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星の残響  作者: Ono


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アオイの章:砕けた水鏡


 灼熱の砂漠を歩き続けた記憶。その痛みが皮膚を焼く。一族の未来を担う赤ん坊が生まれた。その産声が鼓膜を震わせる。

 ある時、彼は巨大な翼を持つ獣だった。空を駆けながら眼下に広がる緑豊かな大地を見下ろし、逃げ惑う獲物を悠々と狩ってその血肉を味わった。

 またある時、彼は名もなき兵士だった。長きに渡る戦乱の末に降り注ぐ光の矢で貫かれ、愛する人の名を呼びながら死んでいった。

 そしてある時、彼は一本の樹木だった。何百年も同じ場所に根を張って、季節の移ろいを、人々の営みを、ただ静かに見つめていた。

 どこかで誰かが感情を発するたびに、大地に一粒砂が舞うたびに、世界の記憶の断片がアオイの存在を侵食した。

 陽射しを浴びて葉を広げ、雨に打たれて渇きを癒す。悠久の時が血潮のように体を流れた。


 他者が抱いた刹那の記憶と永劫に世界を満たす感情が絶えず流れ込み、アオイの意識は常に嵐の中にある。

 九年前から、アオイは現実との接続を失っていた。

 彼という個を形成するはずだった輪郭はエコーの奔流に砕け散り、無数の断片となって水底に埋もれてしまった。


 しかし時折、混沌の嵐からアオイの欠片を守ろうとするかのような、確かな現実に触れることがあった。

 無骨な腕に抱きかかえられ、ぬくもりに包まれる。喉の奥にぬるい水が流し込まれ、ぼやけた視界に石造りの天井が映った。

 昨日もここにいた。昨日もこの手に支えられた。か細い実感がアオイに現在を教えてくれた。

 シュウ。冷たく分厚い、しかし安堵をもたらす城壁のように、アオイは彼の存在を感じていた。

 城壁は世界から溢れるエコーの濁流を堰き止める。決して感情を露わにしないシュウが規則正しく繰り返す毎日だけが、かろうじて「アオイ」という個の欠片をこの肉体に繋ぎとめていた。

 太古の昆虫ではなく、路傍の花ではなく、海底に眠る石ではなく、自分は「アオイ」なのだと。


 シュウは何も語らない。ただ彼の腕の温度から、その指先の優しさから、彼の内なる喧騒がアオイに伝わってくる。

 封じられた慟哭が響くたびに、アオイは自分自身を思い出せるのだった。




 荒れ狂う海面を離れて深いところに沈み込む。生まれ故郷によく似た静寂の中で、アオイはじっと自分の記憶を見つめた。

 最初に強大なエコーがアオイの心を砕いた瞬間、深層に沈めて守り抜いた記憶、愛おしい魂の片割れの名前。

 ――アカネ。

 その響きだけは決して混沌に呑み込まれることがない。アオイの中に残された、ただ一つの自我の断片だった。


 双子として生まれた姉弟は、滅びに向かう世界の大いなる祝福としてコロニーに受け入れられた。両親をエコー災害で亡くした後も、決して孤独を感じることはなかった。誰もが二人の家族だった。

 そしてそんなコロニーの家族の誰よりも、アカネのことが大切だった。二人でいれば何でもできると思っていた。事実、そうだった。


 ある日、アカネと二人で木の実を採りに出かけた。通常、幼い子供だけでコロニーから出ることはなかったが、姉弟は特別だった。

 アオイが木から落ちて膝を擦りむくと、彼女は自分のスカートを破って傷口に巻いてくれた。

「だいじょうぶ、いたくないよ」

 そう言ってアカネが笑うだけで、アオイの世界から痛みも恐怖も消えてしまった。

 またある日、年少の子供たちに自分の食事をあげてお腹を空かせていたら、ミトさんがパンを分けてくれた。

 アカネは「はんぶんこだよ!」と、わざと不揃いにちぎったパンの大きな欠片をアオイに与えた。


 勝ち気で、面倒見が良くて、優しい姉。誰からも好かれ、誰よりもアオイを愛してくれた。

 自分とそっくりな顔で笑う、魂の半身。


 ――だいじょうぶ、おねえちゃんがまもってあげる。


 怖い夢を見て泣きじゃくる自分を抱きしめてくれた細い腕。同じ夢をアカネも見ていたくせに。

 甘い香りがした彼女の髪。亡き両親の面影を宿す唯一の色。

 彼女の声が、その温もりが、その匂いが蘇るたび、アオイの世界はアオイ自身のものになる。

 嵐が止んで、濁流は澄み渡り、穏やかな水面に手を繋いだ二人の姿が映る。


 本当は自分のほうこそ彼女を守りたかった。

 いつも姉に守られてばかりいる、弱い弟でいたくなかった。彼女を守れるような強い男になりたかった。

 もしあのまま二人で成長して今を迎えられていたなら、ほとんど初恋と呼ぶに等しい感情だったのかもしれないとアオイは思う。

 だがそれは叶わなかった。

 互いを守りたいと願う強い感情は、世界に響き、命を蝕むエコーとなって二人のもとに返ってきた。




 エコーはすべてに響き合い、時に存在そのものを根底から書き換える世界のプログラムだ。

 シュウがアオイを匿っている、この隠れ家の壁もエコーによって変質したものの一つだった。

 堅固に積み重ねられた石壁は古代に人々を守った寺院の一室。数えきれない祈りと信仰を吸い込み続けた果てに今では「石」であった記憶を失い、生き物の皮膚のように柔らかく脈打っている。

 生物の精神という曖昧なものは、より容易に変わってしまう。


 九歳のあの日、双子の心が響き合い、そのエコーは古代文明の大いなる遺産を呼び寄せた。二人の精神は世界の根幹をなすプログラムと繋がってしまった。

 そしてアカネは、自身を蝕む膨大な情報の流れを予知として処理することで共鳴者となって身を守った。しかしアオイは奔流に耐えきれず、彼の自我は砕けた。

 アオイの肉体は常に世界の感情を受け止め、他者へと響かせる、「エコー・クライシス」に侵された。

 小さなコロニーには彼を守ってやれるだけの力がなかった。それ以上に、アオイが放つエコーから人々を守る力がなかった。

 アオイは九歳にして故郷を追われ、アカネとも永遠に引き離された。彼女を守りたいという願いは形を成すよりも前に叶わないことが定められたのだ。


 アオイは時々、自分の腕が陽炎のように透けて見える。指先から霧散しては、シュウが介抱してくれるたびにまたひとときの現実感を取り戻す。

 食事は喉を通らない。ただシュウが与えてくれる果実を溶かした水だけで、かろうじて生命活動を維持していた。

 もはやアオイは人間とエコーの中間にある、何か別のものに成り果てていた。あの日のプログラムが彼を書き換えてしまっていた。

 それはひどく恐ろしいことのはずなのに、悲しみを感じることもできなかった。

 個としての輪郭が薄れていくにつれて、ただアカネを守りたかったというかつての祈りの破片が、より純粋に、より強く、水の底で研ぎ澄まされていく。




 不意にアオイの前に人影が現れた。それが現実の出来事なのか、あるいは精神が映し出す心象風景なのか、区別はつかなかったが、シュウの硬質な静寂とは違う海のように深く沈んだ気配はアオイに安らぎを与えた。

 嵐の中に灯台の明かりが煌めく。男の名はジンといった。シュウが、そう呼んでいるのが聞こえた。


 アオイはジンの中に途方もない時間を見た。

 あらゆる命が生まれて死んだ。いくつもの文明が起こり、栄え、そして滅びた。ジンはそのすべてを見送ってきた。

 彼の精神はあまりにも永い年月によって、ほとんどの感情が摩耗しきっていた。

 喜びも、怒りも、憎しみも、悲しみもない。残っているのは海の底の静けさだけ。

 ジンはアオイによく似ていた。


 その静寂のさらに奥底に一つ、決して消えることのない光がある。

 一人の女性に向けられた愛情の記憶。

 今や世界だけが記憶を残す遠い古代の光に満ちた世界で、ジンと共に生きた最愛の妻、ミラ。

 彼女の笑顔、彼女の声、彼女の香り、そのぬくもりだけは幾千年の時を経てもなお色褪せることなく、ジンの魂の中心に輝き続けた。

 彼は世界そのものに似ていた。




 ジンはただ自分自身を開き、アオイに見せた。凪いだ水面が互いを映し合うような邂逅だった。


 数多の生命に溢れていた古代世界。

 世界の感情に振り回されることなく、命はあるがままに想いを発して生きていた。争い、結ばれ、家族を作り、老いていく。

 アオイは記憶の原生林をさまよいながらミラの姿を探した。ジンも、彼女も、エコーに侵された共鳴者だった。そしてミラは自我を失い、ジンの目の前で壊れた。

 古に置き去られたジンの悲しみは、アオイに奇妙な安堵をもたらした。アオイは、自分が壊れていくところをアカネに見せずに済んだ。少なくとも最悪の事態だけは避けられたのだ。

 どれほどの悲しみが胸を痛めつけても、アカネを傷つけずに済んだ。それがアオイにとって何にも勝る救いだった。


 そしてアオイは、ジンの記憶から一つの希望を見つけ出した。

 あの日アオイを書き換えたプログラムは、まだ自分の中に眠っている。古代文明の遺産、世界をあるべき姿に修正するための強大なエコー。

 散り散りになっていた自我が像を結び、祈りが形を成してゆく。

 アオイの中に初めて生まれた最後の自我の光だった。


 アカネを守りたい。そのささやかな願いを叶える。

 いつか彼女が誰かを愛し、いつか誰かが彼女を愛する、その想いをエコーが破壊しないように。

 まだ生きていく者たちの未来のために。


 この壊れた精神と肉体を新たな世界に代えて、プログラムを起動する。


 アオイを抱きしめるシュウの強靭な腕が、一瞬強く強張った。シュウを人間たらしめる葛藤がアオイには愛おしかった。彼が自分に大切なものを重ねたように、アオイもまた彼にアカネを重ねていた。


 君が守ってくれたから、僕は、ここにいた。




 最後に、今も故郷で人々の世話を焼いているアカネの姿を見た気がした。

 一緒にいた頃よりも大人びて、悲しげな素振りを表に出さず、強くあろうとし続ける人。

 もう彼女がアオイを思い出すことはないだろう。それで構わない。エコーの呪縛から解き放たれ、彼女が自由に生きられるのなら。


 アカネ。

 僕の、愛しい片割れ――。


 意識がゆっくりと消えていく。エコーの濁流に呑まれて自我が崩れ落ちていくのとは違う、蛹が蝶へと至るような温かな変容だった。

 アオイの輪郭は徐々に溶けて、世界に新しい空気を満たした。


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