまま、シュウはアオイの隣に立つ。

 シュウの城壁は今、外界へと這い出そうとする愛情を押し留める理性となっていた。

 指先まで理性で戒めなければアオイの決意を邪魔してしまいそうだった。救済の名のもとにアオイの祈りを犠牲と断じて踏みにじり、大義を掲げて彼を逃がしたくなる。

 目の前でアオイの輪郭が解ける。彼の存在はゆっくりと世界に溶けていく。シュウはそれを黙って見守った。

 身体を引き裂いてもこれほどの痛みは感じないだろう、城壁の内側で、他人事のように自分自身の感情を見つめる。

 アオイの姿が完全に消失した後でも、世界を満たす空気が変わったのかどうか、シュウには分からなかった。




 翌朝、隠れ家を出てシュウは空を見上げた。昨日と同じく晴れ渡る蒼の中には昨日と同じく太陽が輝いている。

 遠くに乳白色の煙が昇っても心は乱れたまま、自分自身を見据えられない。城壁は跡形もなく壊れていた。

 シュウの目から涙が溢れる。僅かな驚きと共にそれを拭おうとすると、ジンが優しく肩を叩いた。

「お前は愛する者を二度喪った」

 ジンの目には涙の気配がない。そこには世界が変わった喜びも、アオイを亡くした悲しみも、己の祈りが成就した満足も、何もない。海底の砂粒のように乾いた孤独だけがある。

「お前は今、悲しんでいる。涙が流れるだけ泣くといい」

 そうすることを許される世界をアオイが与えてくれたのだから。


 陽が沈むまで泣き明かして、枯れ果てた頃には月が顔を出していた。崩れた隠れ家にジンの姿はない。

 シュウもまた、生まれ変わった世界に旅立つことにした。

 果てしない空の下、未だその青さを知らない人に、アオイが最後に抱いた願いの残響を届けるために。


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