表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/28

第2話 ハッピーコロッケとうずら一個ぶんの勇気 ①千個のじゃがいもと一本の指

 <1050324|48941>

 天井の白い照明を見上げながら、

 わたしは片手でふーぴょんを抱きしめた。


「……きょうのメニュー、なんだっけ?」


 枕元のスマホをスライドさせる。

 カレンダーには、もう登録済みの

 一行が光っていた。


「かしわぱん・ハッピーコロッケ(うずら卵入り)

 キャベツソテー・コンソメスープ・牛乳。」


 声に出した瞬間、昨日のエビクリームライスの

 匂いがよみがえる。

 焦がしかけたホワイトルウ。曽野チーフの指示で

 やり直して、ぎりぎり間に合った初日。

 厩橋のベンチで、ふーぴょんが初めてしゃべった「……きょうも一日、おつかれさま。」も、

 頭の中で勝手に再生される。


「ふーぴょん。きょうは、ちゃんと失敗しない日

 になるといいなあ。」


 うさ耳フードのぬいぐるみは黙ったまま。

 昨日のあれが夢だったと言われたら、たぶん泣く。


 スーツに袖を通しながら、母の言葉を思い出す。


『コロッケはね、給食では“メインおかず”として

 大事なんだから、崩さないようにね。』


 病院で働く管理栄養士の母は、

 こういう話のときだけ妙に真剣だ。


「メインおかず……千人分……うずら、千個……」


 頭の中に「×1000」がずらっと並び、

 少しクラッとする。


「……よし。」


 ふーぴょんをトートバッグに滑り込ませる。


「いってきまーす。」


「行ってらっしゃい。転ばないでよ、椎菜。」


「転ばないってば。」


 家は奥浅草。

 自転車にまたがり、浅草寺の横を抜けると、

 線香と揚げまんじゅうの匂いがひんやりし

 朝の空気に混ざっていた。


(きのうまでの自分は、この側のお客さん。

きょうからは、川の向こう側の“裏方”なんだよな。)


 そんなことを考えながら隅田川にかかる橋を渡る。

 水面には、ひっくり返った空とビルが揺れ、

 その間を水上バスがゆっくり進んでいく。


(ここ、毎朝くぐる“世界の境目”みたいだな。)


 自分でファンタジーみたいなことを考えて、

 自分でちょっと照れる。

 でも、まだ二十一歳の新人には、

 そのくらいの物語が必要だ。


 川沿いを走り、学校に併設された給食室の

 出入口へ。

 すでに、湯気とだしの匂いが漂っていた。


 ホースでタイルを流している用務員さん

 名札には「後藤」とある。


「あっ……おはようございます!」


 自転車のスタンドを立てそこねて、

 ガタンと大きな音を立てる。


「おっとっと。」


 後藤さんはホースを少し上げて水を止める。


「おう、おはよう。そこ、すべるから気ぃつけな。

 きょうのコロッケより先に転がるの

 あんたになっちまうぞ。」


「コロッケより先に……はい、気をつけます!」


 変なツボを押されて、笑いをこらえる。

 でも、水しぶきはちゃんと

 自転車にかからないように避けてくれていた。


 ロッカーでスーツから白衣に着替える。

 帽子をかぶり、マスクを耳横の白い丸い

 マスク掛けにひっかける。

 ゴムがピタッとかかった瞬間、

 胸の奥がきゅっと締まる。


(ここから先は、“食べる側”じゃなくて

 “作る側”の世界。)


「おはようございます、浅倉です!」


「おはよー、しいなさん。

 きょうはハッピーコロッケよ〜。

 千個成形、がんばろ。」


 三浦佳代さんが、いつものテンション

 高めの声で両手を振る。


「朝の検収済ませたら、玉ねぎお願いしていい? 

 コロッケのタネ用。」


「はい!」


 玉ねぎの芯取りなら、専門学校でも散々やったし、

 昨日もやった。

 大きな失敗には……きっとならない。はず。


 野菜室から銀色のバットに山盛りの

 玉ねぎが運ばれてくる。

 頭とおしりを落とし、皮をむき、芯を抜いて切る。

 同じ動きをくり返していると、

 「何個目」かなんてすぐにわからなくなる。


(いま百個くらい? 二百? 

 いや、目が痛すぎて数える気力がない……)


 鼻の奥がつんとし始めたころ、

 背中から声が飛んできた。


「しいな。肩、力入りすぎ。」


 振り向くと、縣 陸がじゃがいもを

 フードプロセッサーにかけながら

 こっちを見ていた。


「玉ねぎ、目ぇつぶりながらやってんのかと

 思った。」


「つぶってないし! 涙で勝手にスモーク

 仕様になってるだけ!」


 むっと言い返した、その瞬間。


 包丁の刃先が、ほんの少しだけそれた。

 チクリ、と左手に鋭い痛み。じわっと

 赤い線が浮かぶ。


「あっ——」


 声を飲み込んだわたしの代わりに、

 別の声が響いた。


「ストーップ!つっつくつー。」


 洗浄ライン担当の西 茂さん。

 鼻歌みたいな「つっつくつー」が、

 給食室のサイレンみたいに鳴り響く。


 すぐに曽野チーフが駆け寄ってきて、

 わたしの手を見る。


「浅いけど、切創は切創だね。はい、

 玉ねぎから離れて。すぐ手洗いして、救急箱。」


「す、すみません……!」


「謝るのはあと。血、飛ばさないように

 ゆっくりね。」


 水で流すと、玉ねぎの辛さと一緒に、

 痛みがじわじわ強くなる。

 消毒液がしみて、涙がまたあふれそうになる。


「皿は割れても買えるけどな。」


 青い絆創膏を貼ってくれる西さんが

 ぼそっと言う。


「指は買えねえんだよ。切ったこと、

 ちゃんと覚えときゃいい。」


 ぶっきらぼうなのに、絆創膏を押さえる

 指先は驚くほど優しい。


(昨日はちゃんと耐切創手袋してたのに。

 きょうは焦って素手で……

 みんなに迷惑かけたくないって、

 そればっかりで。)


(わたし、ほんと、馬鹿だ。)


 ニトリル手袋の中で、絆創膏の分だけ

 ぷくっとふくらんだ左手の指を見つめる。


『完璧な職場なんて無いよ。でも、

 自分が一番がんばれる場所は選べるよ。』


 佐藤先生の声が、また頭の中で再生される。


 がんばれる場所を、自分で選んだ。

 なのに、まだ包丁一つまともに扱えない。


「浅倉さん。」


 朽木サブチーフが、小さく手招きする。


「コロッケ用のじゃがいもの芽取りできる?」


「はい!」


 コロッケ用のじゃがいもは、球根皮むき機で

 一気に皮をむく。洗濯機みたいな優れもの

 でも、それで終わりじゃない。

 一個ずつ芽と傷を取らなきゃいけない。


「じゃがいもの芽には、ソラニンって毒が

 あるからね。ここ、気を抜けないとこ。」


「ソラニン……はい。」


(でも、この数はさすがに反則。)


 心の中でだけ文句を言いながらも、手は止めない。

 これは冷凍コロッケじゃない。うずら卵も入れて、 子どもたちが楽しみにしてくれる

 “ハッピーコロッケ”だ。


「間に合わせるわよ。頼むわよ。」


 斎藤さんが、真剣な顔で言う。


「はい!」


 蒸したじゃがいもをつぶし、

 炒めて冷ました玉ねぎとひき肉を混ぜる。

 タネを冷やしているあいだに、

 曽野チーフが全体に声をかける。


「コロッケが爆発するのを防ぐには、

 タネの水分をしっかり飛ばして、

 十分に冷やすこと。

 各工程、素早く、でもていねいにいこう。」


「はい!」


 返事が重なって、回転釜の湯気と一緒に

 天井へ昇っていく。

 この給食室全体が、どこか別の大きな台所に

 つながっているみたいに感じた。


 成形が始まる。

 斎藤さんがタネを分け、わたしとパートさん

 たちがうずら卵をのせ、

 朽木サブチーフが形を整える。


 焦りは、手にすぐ出る。

 ステンレス台の上で、みんなの手が行き交い、

 コロッケとうずらが交差し続ける。


(これ、上から見たら完全に渋谷の

 スクランブル交差点だ……まさにカオス!)


「いまの列、うずらのせた?」


「え、のせましたよね?」


 確認の声が重なって、余計に混乱する。


 「ここ、“うずらのせ係”」「ここ、“成形係”」

 「ここ、“ざっくり確認係”ね。」


 曽野チーフが、立ち位置を少し入れ替えるだけで、

 渋滞は嘘のように解消した。


(すごい。一言で、世界の流れが変わる。

 まるでDJポリスって何考えてるのわたし)


 そのまま、成形は順調に終わった。

第2話にも出てきた「球根皮むき機」。

見た目はただの“ゴロゴロ回る洗濯機みたいなやつ”

ですが、給食室ではかなり重要なポジションです。

じゃがいもや里芋をドサッと入れて、

水を流しながらスイッチオン。

ドラムの内側がヤスリみたな回転盤があって、

ゴロゴロ転がるうちに皮がきれいに落ちていきます。

千個単位の皮むきを野菜むきのピーラーだけでやったら、確実に腕とメンタルがやられます。

その意味では、かなり頼れる“現場のヒーロー”です。


……が。


この機械、「簡単そう」に見えるところが

罠だったりします。


使い方をちゃんと聞かずに、ストッパーを

かけないままフタを開けるとどうなるか。


――ゴロゴロゴロゴロッ。


中のじゃがいもたちが、ドラムの遠心力に

素直すぎるくらい素直に従って、

フタのすき間からそのまま床にダイブしていきます。


「ちょ、待って待って待って!」

「止めて止めて! スイッチ!」

「こっち転がってきたー!」


床一面に、つやつやのじゃがいもが大脱走。

新人は半泣きで追いかけ、先輩はモップ片手に

安全確保、

その横で西さんあたりが「はいはい、人間はすべるなよ〜」

とぼそっと言う――そんなカオスが一瞬で

出来上がります。


そう、球根皮むき機は「構造は単純」だけど、

・ストッパー

・フタを開けるタイミング

・水量や投入量

このあたりをちゃんと教わってないと、

一気にただの“じゃがいもばらまきマシン”になります。


作中で椎菜がやっていたように、

・機械でざっくり皮を落とす

(エコを意識し落としすぎない)

・そのあと、人の手で芽取り・傷の確認をする

 という二段構えが、本来の正しい付き合い方。


球根皮むき機は、

「仕事量」を減らしてくれる相棒であって、

「確認」と「責任」までは引き受けてくれません。


だから、第2話の世界では、

・今ある相棒=球根皮むき機

 (物理的な負担を減らす道具)

 ・ちょっと未来の相棒=コロ・バランサー

 (見えない不公平を減らすガジェット)

 という二種類の“相棒”が並んでいます。


機械のスイッチ一つと、ストッパー一つ。

それをきちんと教えて、きちんと聞くこと。


うずら卵一個ぶんの勇気と同じくらい、

「ストッパー忘れない勇気」も、

 現場では大事なスキルだったりします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ