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星の残響  作者: Ono


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アカネの章:空ろな手のひら

 瞼の裏で白い光が明滅する。意識が覚醒へと引き上げられていく寸前、世界に渦巻く奔流が五感を埋め尽くした。

 翼を撫でる冷たい風。意志を懸けて相争う怒声。強烈な飢えを癒す肉の味。夜の片隅で密かにきらめく鉱石。抱きしめた恋人の甘く優しい香り。

 それらは大気に満ちる生命の記憶、世界の感情そのもの、「エコー」だった。ほとんどは意味をなさない過去の残滓だが、時折、その響きは形を成して未来の欠片を作り出した。


 ――朝陽の中で古い貯水タンクに亀裂が入る。

 ――昼過ぎの太陽に目が眩み、老婆が階段を踏み外して転びそうになる。

 ――夕暮れの中、遊び疲れた子供たちが家族のもとへ帰っていく。


 アカネはゆっくりと目を開けた。ベッドの上で半身を起こすと、側頭部に鈍い痛みが走る。予知が起きた後のお決まりの頭痛だ。まるで未来の情報と引き換えに脳の一部を削り取ったかのような痛みだった。

 精神に入り込むエコーに流されることなく、己を保って響き合う特異な能力を得た者、「共鳴者」。しかしその力は祝福などではなかった。何かを得るためには何かを喪う。それが冷徹な世界の理だ。

 アカネの予知は、コロニーの仲間の生活を支えると同時に、静かな喪失を彼女にもたらした。


 窓の外には、晴れ渡る空を覆い隠す乳白色の煙が漂っている。美しき毒から人々の心を守るために、コロニーの中央広場から吐き出され続ける煙だった。

 心を動かしてはならない。感動はこの世界を揺さぶり、命を破壊する。

 朝の空の美しさ、心地よい目覚め、ささやかな喜びでさえも生命の間で響き合うごとに無秩序に増幅され、やがて一個の命では受け止め切れない膨大な感情となって精神を蝕む。それがエコーだ。

 そうやって数多の動物がゆっくりと死に絶え、今や理性を持つ人類が僅かに生き延びるのみだ。人々はただ静かに、穏やかに、滅びを享受することしかできなかった。


 アカネはベッドから降りて、頭痛によろめきながら食料棚へ向かった。廃材を並べただけの床板が彼女の重みを受けて軋む。

 木の実の入った袋を取り出す。硬いそれを石臼で丁寧に砕き、粉末にする。指先についた粉を舐めると、ほのかな甘みと土の香りがした。

 水を少しずつ加えながら捏ね、平たく丸めて、熱した鉄板の上で焼く。じゅう、と湿った音がして香ばしい匂いが立ちのぼる。それが彼女の、そしてコロニーの人々の朝食だった。


 ベッドに戻って、焼き上がったばかりのそれを口に運ぶ。ぱさついた食感だが、温かいものが腹に収まると幾分か気持ちが落ち着いた。

 ふと視線を上げ、アカネは無意識に首を傾げる。この家には自分一人しかいない。昨日もそうだった。明日も同じだろう。だが、なぜかそのことが不思議だった。

 ついさっきまで誰かが隣に座っていたような気がしてならない。自分と同じ顔をした、少しだけ気弱そうな少年が。

 その少年と言葉を交わしながらの朝食はもっと温かかった。記憶の残滓が胸のあたりを漂っている。

「……あれは、誰だっけ」

 床に空いた穴へと呟きが虚しく落ちて行った。

 手を伸ばしても記憶の縁に届かない。そんなものが本当に存在するのかも分からなかった。

 アカネは考えるのをやめ、残りの食事を胃に詰め込んだ。




 コロニーは建築物の残骸を利用して作られている。人々は崩れかけた壁の窪みや、かろうじて風雨をしのげる場所に身を寄せ合って暮らしていた。

 中央広場では巨大な円筒から乳白色の煙が吐き出されている。

 アカネが広場へ向かうと、それぞれの仕事に取りかかろうとする皆の姿が見えてきた。誰も大声で笑ったり、怒鳴ったりはしない。ただ粛々と、今日という一日を生き延びるために、やるべきだけことをやっている。

「アカネ、おはよう」

「おはようございます、タキさん」

 貯水タンクの管理者である男が彼女に気づいて手をあげた。アカネは彼の元へ歩み寄り、声をひそめて告げる。

「西側のタンクですが、三時間後くらいに上のほうの継ぎ目に亀裂が入ります。昨日の雨水は別のところに移しましょう」

「……分かった。いつもすまないな、助かるよ」

 タキさんはアカネの目を真っ直ぐには見ない。感謝の言葉を口にしながらも、その視線は常に少しだけ逸らされている。


 未来を知る者への無意識の畏怖と遠慮。

 アカネはその距離に慣れていた。彼女は共鳴者としてこのコロニーを守っている。エコーがもたらす事故や災害を未然に防ぐのがアカネのやるべきことだった。

 感謝される。しかし隣に並ぶことはない。それが彼女の役割だった。

 荒廃した大地に未だ建物としての体裁を保つ「家」が与えられているのも、アカネが予知能力を持っているからこそだ。


 広場を横切り、階段の近くで繕い物をしている女たちの集まりに近づく。そこにいる一人の老婆、ミトさんが、昼過ぎに足を踏み外す光景を見た。

「ミトさん、こんにちは。膝掛け、いい色だね」

「あら、アカネ。ありがとう。でも最近どうも目がしょぼしょぼしてねえ」

「あんまり根を詰めないでね。お昼になったら、うちで一緒にご飯を食べない? 今日はなんだか、足元がふらつく感じがするから」

 あくまでも自分の体調が悪いかのように装って、さりげなく予知の場所から遠ざける。ミトさんは「おや、そうかい。じゃあ、そうさせてもらうかねえ」と素直に頷いた。二人の会話を視界の端に捉えながらも、女たちは黙々と繕い物を続けている。

 人々はアカネの力を知っている。だから彼女の言葉を無視しない。頼りにされている。けれど、決して心から打ち解けることはない。


 仕事の合間、広場の隅で子供たちが遊んでいるのが目に入った。濃密な霧の下で大人たち感情の発露を抑える。そうすることで辛うじて、幼い子供の無邪気さをエコーから守っていた。

 泥と埃にまみれながら石ころを蹴って素直に笑い合う。アカネの胸の奥がちくりと痛んだ。

 いつだったか、自分も誰かと手を繋いであんな風に遊んだ記憶がある。小さな男の子の手。その手の温かさは今でもはっきりと思い出せる。

 けれどその手が誰のものだったのか、どんな顔で笑っていたのか、靄がかかったように思い出せない。

 アカネには同年代の友人などいなかった。

「……忘れたことより、考えなきゃいけないことがあるから」

 彼女は自分に言い聞かせ、子供たちから目を逸らすと、コロニーを見回るために再び歩き出した。




 コロニーの外れには、いつの時代かもっと規模の大きな居住区だったであろう建物群の跡地が広がっている。そこには過去の記憶が強く残留しており、もはや人が暮らすことはできなくなっていた。

 エコー・スポットと呼ばれるこのような場所では、かつての命の記憶と感情が不意に再現される。それは見惚れるほどに美しい光景でありながら、見る者を共鳴へと引きずり込み、酷い頭痛や吐き気をもたらした。

 特に強いエコーに長時間晒されると、人の精神は汚染され、自我が崩壊する。エコー・スポットは一般的に危険区域と指定され、誰も近づこうとはしない。

 だが共鳴者としてエコーを制御しているアカネは、時々一人でここに訪れた。


 錆びた鉄骨が墓標のように空へと突き出している。風が吹き抜けるたびに誰かの嗚咽に似た音が鳴る。

 見知らぬ風景が、聞いたことのない文明の音が、陽炎のように揺らめきながら現実の風景に重なった。

 今は滅びた獣たちが緑の草原でじゃれ合っている。

 奇妙な機械が悲哀に満ちたメロディを奏で、大勢の人間が涙を流している。

 色とりどりの鉱石が輝き、ささやいて、砕け散ったあとには七色の光が尾を引いた。


 アカネが手を伸ばして幻に触れると、予知を得るごとに失われていった彼女の記憶が、心の内側から刺激される気がした。忘れてしまったはずの温もりが蘇る。

 自分が何者だったのかを思い出せそうになる。今ここに在る自分が本物のアカネなのか、分からなくなる。

 怖ろしくもあり、同時に、どうしようもなく惹きつけられた。


 今日は特に反応が強い。アカネが居住区跡の中心に近づくと、目の前に少年の影がふっと現れた。半透明の体の向こうでは現実と幻が交わりながら揺れている。

 少年は、エコー・スポットの過去の幻影とは少し違っていた。彼はアカネを見つめているようだった。

 歳はアカネと同じくらいだろうか。自分とよく似た、でもどこか優しく頼りなげな顔立ち。少年が何かを伝えようと口を開くが、そこから音が発せられることはなかった。

 ただ泣きそうな表情だけがアカネの心に働きかける。

「あなたは、だれ……?」

 アカネは思わず手を伸ばした。指先が彼の頬に触れる寸前、激しい頭痛が脳をかき混ぜる。視界がぐにゃりと歪み、立っていられなくなる。


 ――大丈夫、僕が守るから。


 不意に頭の中で声が響いた。目の前の少年の声ではない。もっと幼くて、けれど力強く決意に満ちた声。

 その声を知っている。知っているはずなのに。

「あ……っ」

 アカネはその場にうずくまった。強く目を瞑って痛みが過ぎゆくのを待つ。やがてゆっくりと顔を上げると、もう少年の姿はなかった。

 冷たい風が崩れた建物の間を吹き抜けていく。太古の幻影もまた消え去り、時間の谷間にアカネの姿だけが取り残されていた。




 家に戻ったアカネは、まるで何かに導かれるように、ベッドの下に押し込んでいた箱を引っ張り出した。襤褸切れや端材が乱雑に詰め込まれたその奥、折りたたまれた一枚の紙。幼い子供が描いたらしい絵だった。

 そっくりの笑顔を浮かべて並ぶ少女と少年。二人の首にはお揃いの青い石のペンダントがかけられている。

 アカネはほとんど無意識に自分の首元に手をやった。幼い頃から大切にしている、青い石のペンダントが仄かに光る。

 これは私だ。この少年は私の大切な人だ。

 それは疑いようのない事実だった。少年と自分の繋がりを、アカネは知っていた。けれど彼の名前を呼ぼうとしても言葉が喉の奥に詰まって出てこない。唇がもどかしく形を作るだけで、音が続かないのだ。

「あ……ぁ……」

 声にならない。彼の名前が分からない。これまで本能的に察していた記憶が失われるということを、心を切り裂く痛みとして理解する。あるいはその理解すら何度も味わい、忘れていたのかもしれない。


 アカネは少年の顔をなぞる。その輪郭を、感触を、思い出そうとするように。

 涙は出なかった。泣けばそれは無限に響いてしまう。エコーが過剰なまでに膨れ上がらせた感情が、あらゆる命を傷つける。

 忘れたくない。この笑顔を、この温もりを、手放したくない。でも明日の朝にはきっと、新たな予知の代償としてまた少年の記憶が自分の中から消えていくのだろう。

 アカネには抱くことを許されていない悲しみが、出口のない迷路を永遠に回り続けていた。




 その夜、けたたましい警鐘の音が眠るアカネを叩き起こした。全身を悪寒が駆け抜ける。

 地面が生き物のように激しく脈打っている。脆い壁に亀裂が走る。

 過去にこの地で起きた大規模な地震の記憶が、エコーとなって現実を侵食しているのだ。アカネは慌てて家を飛び出した。

 コロニーはパニックに陥った人々の叫び声で満ちている。その中で、ミトさんの静かな瞳がアカネを捉えた。

「アカネ、俺たちはどこに逃げたらいいんだ!?」

「お姉ちゃん、怖いよ……助けて……」

「落ち着いて! 私が守るから、大丈夫」

 恐怖が伝播し、膨れ上がりそうになる。子供の不安げな様子を見て、大人たちはなんとか平静を保とうとした。


 目を閉じて、自分の精神を世界に満ちるエコーの奔流へと意図的に同調させていく。


 ――広場に続く道が瓦礫で塞がる。東の建物はじきに崩れ落ちる。

 ――南側の備蓄倉庫。あれはずっと先の未来にも存在してる。


 膨大な情報が脳を焼く痛みと共に流れ込んでくる。必要なものだけを必死に取り分けて、アカネは喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

「備蓄倉庫が安全よ! コロニーの東側には行かないで、広場もだめ!」

 ミトさんが頷き、静かに繰り返す。

「南へ」

 彼女の声は小さいのに不思議とよく通った。人々は混乱を抑え込み、彼女の言葉に導かれるまま歩き出す。


 子供たちの手を取って歩くアカネの中で、また一つ何かが像を失い、消えた。

 彼女自身の過去の記憶が、未来の情報と引き換えにして失われていく。

 初めて歩いた日の――の微笑み。転んで膝を擦りむいた時に撫でてくれた――の大きな手のひら。――と二人で、毛布にくるまって星を眺めた夜。

 乾いた紙片を焚き火に投げ込むように、大切な記憶が灰になる。

 幼い自分が強く握っていたはずの誰かの手の感触は、今アカネが守るべき子供たちの体温で塗り潰された。




 どれくらい時間が経っただろうか。揺れが収まっても、幸い死者は一人も出なかった。人々が互いの無事を確かめ合い、ほっと安堵の息が重なる。

 アカネは自分の手のひらを見つめた。

 誰かの手の感触だけが生々しく残っていた。その温もりの主を思い出すことはできなかった。

 一部が崩落したものの、なんとか建物の体裁を保ったアカネの家が、遠くで土煙をあげている。あそこに何かあった気がするのに。

 理由の分からない、どうしようもない喪失感だけが、がらんどうになった胸を揺さぶる。

 私は何かを失った。とうの昔に失っていた。その確信だけが重たく心に沈んでいた。




 数日後、コロニーは変わらない日常を送っている。以前と同じ、ゆっくりと死に向かう世界で、辛うじて息をするように皆で暮らしている。

 朝、アカネは予知で危険を見つけ出し、人々に警告して回る。皆は彼女に感謝し、そして少しだけ距離を置く。

 時折ひどく胸を締めつける漠然とした寂しさの正体も分からないまま、ただ必死で生きていく。


 コロニーを点検して回るアカネに、ミトさんが「この間はありがとうね」と肩を叩いた。

「ううん。私より、ミトさんがいてくれてよかった。みんなを安心させてくれた」

「そりゃあ、あたしは皆より何日か長く生きてるからね」

「ふふ。“何日か”ね」

 未来を紡ぐ幼子はもちろんのこと、エコーに壊されることなく生き永らえた老人もまた、この世界では敬われ、尊ばれる。

 コロニーの支柱であるアカネにとって、ミトさんは数少ない頼ってもいい相手だった。


 何かを失って空っぽになった手のひらで、それでも掴める大切な日常がある。

「これでいいの。これで……」

 言い訳のようにアカネが呟く。ミトさんが何かを言いたげに彼女を見つめ、だが悲しげに首を振って口を閉ざした。


 色褪せた乳白色の煙。その向こうに広がる青い空を、まだ誰も見ることはできない。

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