ep57 エピローグ ①チーフの一日と新卒のわたし
「——よし、ラスト一缶。ここ、しっかり確認して。」
白い湯気の向こうで、陶磁器の食器と
アルミの食缶が、朝の光を受けて、
やわらかく光っている。
両国橋学園の給食室。
スチコンの蒸気と、だしの匂いと、
洗剤の薄い香りが混ざった、
ここにしかない空気。
その真ん中で、白衣姿のわたしは、
配缶表と時計を交互に見ながら、
スタッフに次々と指示を飛ばしていた。
「一年二組、今日アレルギー対応三人です。
配膳台の右端、黄色トレイにして
Wチェック忘れないでね。」
「ワンタンスープの各クラス食缶、
準備大丈夫ですか?」
「先生に内線で”最終確認の連絡”をお願いします」
自分で言いながら、ちょっと
笑ってしまいそうになる。
次から次へと指示を出す自分。
入社一年目のわたしが聞いたら、
絶対テンパってた。
七年目。肩書きは「チーフ」
回転釜にカナベラが当たる金属音。
窓から差し込む光が、湯気の粒に当たって、
白いもやみたいになって揺れている。
冬から春にかけての、少しだけ冷たい空気が、
床からじんわりと上がってくる。
「チーフ、今日、デザートかわいいですね。」
三浦サブチーフが、揚げパンの
トレーを運びながら、にやっと笑った。
「そこ、2色ゼリー綺麗に層が分かれていて、
かわいいですね。」
キムさんと新卒の子と並んで、
見本食のパリパリサラダを
盛り付けているのが見えた。
「すみさん、そのキャベツ、もう少しだけ山、
高くするといいですね。」
「はい。……ここまで、で、いいですか?」
心配そうにこちらを見る新卒さんに、
キムさんがやわらかく笑いかける。
「だいじょうぶ。しいなチーフ、
ほめてくれる盛り付けです。」
日本語のアクセントはすっかりうまくなり、
伝えたいことはまっすぐで、わかりやすい。
そのやりとりを見ているだけで、
胸のあたりがあたたかくなる。
——
初日のわたしにも、こんなふうに
声をかけてくれる人、ちゃんといたな。
「チーフ、配缶時間、あと十五分です。」
「斎藤サブチーフありがとうございます」
チェックリストと時計を指さして、
きっちりとした落ち着いトーン。
安心する。
「はい。……ここから先は、
配缶モードで行きます。」
冗談を言いながら指示を出せる余裕と、
時間だけは絶対に守るっていう緊張感。
七年のあいだに身についたのは、
特別な才能じゃなくて、
そういう「当たり前を積み上げる力」だった。
——ふーぴょんが見たら、なんて言うかな。
ふと、そんなことを思う。
あの日みたいに、隅田川の風の中で、
「きょうも、一日、おつかれさま。」
って言ってくれたら、
たぶん、わたし、その場で泣く。
でも、ふーぴょんは、今ここにはいない。
カバンの中にも、ロッカーの上にもいない。
ちゃんと、自分で選んだ場所に、帰っていった。
ちゃんと、自分で歩けるように
なったわたしを見届けてから。
洗い終わった回転釜の端で、
入社したばかりの新卒さんが、
おそるおそるこちらを見ていた。
新卒の隅田さんが声をかけてきた
「……チーフ、ちょっといいですか。」
「どうしたの。」
「今日もミスしちゃって。私、この仕事、
向いてないんじゃないかって……。」
声が、今にもしぼみそうになっている。
「そんなことないよ。
今日も配缶サポート、よくできてたよ。」
「でも……。」
「ミスしたところは、反省が大事。後で一緒に、
給食室に戻ってシミュレーションしよう。
明日の流れ、やり直してみようね。」
「……はい。」
うつむいていた顔が、少しだけ上を向く。
七年前のわたしを、自然と重ね合わせてしまう。
彼女には、ふーぴょんはいない。
だから——今度は、わたしが彼女の
ガジェットになってあげなきゃ。
「浅倉チーフ?」
南沢先生が、子どもたちへのクラス巡回に行く前に
給食室の入口から顔を出した。
「明日、結婚式なんでしょ。
今日休めば、よかったのに?
今日はもう帰れば?結婚式なんて、
一生に一度なんだから。」
「ありがとうございます。……給食、
子どもたちが食べ終わるまでは、
普通に働かせてください。」
「いつもありがとう」
先生は、少し目を細めて笑った。
その笑い皺を見ていると、学校出社初日に、
「よろしくね」と言われて震えた自分の
手のひらまで思い出して、胸がじんとする。
——わたし、ちゃんとここまで来たんだ。
配缶が終わり、子どもたちの給食も無事に出て、
ようやく自分たちのまかないが並ぶ。
少し冷めた揚げパンをひとかじりして、
砂糖ときなこの甘さを噛みしめる。
「チーフ、泣いてる?」
「泣いてないです。
きなこが目に入っただけです。」
「その言い訳、
そろそろ特許取ったほうがいいよ〜。」
三浦サブチーフのツッコミに、
給食室じゅうの笑い声と、
陶磁器の当たる音が重なっていく。
その全部を背中に浴びながら、
わたしは白衣のチャックを、
すうっと下ろした。
午後の給食室の、
「空っぽの食缶」が、
私たちの希望だ。
一日の「ありがとう」が、
ゆっくりと沈んでいく場所。
——明日は、白衣じゃなくて、
白いドレスを着る。
明日は————花嫁になる。




