スピンオフ 「栄養士 南沢和江」前編 指揮台のない現場
「今日は“エビクリームライス”です。
色も含めて、“メニューそのもの”ですから、
このルウは使えません。」
私は、失敗をしてしまい、
目に涙をためた新人の椎菜さんを見つめた。
まるで、あの頃の自分を見ているようだった。
高校時代、南沢は、吹奏楽部の部員だった。
――もう、二十九年も前の話だ。
勉強は、あまり得意ではなかった。
でも、音楽だけは好きだった。
吹奏楽といっても、コンクールを目指すより、
野球部やサッカー部の応援に行くことの方が多かった。
完璧な演奏じゃなくても、音がそろえば、
汗をかいて勝利に向かう選手の背中を押せる。
そんな感覚が、少しずつ体に残っていった。
だから、ひとつの楽器にこだわらなかった。
クラリネットも、トランペットも、打楽器もやった。
三年生になると、部長を任された。
人生で初めて、指揮台に立った。
全員が同じように演奏できるわけじゃない。
調子の悪い日もある。それでも、止めずに進める。
でも、崩れそうなら、止める。
その難しさを、理屈じゃなく、感覚で覚えていった。
高校を卒業し、中野にある短期大学に進学した。
女子が多く、にぎやかで、
栄養や調理を学ぶにはいい環境だった。
先生たちも、お母さんみたいで頼りがいのある人ばかりだった。
成績は、特別よかったわけじゃない。
でも、栄養学や集団給食実習は好きだった。
栄養価の数字より、その先にある
「誰が、いつ、どこで食べるか」
を考えてしまう。
就職難の世の中だった。
お給料は、当時ではいいほうだったからか、
受験者は百人を超えていた。
その中から数十名。
私は、社員食堂を運営する
老舗の給食会社に合格した。
でも、あまり深く考えたわけじゃない。
この時代は、どこでも就職できればいい、
そんな空気の時代だった。
だから、ただ、働き始める場所が、
決まったという感じだった。
二年間を終え、卒業式を迎え
資格的には、栄養士にはなった。
2000年。
南沢和江は、栄養士一年目だった。
配属されたのは、大手町にある
大手銀行の二千食を提供する社員食堂だった。
コック服に袖を通した初日、広い厨房はすでに、
湯気と油の匂いで満ちていた。
フライパンの前では、年上の調理員たちが黙々と手を動かしている。
「おじさんばかりだ」
思わず、口から出てしまった。
案内してた支配人が振り返る。
「何か言った?」
「いえ……」
何とか、ごまかせた。
「じゃ仕事はチーフの山崎にきいて」
「南沢さん」
「じゃあ、卵むいて」
目の前に、二百個のゆで卵が積み上がった。
「ひとりで?」
「決まってるだろ」
ボールに張られた水に手を入れ一個一個むいていく
むき終えたら
卵に糸を張り、中央に当てて切る。
半分の、ぎざぎざの飾り切り。
それを、二百食分のサラダに飾りつけていく。
ある日は、二十キロの段ボールが二箱、どんと置かれた。
「今日は、これね」
中身は、玉ねぎ。
作業は下処理だけだった。
ひたすら、芯をとって皮をむく。
数時間、同じ作業が続いた。
献立の説明も、栄養計算の話もなかった。
レシピはあっても、誰も見ていない。
調味料はベテランの感で、塩分量など気にされていなかった。
野菜の多いメニューは売れないからと、
とんかつや唐揚げなどカロリー的が高い人気メニューが
頻繁に献立に並んだ。
施設からは、健康診断結果が悪いと
指摘は受けているが、利益が優先だと支配人が言っていた。
コスト管理は厳しく、パン粉を残すと怒鳴られた。
コンロや回転釜に使うチャッカマンは1本しかなく
ベテランの怖いおじいさん吉本さんに毎回お願いして
貸してもらう。
「借りまーす。」
忙しく無い時に、できるだけ笑顔で、怒らせないように。
毎日、定食を千食。
同じ動きを、同じ速度で、味噌汁配膳をひたすら繰り返す。
夜、寝言で「いらっしゃいませ」と言い続けていると、母に笑われた。
時間に追われ、声を張り上げる毎日だった。
ある日、保存食を担当していた同期が、
原材料を消毒薬に浸しているのを見た。
ある日、保存食を担当していた同期が、
原材料を消毒薬に浸しているのを見た。
「……何してるの?」
「こうやれって、言われたから」
正解は分からない。
でも、違和感だけは、確かにあった。
先輩に相談すると、声を落として言われた。
「本社が検査に来るでしょ」
「一般性菌が出ると、怒られるから」
最後に
「余計なこと、言わないほうがいいよ」
それ以上、何も言えなかったし、行動にも移せなかった。
今、振り返って思う。
あの頃の自分は、知識が足りなかった。
マニュアルもインターネットもない時代
調べる力も、確かめる術も、持っていなかった。
分からないことを、分からないままにしてしまった
自分自身にも、あきれる。
ある日、思い切って支配人に相談した。
「レシピ通りだと、同じ味にならないんです」
「調味料とか、全然違っていて……」
「そうか。そんなこと今まで誰も言わんかったよ」
「よく気が付いたな」
褒めてくれた?
一瞬期待感が身体をよぎった。
支配人は、少し面倒くさそうに続けた。
「じゃあ事務所の管理栄養士に言っておいて」
「でも、作っている人に聞かないと」
「なら、自分で聞きな」
現場のやり方はベテラン。
書類上の管理栄養士。
その間に立って、判断する人はいなかった。
ベテランの吉本さんに聞いてみると、こう言われた。
「レシピは、目で見て盗むもんだ。俺だってよくわからん」
先輩も誰も、協力はしてくれなかった。
今までそうしてきた。
面倒な仕事を増やすな、という空気があった。
――これが、
あこがれていた栄養士の仕事?
学校でも、会社説明会でも、栄養士の仕事が
こんなものだとは、教えてくれなかった。
……違う。自分で知ろうとして
いなかったんだ。
帰り道、皇居に沈む夕日を見ながら
手に残った玉ねぎの匂いが、
なぜか胸に重く残った。
他の現場の同期とはビデオだけ見た入社研修依頼以来
一度も会うこともなかった。
一緒に入った現場の同期とは仲が良かったが、
この会社は、歴史は長いけれど、
定期研修もなく、現場も具体的な指導もない。
ただ歯車として現場を回せばいい。
それでも毎日が、がむしゃらに過ごしていった。
同期以外に相談に乗ってくれる人もおらず、
それが、若者の愚痴として重なっていった。
――将来が、見えなかった。
一年目を年を越した冬、
初詣の神社で引いたおみくじ
今では何が出たかも覚えてないけど
その日
――退職を決めた。
1月の初出勤時、上司時間をとってもらい相談すると、
「うちは、いい子はみんな辞めていくんだよね」
その一言だった。
止められるでもなく、説得されるでもなく、
今の自分の存在価値を感じてしまった瞬間だった。
だけど三月まではしっかりやろうそう思った。
嫌なことばかりじゃ、なかった。
一度に大量を処理する現場だったから、
卵も、だんだん早くむけるようになった。
割るのも、自然と速くなった。
玉ねぎの下処理や、野菜の切りものも、
気がつけば手が止まらなくなっていた。
年明けには、アラカルトを任されるようになった。
優しいベテランの東さんが、
カレーライスやオムレツの作り方を教えてくれた。
東さんが作ると、十円の卵が、ホテルの高級オムレツになる。
本当に、すごい技術だった。
ある日、クリームコロッケが足りなくなった。
東さんは慌てることもなく、
油と小麦粉でさっとルウを作り、
牛乳とコーン缶を加えて、冷凍庫で冷やし、衣をつけて
その場でクリームコロッケを仕上げてしまった。
私は、目の前で起きていることが信じられなかった。
一人で、二百食のカツカレーを
任せてもらえた日もあった。
怖さもあったけれど、嬉しさのほうが勝っていた。
現場の調理技術を、私はこの一年で、確かに学んだ。
次の仕事を探したところ
学校給食の栄養士の募集が出ている区報を
母から渡された。
母は私を見ていてくれたんだ。
子どもの頃から、学校給食の献立だよりを
見るのが好きだった。
献立の名前や、イラスト。
その日の給食を想像する時間が、
なぜか心に残っていた。
――自分の「好き」は、ここにある。
そう思えた。そして、心の中で静かに言った。
第1話では、椎菜が失敗する。
そして南沢は、そこで判断をする。
最初から強かったわけじゃありません。
正しかったわけでもありません。
南沢は、私と同じ世代の設定にしています。
当時は、就職難の時代でした。
現場では、怒鳴られることも、
「見て覚えろ」と言われることも、
当たり前のようにありました。
今の言葉で言えば、パワハラと呼ばれるような場面も、
珍しくなかったと思います。
でも、それが正しかったわけではありません。
ただ、そういう時代だった、というだけです。
南沢もまた、その現場に立ち、
迷って、悩んで、失敗を重ねてきました。
声をかけられる側から、声をかける側へ。
少しずつ、立つ位置が変わっていった人です。
今の現場は、環境も制度も、ずっと整っています。
相談できる人がいて、立ち止まることも許される。
どちらが上で、どちらが下、という話ではありません。
時代が違う。条件が違う。
その違いを知ったうえで、目の前の誰に、
どう声をかけるか。
この物語は、その問いから始まっています。




