ep38 海を越えてくる仲間ともち米の音
四月の朝の空気は、冬よりも少しだけ
やわらかくて、でも油断すると白衣の
中までちゃんと冷えてくる。
両国橋学園の給食室に二年目として戻ってくる、
その一歩目の通用口で、わたしは
小さく深呼吸をした。
(……今日から、二年目。)
ドアを押すと、金属のきしむ音と一緒に、
ステンレスの匂いと、洗剤と、
消毒の塩素のにおいが混じった
「給食室の朝」が、いつもどおり胸の
奥まで入り込んでくる。
「おはようございまーす!」
タイムカードを押して更衣室に向かう
と、すでに朽木サブと陸が白衣姿で立っていた。
「お、浅倉。二年目おめでと。」
陸が、いつもの少し照れたような
笑顔で軽く手を上げる。
「……お、おめでとうって、なんですか それ。」
「だってもう“新人”じゃないだろ。」
「縣さんこそ、サブチーフ
就任おめでとうございます。」
陸は、今日から二人体制のサブチーフに昇格した。
会社のキャリアパス通りレベルアップだ。
「浅倉さんは肩書きはまだ一緒だけどな。
二年目は“教えられるだけの人”から
“教える側にも回る人”だから、
二人とも覚悟しておくんだよ。」
朽木サブは、チェックリストのファイルを
めくりながら、
それを当たり前みたいに言う。
その一言が、白衣よりも重く肩に乗っかった気がした。
二年目。今までみたいに
「わからないことは全部誰かに聞けばいい」
じゃ、もう通用しない。
ロッカーで白衣に着替えながら、わたしは
首の後ろあたりをきゅっとむず痒くする不安を、
なんとか飲み込んだ。
――今日から、わたしたちの給食室に、
海の向こうから来た仲間」が加わる。
会議の資料で何度も見た言葉が、頭の中で
勝手に再生される。
ミャンマーからの特定技能人材。六人の
うち一人が、この両国橋学園に配属される。
チーフたちは、事前に本社研修で説明も受けていた。
仏教徒で日本語は話せる。社宅に住むこと。
友部部長や外部機関から二十回を超えるオンライン
研修を受けたことや、エリア担当の横網さんが
ミャンマー現地に行って調理実習を行ったこと。
会社もただの労働力でなく、
大切な人材として力を入れている。
「一応、理解できている。」
でも、「同じ現場で一緒に働く」って、
実際どんな感じなんだろう。
国の事情で大学を途中でやめているからわたしより
年上って、きいている。しかも本当は私たち
同期だったこと、内戦や地震もあり一年も伸びて、
ようやく苦労して日本来たことも。
包丁の扱いは、わたしなんかよりずっと
上かもしれない。
逆に、まったくの初めてかもしれない。
想像すればするほど、
「どう声をかけたらいいんだろう」が、
喉の奥で固まっていく。
「浅倉さん、朝礼前に納品チェック一緒にやろうか。」
曽野チーフの声に、はっとして顔を上げる。
「はいっ!」
いつものように返事をして、チェック表と
ボールペンをつかむ。
階段を降りて荷受け口に向かう足音に、
自分の鼓動が少し混ざっている気がした。
七時少し前。トラックが次々と入ってきて、
段ボール箱に入ったキャベツや玉ねぎや、
油の一斗缶が、いつものように積まれていく。
「今日は、赤飯用のもち米も入るからね。
早目に洗って浸漬するよ」
チーフが、納品書をのぞき込みながら言う。
「赤飯……あ、今日、始業式と進級のお祝いの日。」
「そう。小学校も中学校も“新しい一年の
スタート”だから。“今日はちょっと特別だな”
って顔で食べてくれる子、けっこういるのよ。」
“お祝いのごはん”を支える側の重さも、
少しだけ知っている。
「――で、もうひとつ、今日は“特別”があるから。」
「はい。」
「ミャンマーからの特定技能人材の一人が
今日から入るでしょ。」
連絡はかなり前から入っていたが、
ついに来たかって感じだ。
「いよいよ今日から、ですね。」
「そう。今日から。」
心臓が、さっきより一段階だけ大きく 跳ねる。
“いつか”じゃなくて、“今日”。
チーフはわたしの顔色をちらっと見て、
いたずらみたいな目で笑った。
「そんなに緊張しなくて大丈夫よ。
基本的な日本語はできるって聞いてるし、
“同じ給食の仲間”ってだけ、
忘れな ければそれでいいから。」
「……同じ、給食の仲間。」
「そう。国がどこだろうが、白衣着てここで
働くならみんな“給食室の人” 」
チーフがさらっと言う「当たり前」が、
じわっと胸に広がる。
――同じ給食の仲間。
そう思えばいい、と頭ではわかる。でも、
「最初に何て声をかけたらいいですか」までは、
ことばにならない。でも休憩室には、
みんなで用意したウェルカムボードも用意している。
きっと大丈夫。
もち米の袋を受け取りながら、わたしは喉の奥に
引っかかったままのその質問を、飲み込んだ。
朝礼の時間。全員がエプロンのひもを結び
終わったタイミングで、曽野チーフが前に出る。
「おはようございます。今日から新年度、二年目、
サブチーフになる人も、ここに来て初めての
春を迎える人もいます。
メンバーは大きく変わりませんが、
新年度が始まります。」
声が重なって、給食室の天井にふわっと当たって広がる。
「それから、もうひとつ。今日から、
ミャンマーからの特定技能人材の
社員さんが一人、この給食室に入ります。」
ざわっと、小さな空気の波が起きる。
「名前は、キン・ツウさん。お名前、合ってるかしら。
このあと自己紹介しましょうね。
みんな、最初はゆっくりでいいから、
仕事のことは丁寧に教えてあげて。
ただし、“手伝いすぎ”はなし。失敗する権利は、
ちゃんと残してあげてください。」
その言い回しに、わたしは思わず
さんの方を見る。
洗浄ラインの奥で、いつもの帽子をかぶった
西さんが、ふん、と短く鼻だけで笑った。
給食室に、くすっと笑いがいくつか生まれる。
緊張していた空気が、少しだけほぐれるのがわかる。
「じゃあ、キンさん、少し前に出てもらえる?」
チーフが声をかけると、列の端から、
一人の若い女性が一歩前に出た。
想像していたより、小柄だ。白衣の袖口から
見える手首は、思っていたよりずっと細い。
「お、おはようございます。キン・ツウです。
……日本ごと日本のきゅう食のべんきょうしてきました。
まだまだわからないことばかりですが、
がんばりますので、ごしどう
よろしくおねがいいします。」
意外に流暢で、はっきりした声だった。
その一生懸命さに、胸の奥がきゅっとなる。
(……がんばります、か。わたしも一年前、
同じこと言ったっけ。)
拍手の輪に混ざりながら、わたしは自分の
手のひらの熱を、少し持て余していた。
本当は、「一緒にがんばりましょう」とか、
「わからないことあったらいつでも聞いてください」
とか、
何か言える人になりたい。
でも、頭のどこかがブレーキをかける。
文化のこと、言葉のこと。“こう言ったら失礼かな”
とか、“上から目線に聞こえないかな”とか。
考え始めると、足元が急に心もとなくなる。
(……応援って、どうやってすればいいんだろう。)
赤飯のもち米を研ぐ水音が、
いつもより少しだけ冷たく聞こえた。
二年目の春の空気と、しいながもう「新人」
ではいられない現実を
ぎゅっと詰め込んだ章です。年度替わりの給食室には
独特の緊張があって、新しい学年や配置換えで
責任の重さは変わるのに、子どもたちに出る給食は
いつもどおりでなければいけない。
そのギャップが、好きでもあり、こわくもありました。
ミャンマーから来る仲間の話も、現実の現場で
進んでいるプロジェクトが土台になっています。
資料上では「特定技能人材」という六文字で終わる
かもしれませんが、その裏には国の情勢、家族、故郷、挫折、
そして希望が確かに存在します。
私の会社では彼らを単なる労働力とは考えていません。
現場を支える仲間として、オンライン研修を重ね、
現地でも一緒に準備し、社宅を整え、未来を託す人材として
迎えています。国や言葉の違いを「問題」とせず、
むしろ現場の温かさが物語の厚みになる
——そんな描き方をこれからの章
でも続けていくつもりです。
どの国の方であっても、同じ志を持って仕事を
すれば、必ず良い方向へ進む。
人材不足の日本だからこそ、ともに歩む努力を
惜しまず、現場の皆さんにも理解して
もらえるよう願いながら、この章を書き上げました。




