ep55 研究室とテイスト・リスナー
白衣の男が角を曲がる、
ほんの一歩手前で、友部がふっと壁から離れた。
「すみませーん。」
驚くほど普通の声だった。
「すみません、このビルの管理の方ですか?」
白衣の男が、びくっと肩を揺らす気配。
「……誰だ、君は。」
低い警戒の声。
「うちの社員が、さっきこのビルの前で倒れたって
連絡があってですね。救急車を呼んだ方
がいいかどうか
確認しているところなんです。」
友部は、どこか仕事モードの口調で淀みなく続けた。
「防犯カメラの映像を確認させてもらえませんか。」
白衣の男の足音が、友部の方へ近づいていく。
わたしは、はらはらしながら耳を澄ませた。
「カメラのことは、管理会社に聞いてくれ。
ここは研究施設だ。部外者は――」
男の言葉が途中で切れた。
モーション・プロテクターのプレートが、
かすかな電子音を立てたような気がした。
直後に、短いもみ合いの音。
壁に押しつけられた布と靴の擦れる音。
「声を出すな。」
友部の、低く短い声が聞こえた。
「ここで大声を出されたら、
お互いややこしいことになる。な?」
数秒の沈黙のあと、小さく「……くそっ」という
舌打ちが聞こえた。
「今から、この部屋に入ってもらう。中で、
静かにしていてくれればいい。それだけだ。」
カチャ、とドアノブの音。
誰かが部屋に押し込まれ、鍵が閉まる気配がした。
「悪いな。」
友部の声だけが、廊下に残る。
モーション・プロテクターが、彼の動きを先回りして
相手のバランスを崩し、抵抗される前に
空き部屋へ押し込んだのだとなんとなくわかった。
角からそっと顔を出すと、友部がこちらを見て、
とっても微妙な笑顔でうまくいったぞ
という感じで指を立てる。
めっちゃ変顔。
「見張りは、しばらく戻ってこない。」
グラス越しの目は、いつもより少し鋭い。
「しいな。今度は、お前の番だ。」
突き当たりにある、金属のドアを指さす。
テイスト・リスナーの音量が勝手に上がる、
さっきよりもはっきりと部屋の中の
声が聞こえてきた。
『このログを本部に送る。彼らが動く前に、
次の段階に進めないと。』
低い声が、どこか苛立ちを押し殺している。
『でも、あの子をこのまま押し留めるのは――』
少し高い声が、ためらうように言う。
『情に流されるな。これは研究だ。』
『研究、ね。“β”って、本当にそれだけか?』
その後ろで、陸が小さく笑う声がした。
『だったらさ、僕もふーぴょん返してくれても
よくないですか。』
その言い方が、いつもの陸すぎて、胸がぎゅっと痛くなる。
ふーぴょんは、まだ陸の腕の中にいる感じがする。
テイスト・リスナー越しでも、
それだけははっきりとわかった。
「しいな。」
背中のすぐ後ろで、友部がささやく。
「中の人数は、三人でいいな。」
「はい。陸と白衣が二人です。」
「どっちか一人は、様子を見に出てくる可能性がある。」
友部が、ドアの上の小さなランプを見上げる。
「そのタイミングで、俺が中に入る。」
「部長がですか。」
思わず聞き返すと、友部は苦笑いをした。
「わたしが行きます」
自分が一番わかっている。
まっすぐに部長の目を見つめる
「……行きます。」
声は震えていなかった。
「わかったよ」
あきれたような顔で友部が答える
「テイスト・リスナーで、
中の会話を聞き続けてくれるか。
ドアに近づいてくる足音があったら、
一歩引いて壁に。」
「はい。」
「しいなのタイミングで」
そう言って、友部はわざと少しだけ
廊下の奥へ下がった。
ドアの真正面には立たず、別の部屋の影に身を潜める。
「何かあったら、俺が動く。無理はするな」
短くそう告げる声に、変な安心感があった。
わたしは、金属のドアのすぐ横に立った。
何かの予兆なのかテイスト・リスナーの
音をもう一段階あがる。
部屋の中の空気の揺れが、
耳の奥にじかに触れてくるみたいだった。
『――もう一度、波長を合わせる。
この範囲ないなら手元になくても同じだ』
キーボードを叩く音。
――今じゃない。
――まだ、ここじゃない。
足音の方向を、イヤホン越しに必死に探る。
そして、その瞬間は突然来た。
『まだセルゲイは戻らないのか……廊下を通ったか。』
背の高い男の声が不安そうに言った。
ひとり分の足音が、ドアの方へ近づいてくる。
金属のドアノブが回る、ほんの刹那前に、
わたしは壁にぴたりと身体を貼りつけた。
ドアが、きい、と開く。
白衣の男がひとり、
不審そうな顔で廊下を見回した。
その視線が、廊下の奥――
友部の潜んでいる方向へ向く。
「まだ戻らないのか。」
男が、小さく舌打ちをする。
その背中が、ほんの一瞬だけ
ドアの隙間に向けられた。
――今。
ケガさせない君のバンドが、手首のところで
かすかに温度を上げた気がした。
わたしはすれ違うように、
ドアの隙間に身体を滑り込ませた。
白衣の男の背中と、ドアの縁のあいだを、
紙一重で通り抜ける。
そのまま、音を立てないように中へ踏み込んだ。
そこは、父のラボよりも少し広い、
無機質な部屋だった。
モニターがいくつも並び、
壁際には、見慣れない機械が
静かに唸り声を上げている。
部屋の中央には、ガラスで仕切られた部屋。
そこに、陸が椅子に座っている。
膝の上には、ふーぴょんを握りしめている。
うさ耳のシルエットが、蛍光灯の下で
少しだけ寂しそうに見えた。
そのすぐ向こう側には、白衣の男がひとり。
年配の、眼鏡をかけた男が、
モニター越しにこちらをちらりと見た。
目の奥だけが、冷たい光を帯びている。
「……やっと来たか。」
その声は、どこかで聞いた父の研究者仲間の
イントネーションに似ていた。
わたしは、椅子に座る陸と、
膝の上のふーぴょんを見つめた。




