ep32 給食室の空気とぎゅっとなる心
「曽野チーフ、どう?」
「変えましょう。」
チーフは意を決した顔で、先生の顔を
まっすぐ見返す。
「ありがとうございます。私とチーフの
判断を校長先生に確認してきます。」
曽野チーフがうなずくと、南沢先生は
生の切り身と、
焼いた切り身を持って校長室に向かった。
「みんな、返品の可能性もあるから、
作業工程の変更、
準備よろしくお願いします。」
「わかりました。そうしましょう。」
朽木サブチーフが、引き締まった顔で答える。
「朽木サブ、本社かマネージャーにも
連絡しておいて。」
「はい。」
朽木サブチーフは、すぐに会社携帯を取りに
休憩室へ走っていく。
「ここで止められたと思おう。」
曽野チーフは、そう言って私たちを見回した。
その目には、「確かに意味があった」
という確かな反応が宿っていた。
その日の献立表には、本来「マグロの竜田揚げ」
と印刷されていた。
切り身のメバチマグロを使う予定だった。
少し経って、南沢先生が給食室に戻ってきた。
「校長先生への報告と、業者さんへの
連絡は済ませました。
代わりのマグロを手配してもらえそうです。
形状は“角切り”になります。」
そう言ってから、先生は献立表を見て、
ふっと表情を和らげた。
「じゃあ今日は、“マグロのコロコロ揚げ”ね。
給食委員さんには、名前の変更も含めて
伝えておきましょう。
皆さん、大変ですが……よろしくお願いします。」
「はい!」
給食室の空気が、一度ぎゅっと引き締まり、
それから一気に“動き出すモード”へと
切り替わっていった。
◇
「マグロが届いたわ。ここからはスピード
勝負だけど、慌ててケガや事故がないように。」
その声と同時に、
新しい発泡スチロールのケースが
運び込まれてくる。
遅れて納品された一口大のマグロを、
朽木サブチーフが、鬼気迫るスピードで、
かつ丁寧に下味用のバットへと移していく。
しょうゆ、お酒、おろし生姜。
調味料を手早く合わせ、
マグロ全体にしっかりとなじませていく。
その合間に、私は回転釜の前で、
揚げに使う器具を一つひとつ確認していた。
揚げザル。
揚げ網。
トング。
中心温度計。
釜のサーモスタットの設定、
油の量が規定ラインに収まっているかを
確認して、
すぐに揚げに入れるよう、
ガス栓を開き、油を注ぎ、火をつける。
温度計が、少しずつ数字を上げていく。
指さし声出しで確認する。
「片栗粉、用意できました。」
三浦さんが、粉をまとわせる用のバットを並べる。
そこへ、下味のなじんだマグロが次々
投入されていく。
「片栗粉、均一に、ね。」
「はーい。」
三浦さんは、マグロを片栗粉の雪の中で
転がすようにして、
一つひとつ、余分な粉を落としながら
クッキングシートの上に並べていく。
「浅倉さん。」
背中から、曽野チーフの声が飛んだ。
「コロコロ揚げの釜担当、お願いできる?」
「……私、ですか。」
「うん。
さっきの“引っかかり”のおかげで、
ここで止められたんだから。
今度は“おいしく仕上げるほう”も、
ちゃんとやってみましょ。」
胸元のキッチン・ブローチが、
「コツン」と少し冷たくなり、
まるで、冷静になれと心をノックした気がした。
「……はい!」
私は深呼吸をして、回転釜の前に立ち直る。
(……大丈夫。唐揚げの時を思い出して、
チーフに教わった通りにやればいい。)
170℃あたりで、温度計の数字が落ち着く。
試しにコロコロを一個投入する。
(……よし、いける。)
「じゃあ、一釜目、いきまーす。」
三浦さんが、バットの蓋の裏側にのせた
クッキングシートのマグロを持ち上げ、
油の表面に沿うように、静かに滑り込ませていく。
ジュワッ。
油が一気に沸き立つ、重たい音が釜の内側から響いた。
(……音、悪くない。)
エプロンの下、胸のあたりが、
ふわりと温かくなる。
泡の出方。
マグロの色づき。
油の匂い。
唐揚げの時に教わったことが、
キッチン・ブローチの感覚と重なり合って、
頭の中で立体的に組み上がっていく。
ある程度色がついたところで、
私は中心温度計を手に取った。
「……中心温度、三点測ります。」
一度、揚げ網でマグロを少し持ち上げ、
いちばん大きめのコロコロを三つ選んで、
真ん中めがけて温度計の先をそっと
差し込んでいく。
「……82度。」
別の一つ。
「81度。」
もう一つ。
「81度。中心温度75℃以上です。」
数字だけじゃない。
ひとつ割ってみる。
割った断面の色。
立ちのぼる蒸気の匂い。
どれも、“ちゃんと火が通っている”と
教えてくれていた。
キッチン・ブローチも、静かに反応する。
(オーバークッキングになりすぎないように……
でも、中までしっかり。)
小さく自分に言い聞かせて、
私は火加減を少しだけ絞る。
「じゃあ、一釜目、上げます!」
声を張って、揚げ網を持ち直す。
油から引き上げたマグロのコロコロ竜田揚げが、
大きな揚げザルの上に次々と積み上がっていく。
その後も、同じように釜を回していく。
途中、ほんの少しだけ油の音が弱まったときには、
キッチン・ブローチが「ピリッ」と
熱を送ってきて、
私はすぐに火を調整した。
(今の、ちゃんと気づけた。
……前より、ぜったい、わかるようになってる。)
そうして、どうにか全クラス分のマグロの
コロコロ揚げが
揚がったころ、配缶の時間は、ギリギリ間に合う
ラインに滑り込んでいた。
「遅れる、やばい!」っていうさっきまでの
焦りを突き抜ける
達成感が、全身を駆け抜けていった。
◇
――その日の給食。
ごはん。
豚汁。
マグロのコロコロ竜田揚げ(急きょ代替品)。
きゅうりの南蛮漬け。
牛乳。
配缶を終えたあと、
私は自分の一食を手に取った。
マグロのコロコロ揚げは、
表面がカリッと薄い衣で、
中はふっくらしていて、
ほんのり甘い下味が染みている。
コロコロだから食べやすくて、いい感じだ。
(……うん。代替でも、ちゃんと“給食の味”だ。)
豚汁はじゃがいもがほろりと崩れ、
豚から出たうまみと野菜のだし、合わせ味噌が、
すべて具材を包んでいて優しい。
(大きな釜で作ると、
なんでこんなにおいしいのかな。)
きゅうり南蛮は酸味がきゅっと立って、
コロコロ揚げの油気と相性がよくて――
交互に食べると、リズムよく箸が進む。
こんな“いつもの給食”が、
“あたりまえに安全”であること。
その重みが、今日だけはぐっと胸に迫った。
「浅倉さん。」
そっと声をかけられて顔を上げると、
曽野チーフが、少しだけ柔らかい目をして
私を見ていた。
「今日の判断、本当にありがとう。」
「い、いえ……。その……なんか、
“いやな感じ”がして……。」
胸ポケットのあたりに視線が落ちそうになるのを、
あわててこらえる。
「“いやな感じ”、大事よ。
それをちゃんと口に出せるのは、もっと大事。」
そう言って、曽野チーフは
自分のお椀の豚汁を一口すすった。
胸ポケットのキッチン・ブローチが、
さっきよりもさらに弱い、
やさしい金色の余韻を残している。
(ふーぴょん。……わたし、ちょっとは
レベルアップできたかな。)
返事は、今はない。
だけど、“うん、できてるよ”と笑っている顔が、
なぜかはっきり浮かんだ。
◇
午後の片付けがひと段落ついたころ、
現場用の携帯が、休憩室から鳴った。
小走りにチーフが向かう。
「はい、両国橋学園です。……あ、
本社の友部部長。」
曽野チーフの声が、少しだけ
ビジネスモードになる。
私たちは手を動かしながら、
なんとなく耳だけそちらに向けていた。
「……はい……はい。
池尻栄養専門学校で、揚げパンを使った
キャリアガイダンス……。
ああ、“揚げパン大学”の企画ね。」
曽野チーフの口元に、少し笑みが浮かぶ。
「2学期の清掃の日の午後……。
うちからは、私と浅倉を連れていけば
よろしいですか?
――はい、承知しました。日程、
改めて共有してください。」
通話が終わると、曽野チーフは、
片付けをしていた私のほうを見た。
「浅倉さん。」
「はい?」
「2学期の清掃の日の午後。現場は
朽木サブに任せて、
浅倉さんの母校で、“出張あげパン大学”っていう
イベントに行くわよ。
キャリアガイダンスと会社説明会と、
あげパン教室、全部セット。」
「えっ、池尻で、ですか?」
「そう。友部から、
『ぜひ浅倉さんも一緒に』って。」
胸の中で、何かが、きゅっと鳴った。
「……行きたいです。」
「うん。じゃあ、そのつもりでいてね。」
◇
その日の帰り道。
更衣室で着替えを終えて外に出ると、
校門のところに、陸が自転車を
押しながら立っていた。
「浅倉、おつかれ。」
「おつかれさまです。」
このところ自然と、校門のところで待ち合わせを
していたみたいな形になっている。
「今日のマグロ、“ここで止められた”って、
みんな言ってた。」
「……うん。」
「ま、ヒスタミンは分からないからね。
でも、そのまま行けば食中毒かもって、
ほんと、マジかって思うけどさ。
そういう日にちゃんと気づけたのは、
かなりでかいよ。」
陸はそれ以上は多くは言わず、
自分の自転車にまたがりながら、
ふと思い出したように言った。
「なあ、年末さ――
ご飯でもどう?……ふたりで。」
「……ご飯ですか。……ふたりで。」
「ああ。忘年会ってほど大げさじゃないけどさ。
“1年目おつかれ会”みたいな。」
「おごりですか?」
「もちろんおごりだよ。先輩だからな。」
「先輩って言っても、同い年でしょ。」
「いやいや、“会社の歴”は俺のほうが上だから。」
「うそうそ、おごりじゃなくても大丈夫だよ。」
二人で、ふっと笑う。
「じゃ、とりあえず年末のどこか、空けといて。」
「……うん。」
「よし。」
陸は手を軽く振って、ぎこちない微妙な
スキップで
駅のほうへ立ち去っていった。
◇
その夜、髪の毛をほどいた瞬間、
ふわっと揚げ油の匂いが立ちのぼった。
「……ああ、今日は完全に“給食室のにおい”だ。」
マグロのコロコロ揚げを何百個と揚げたせいで、
白衣の下まで、油の温度がじんわり
染みついていた。
今日はもう、ゆっくり湯船につかろう。
そうしないと、一日のざわざわが体の
外へ出ていかない気がした。
タオルにくるんだスマホを浴室の棚に置くと、
ちょうどそのタイミングで画面が光った。
『キャリアガイダンスとあげパン大学、
よろしくお願いいたします。
詳細はこちら』
湯気の向こうで、友部部長のメッセージが
ほわっと滲んで見えた。
今日のマグロのコロコロ揚げが、
私の“キッチン・ブローチ”の
初仕事だとしたら――
あげパン大学の日は、
きっと、もっと大事な何かを守る日になる。
お湯に肩まで沈むと、油の匂いがゆっくりと
ほどけていき、
胸の奥のざわつきも、すこしずつ溶けていった。
まだ見えない未来の温かさを、
キッチン・ブローチに、そっと感じながら
目を閉じた。
第5章は、“止めたあと”の現場が
どう動くかを描きました。
今回の件は納品業者の責任ではなく、
あくまでリスク対応の問題です。
それでも、子どもたちのために無理を
聞いてくださる業者の皆様には、
いつも頭が上がりません。
返品が決まってからは完全な時間勝負でした。
代わりのマグロが角切りで届き、
南沢先生の
「じゃあ今日はマグロのコロコロ揚げね」で、
張りつめていた空気が少しだけ前へ転がり出します。
そこからは朽木サブの鬼気迫る段取り、
三浦さんの片栗粉まぶし、
そしてしいなの回転釜ソロデビュー。
大量調理の“現場のすごさ”を少しでも
立体的に感じてもらいたくて、
一つひとつを書き込みました。
キッチン・ブローチも本格的な初仕事です。
数字で支える中心温度チェックと、
しいなが耳・匂い・泡でつかむ“感覚”が重なり、
「前より早く気づけるようになった」という
小さな成長が生まれます。
そしてこの経験は、
池尻栄養専門学校の「あげパン大学」へ、
きなこ揚げパンの回へ、
確実にゆっくりつながっていきます。
ヒヤリを乗り越えた先にある
“次の一歩”
そんな空気まで、一緒に楽しんでもらえたら
嬉しいです。




