ep47 奥浅草の振袖とタンシチュー
自転車置き場から自分の自転車を
引き出していると、
校舎の陰から、同じタイミングで陸が出てきた。
「お疲れ、疲れたね。しいなめっちゃ
疲れたーって顔してるよ」
「え、そんなこと——」
「顔に出てる。」
陸はそう言いながら、
わたしの少し前に立って歩き出す。
わたしは自転車を押しながら
その横をとことこついていく。
「……門まで一緒に来なくてもいいのに。」
「どうせ駅、こっち方向だから。」
そっけない言い方だけど、歩幅はちゃんと、
自転車を押すわたしの
スピードに合わせてくれている。
「今日さ。」
校門へ向かう、ゆるい坂道。
陸が前を見たまま言う。
「みんなと、楽しそうにソフト麺の
話してたな。」
「え、聞いてたの。」
「まあね。」
そっけない言い方だけど、
ちゃんと見てくれていたんだと思うと、
少しだけ胸が熱くなる。
「前はさ、ああいう“昔の話”になると、
ちょっと遠くで笑ってただろ。」
「……そうかも。」
「今日は、普通に真ん中で喋ってた。」
「まあ、やっと“入れる感じ”に
なってきたのかも。」
「それ、いいことだろ。」
陸は、肩をすくめる。
「現場の話の輪に、自然に入れるようになったらさ。
もう“そこにいるのが当たり前の
メンバー”ってことだから。」
「……そう言われると、ちょっと照れるけど。」
「照れとけ。」
ぶっきらぼうな言い方なのに、その言葉が、
ジャージャーの肉みそみたいに
じわじわ胸に染みてくる。校門のあたりで、
陸が足を止めた。
「今度も朽木さんから飯誘われているけどいく?」
「うん。陸もいくんでしょ。」
「うん」
「じゃあ、話しておくよ。時間空けとけよ!」
陸は駅へ向かって小走りに走っていく。
わたしは川方面に自転車を
押し出しながら、耳の奥でテイストリスナーの
気配を感じる。
《本日のまとめ: 椎茸は、
“いないと味が決まらない縁の下の力持ち”。》
厩橋に近づくにつれて、隅田川からの風が、
今日一日の熱気を少しずつ洗い流していった。
家に近づき、奥浅草の路地は
夕方を過ぎると観光客の足も少し減って、
地元の人たちの歩く音が主役になる。
石畳まではいかない、
少しだけくたびれたアスファルト。
古い提灯の灯りと、マンションの
玄関灯がまざり合って、
路地の空気をうっすらオレンジ色に染めている。
(小学生のとき、このへんで振袖さんと
すれ違ったな。)
そういえば、と急に思い出す。
提灯の灯りが揺れる居酒屋の
前を通り過ぎたところで、
ふと、角の向こうに見慣れない背中が見えた。
背の高い白人の男性。黒いコートに、
簡素なリュック。
(……また、見たことあるような人だ。)
ここ数週間、似たような雰囲気の人を、
何度かこのあたりで
見かけている気がする。
観光客にしては、歩くルートが妙に地元寄りで。
でも、決定的に変なわけでもなくて。
その人は、ちらっとこっちを
見たような気がしたが、
すぐに視線を外して、逆方向へ歩き去っていった。
「……考えすぎかな。」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。数日後。……
仕事終わりの、まだ5時前。
やっと夕方になってきた時間。
後日…
給食も無事に終わり、
書き物を終えて休憩室をあとにする。
「しいな、今日、大丈夫?」
朽木サブが時計を見ながら声をかけてきた。
隣には、リュックしょった陸。
「大丈夫です。行きます。」
約束していた、三人での食事会。
駅から森下まで少し時間がかかるが
お店オープン時間に合わせて
話しながら歩いていった
マンションの1階。大通り沿い。『きっちんぶるどっく』。
白と黒を基調にした外観は、
どこかレトロで、どこか今っぽい。
黒い看板には、びっしりと
メニューが貼られていて、
眺めているだけでもう楽しくて、
視覚から急激され急にお腹がすいてくる。
小さなガラス戸の向こうでは、
カウンターに座った地元のお客さんたちが、
ビール片手にマスターらしき人と談笑している。
「ここ、前に友部さんに連れてきてもらってさ。」
朽木さんが、メニューボードを見上げながら言う。
「うちの会社の元チーフがやってるんだって。」
「へえ。」
そんなやりとりをしながら、引き戸を開ける。
「お疲れさまでーす。予約した朽木です。」
「こんばんは、ようこそ。今日は若い三人なのね。
友部さんは?」
「今日は会議で来れないって。言ってました」
エプロン姿のおかあさんが、
ふんわりした声で迎えてくれた。
朽木さんが軽く頭を下げる。
「おすすめは何ですか?」
席につきながら、気づけばわたしは、
もうその質問を口にしていた。
おかあさんが、メニューをちらっと見てから、
にこっと笑う。
「タンシチューですよ。」
「じゃあ、私はタンシチューで。」
気がついたら、口が勝手に動いていた。
朝からずっと、煮込みの鍋の湯気が、
頭のどこかを占拠していたせいだと思う。
「オレ、タンかつとビールで。」
「じゃ、俺は煮込みハンバーグとチューハイ。」
注文を終えると、オープンキッチンからリズムよく
調理する音が耳に入ってくる。
野菜を手際よく切る音、油のはねる音、
グラスが触れ合う音、
給食室とは違うけれど、
ここも「キッチンの匂い」
がぎゅっと詰まった場所だ。
やがて、テーブルの上に、
次々とお皿が並べられていく。
「はい、タンシチューね。お味噌汁はサービスよ」
「ありがとうございます」
わたしの前に置かれた白い皿には、
デミグラスの海の中に、分厚い牛タンのかたまりが どん、と沈んでいた。
ソースの縁には、小さなバケットが
一切れ添えられている。
「いただきます」
正直もう周りは見えていない。
もうタンシチューに釘付けだ。
ナイフじゃなくて、試しに箸をそっと当ててみる。
(……え。)
力を入れなくても、ふにゃり、と切れた。
まるで、繊維の一本一本が「もう抵抗しません」と
降参しているみたいだ。
ひと口、そっと運ぶ。
デミグラスの苦みと甘み、その奥で、
何時間もかけてほぐされた牛タンのうま味が、
舌の上で、散っていく桜みたいに
ひらひらとほどけていく。
(やば。……これ、給食室では出せないやつだ、
でも出せたら、絶対おかわり戦争になる。)
思わず、心の中でナレーションが流れる。
テイストリスナーを使っていないのに、
頭の中で勝手に「うま味のチャート」が
描かれていく感じがした。
「こっち、牛タンカツね。」
朽木さんの前には、
こんがりきつね色の衣をまとった
牛タンカツが並ぶ。
断面からは、うっすらピンクがかった肉
が顔をのぞかせている。
「いただきます。」
朽木さんが、端っこを箸でつまんで、
そのまま噛みしめる。
「……っはあ。これ、反則だな。」
思わず、低い声が漏れていた。
「どうですか。」
「外、さくさくでさ。中、
箸で切れるくらいやわらかいのに、
ちゃんと“牛タンです!”って主張してくる感じ。」
デミグラスソースをまとった衣が、
噛むたびにじゅわっと音を立ててほどけていく。
そのたびに、牛タンのうま味が、
ビールと混ざり合い
口の中で二段ロケットみたいに
追いかけてくるのが見えるようだった。
「こっちは煮込みハンバーグね。」
陸の前に置かれた鉄皿の上では、
丸いハンバーグが、ぐつぐつと
ソースをはねさせている。
「人気ナンバーワンなんだって。」
と、おかあさんが教えてくれる。
「へえ。」
陸がナイフを入れると、
中から、透明な肉汁がソースの中に
流れ出していく。
「うわ、やば。」
一口かじった瞬間、
その肉汁とデミグラスが一体化して、
鉄皿の上で、小さな肉の惑星系
作っているみたいだった。
「これ、ソースだけでごはん一杯いけますね。」
「持ち帰りたい。」
思わず本音が口から漏れて、
三人で顔を見合わせて笑う。
料理の匂いと、いつもの「今日もお疲れさま」の
空気が、テーブルの上でゆっくり混ざっていく。
「今日、ちゃんと時間通りに仕上がったよな。」
手切りで切られた極細キャベツに
ソースをかけながら朽木さんが言った。
「朽木さんの作業工程表、ばっちりです。」
「いや、あれを回せるようになってきたしいなが、
ちゃんと成長してるだけだよ。」
そう言ってもらえるのが、素直にうれしい。
陸も、珍しく真面目な顔でうなずく。
「最初の頃に比べたら、“あ、今やばい”って
顔したときに、
ちゃんと相談してくるようになったし。」
「え、それ、最初はどう見えてたの。」
「“やばいけど、
とりあえず笑ってごまかそう”って顔。」
「それはそれで、間違ってないと思う。」
三人の笑い声が、
カウンター席まで、デミグラスソースみたい
にとろりと流れていく。
気づけば、わたしはもう、
“輪の外で聞いているだけ”じゃなかった。
気さくにマスターがカウンター越しに
「ありがとうございます。
どう?お口にはあった?」
「はいとっても、柔らかくて優しい味でした。
また来ますね」
「ぜひきてくださいね。」
お母さんが近くまで来てくれて
「ありがとうございました。」
お母さんの”ありがとうございました”の一言が
何だか、とても心が温かくなった。
「ごちそうさまでした。」
みんなでそう告げ店を出て、駅へ向かう
「じゃあ、俺、このまま地下鉄で。」
朽木さんが、地下へ向かう階段のほうへ手を振る。
「お疲れさまでした。ごちそうさまでした。」
陸が言う
「ごっちゃんです。」
私が言うと
「力士か?!」
と腹を抱えて笑いながら
「また現場で。」
彼の背中が人混みに紛れていった
総武線に向かう道、わたしと陸のふたり
夕方とは違う、夜の空気、首都高の車のサイレン
橋を渡る時、一瞬立ち止まり川を見つめ。
「……なあ。」
陸が、ポケットに手をつっこんだまま、
少しだけ視線をそらして言った。
「あのさ。今度さ。」
わたしの心臓が、なぜか一拍早く打つ。
「ミライランド、一緒にどうかな?」
「ミライランド…。」
入社式の日に、一度行った、あのテーマパーク。
同期と一緒に、緊張して感動した場所。
「……みんなで?」
「いや。」
陸は、歩きながら、そこでようやくこっちを見る。
耳のあたりが、ほんの少しだけ赤い。
「朽木さんたちとじゃなくて。俺と。二人で。」
頭の中で、ミライランドのキャラクターミラーや
イルミネーションが、
一瞬だけフラッシュのようによみがえる。
「えっ……。」
声が、うまく出てこない。
「べつに、その……深い意味じゃなくて。」
陸は、慌てて言い足す。
「しいなが、いろいろ頑張ってるからさ。
普通に、遊びに行こう、ってだけで。」
“普通に”って言葉ほど、いま普通じゃなく
響く言葉もない。
「……いいね でも、すこしだけ考えさせて。」
なんとか絞り出した言葉が、それだった。
「うん。」
陸は、それ以上何も言わない。
さっきと同じ言葉なのに、
さっきとは違う意味で、胸に残る。
彼の背中が駅のほうへ消えて
いくのを見送りながら、
わたしは、カバンの中のふーぴょんに、
そっと指先で触れた。
「……聞いてた?」
返事はない。
でも、どこかで小さく
笑われているような気がして、
わたしも、ひとりで苦笑した。
第11話のこの章でご紹介する
森下の『きっちんぶるどっく』は、
実在の洋食屋さんです。
実際のマスターに許可を取って
登場してもらいました。
小さな名店のタンシチューやハンバーグの記憶を、
できるだけそのまま文章に写そうとしています。
「仕事帰りに、ただ美味しいものを
一緒に食べる時間」が、
どれだけ心の支えになるかを書きたかった場面です。
同時に、お店を全力で応援したいという
気持ちも込めています。
ぜひ食べに行ってみてください。
どのメニューも本当においしいです。
個人的には、「ごっちゃんです」と言って朽木さんに
ツッコまれるくだりは、うちの娘との
思い出のやり取りを
引用しました。応援団のチアリーダーは、
応援団の決まりの中に
いるので、伝統的に「ごっちゃんです」と
言うそうです。
そのやりとりが大好きで、どうしても
入れたかった一場面です。
現場帰りのごはんって、打ち上げであり、同時に、
小さな作戦会議でもあるんですよね。
最近はそういう時間が減っているとも
聞きますが、会議のディスカッションでは
出てこない本音を、いっぱい
交わしてほしいなと思います。
奥浅草で見かける「見慣れない背中」や、
さりげなく混ざる不穏さは、
この先へ続く伏線のひとつです。
日常の中に、ごく薄く別の物語の影が
紛れこんでいる感じを、
最後まで大事にしていきたい。
そして激動のラスト章に。
この先は給食から少し離れSFへ暴走していきますが、
お許しいただき、見ていただけばと思います。




