ep29 揚げ色のゆらぎと加熱不足の危機
鶏肉の納品ストップという“朝一番の失敗”から、
少し時間がたった。
給食室は、いつもの慌ただしさを
取り戻しつつある。
午前の調理が始まると、回転釜から
立ちのぼる油の匂いが、
空気にゆっくり混ざり始めた。
「浅倉さん、今日は釜補助。
まずは器具の準備をお願い。」
曽野チーフの指示が飛ぶ。
「はいっ。」
私は手洗いを済ませて清潔エプロンをつけ、
回転釜の前で、揚げに使う器具を一つ
ひとつ確認していく。
揚げザル。
揚げ網。
トング。
中心温度計。
釜の下のガス栓がしっかり閉まっているか、
油の量が規定ラインに収まっているかも、
目で追っていく。
その向こう側、調理台のエリアでは――
三浦さんが、汚染エプロンで粉付けの
ポジションについていた。
下味をつけておいた鶏肉をバットに並べ、
片栗粉と米粉を合わせた粉を、
まわりに均一にまぶしていく。
(……さすが、手つきが速い……。)
私は器具を並べながら、
つい三浦さんの手元を目で追ってしまう。
「……浅倉さん、準備だけど集中してね〜。」
「す、すみません!」
「こっち、粉付けは任せて。
浅倉さんは、釜の前を守ってね〜。」
「はい……!」
思わず姿勢を正して、釜の油を入れ、火をつける。
「油火、つけます。サーモスタット
設定できています。」
練習通り言えた。
揚げザルと揚げ網の位置をもう一度整える。
三浦さんは、粉をまとった鶏肉を、
クッキングシートが敷かれたバットに
きれいに並べていく。
そのバットを両手で持ち、
私の立つ釜の手前まで運んでくる。
曽野チーフが手洗いを終え、
エプロンをしてスタンバイ完了。
「温度、確認しました。」
すると、阿吽の呼吸で三浦さんが――
「そろそろ一枚目、いきまーす。」
「はい。」
三浦さんがクッキングシートの端をつまみ、
油の表面に沿うように、静かに滑り込ませていく。
ジュワッ。
油が一気に沸き立つ重たい音が、
釜の内側から響いた。
湯気まじりの匂いが、じわじわと鼻まで届く。
(……さっきの鶏肉のこと、引きずっちゃ
ダメ……。)
そう思いながらも、耳の奥がそわそわする。
「油温、今、だいたい170℃ね。」
隣で温度計を確認していた曽野チーフが、
釜の中をのぞき込みながら言う。
「うちの鶏唐はさ、生姜と酒としょうゆで
下味つけて、
片栗粉と米粉で薄く粉をつけてるでしょ。」
「はい。」
「中の水分が、水蒸気になって
外に逃げようとしてる。
同時に、衣の中には油も入ってくるの。」
曽野チーフは、揚げ網で鶏唐をひとつすくい上げ、
油から少し持ち上げて、空気に触れさせた。
「でね、ときどき油からこうやって上げて、
空気に触れさせる。
一回、衣に吸い込まれた余計な
油を落としてあげるのと、
表面の水分を空気中で少し飛ばして
あげる意味があるの。
それからもう一回油に戻すと、
残ってた水分が、一気に水蒸気になって抜ける。
そうやって、“中はふっくら、
外はカリッ”を作っていくの。」
再び油に戻された鶏唐から、
元気な泡が立ち上る。
(……全部、ちゃんと理由があるんだ……。)
今まで何となく見ていた動きが、
一つの「やり方」として、
頭の中で形になっていく。
何回か同じ動きを繰り返したあと、
曽野チーフは、釜の様子をもう一度確認してから、
私の方へ向き直った。
「よし。じゃあ、残りのわずかだけど、
揚げは浅倉さんに任せるわね。」
「えっ、わ、私に……?」
「うん。任せる。
ここからは、浅倉さんが“釜番”。私は全体の
進捗を確認してくるわよ。」
「……はい!」
私は、喉がからからなことに気づきながらも、
ひとつ深呼吸をして、釜の正面に立ち直る。
「次いきまーす。」
三浦さんが、クッキングシートごと
油に滑らせて入れていく。
泡の出方。
揚げ色。
油の音。
(……さっきより、少し音が重くなった……?)
ある程度色がついたところで、
私は中心温度計を手に取った。
「……中心温度、三点測ります。」
小さくつぶやきながら、釜の中の鶏唐を三つ選び、
温度計の先を、真ん中めがけて差し込んでいく。
「……82度。」
別の一つ。
「85度……。」
もう一つ。
「83度……。
中心温度、80℃以上です。」
規定の数字はクリアしている。
(……大丈夫、だよね……?)
さっき教わったように、
揚げ網で鶏唐を少し持ち上げて空気に触れさせ、
また油に戻す。
「じゃあ、上げます。」
自分に言い聞かせるように言って、
私はガスを絞り、揚げ網を持ち直した。
油から引き上げた鶏唐を、
給食用の大きな揚げザルの上へ次々と移していく。
衣同士が当たる、軽く乾いた音。
揚げ上がった鶏唐が、揚げザルの上に
山のように積み上がっていく。
(……なんとか、できた……?)
「浅倉さん、揚げ終わった?」
「あ、はい。
中心温度も三点測りました。80℃以上でした。」
戻ってきた曽野チーフが、揚げザルをのぞき込む。
少しの沈黙。
「ふむ……。」
一番大きな鶏唐をトングでつまみ上げ、
まな板の上に置いて、包丁を入れる。
ざくっ。
断面が開く。
中は、まだ薄く桜色を残していた。
立ちのぼる蒸気の匂いも、どこか“生っぽい”。
「……火の通り、甘いわね。」
「えっ……でも、温度は……」
「浅倉さん。
もう一回、この一番大きいので温度、
測ってみて。」
言われるまま、私は中心温度計を手に取る。
切り口の真ん中に、そっと刺し込む。
「……72度……です。」
「ね。」
曽野チーフは、釜と揚げザルを見比べながら、
静かに続けた。
「さっきの三点が80℃を超えてても、
“全部”がそうとは限らない。
同じ釜の中でも、入れたタイミングも違うし、
場所によって油の温度も違う。
温度計で“全部”計れないし、計らないでしょ。」
(……たしかに……。)
数字だけを見て「大丈夫」と
思い込んでいた自分が、
一気に心もとないものに変わる。
曽野チーフは、割った鶏唐の一つを
トングでつまみ直し、
再び回転釜の縁にそっと近づけた。
「揚げ物ってね、数字と同じくらい、
“五感”で見るの。」
割った鶏唐を、じわりと油の表面に近づける。
じり、じり、じり……。
さっきも聞いた“寂しい音”が返ってきた。
「今の音、“じり……”って弱いでしょ。
油が元気に踊ってないときは、中まで
火が通ってないことが多いの。
音、匂い。目で見た泡の形。
食材から立つ蒸気。
そういうの、全部合わせて
“まだだよ”って教えてくれるのよ。」
「……音と、匂いと、泡と……蒸気。」
「かといって、オーバークッキングになっても
駄目だからね。」
「オーバークッキング……ですか。」
「うん。揚げすぎて、水分が飛びすぎちゃうこと。
中のお肉がパサパサになったり、衣が固くなったりするでしょ。
安全でも、おいしくなかったら、
給食としては半分失敗なの。」
曽野チーフが、オーバークッキングを
簡単に説明してくれた。
「そう。それにプラスで温度計。
温度計は、“自分の五感が合ってるか
確かめる道具”。
数字だけで安心するための道具じゃないの。」
(温度も、揚げ方も、まだ一人では守りきれない……。
でも――“釜補助”を任せてもらえたんだ。)
悔しさと同時に、
「一人じゃなくてよかった」という、
ほっとした気持ちも少しだけ混ざる。
「もういちど油の温度、確認しましょう。
加熱不足のものがないよう、最後、仕上げるわよ。」
「……はい。」
音。匂い。泡。蒸気。
そして温度計の数字。
朝の納品。
いまの揚げ物。
どちらも“気づけるはずだった”という思いが、
私の胸にじんじん残った。
(もっと……ちゃんと、わかるようになりたい……。
いつか、本当に“任せてもらったまま”で
守れるように……。)
その願いが、夜ふーぴょんの中で静かに
動き出すことになる。
私は、まだ知らない。
第2章では、揚げ物の「数字」と「五感」の
バランスを描きました。
中心温度80℃以上を三点でクリアしていても、
一番大きな唐揚げを割ってみたら、まだ加熱不足。
ここは、実際の給食現場でも起こりうる場面です。
曽野チーフが話す、
・油の音(元気な音か、“寂しい音”か)
・泡の細かさや勢い
・揚がってくる匂い
・切ったときに立つ蒸気
そして、そこに「オーバークッキング(揚げすぎ)」
の注意が入ることで、
「安全」と「おいしさ」の両方をどう守るか、
という話になっていきます。
温度計はすごく大事な道具ですが、
それだけを見て安心してしまうと、
今回のように「数字はOKだけど、実際はまだ」
というズレが生まれます。
だからこそ、「温度計は、自分の五感が合っているか
確かめるための道具」
というセリフを入れました。
しいなにとっては、
・釜補助を任されたプレッシャー
・一人では守りきれなかった現実
・それでも、先輩たちが一緒にリカバリしてくれた
安心感
この全部が、「次はもっと気づけるようになりたい」
という気持ちにつながっています。
このあと第3章で、
その悔しさと願いが、ふーぴょんのガジェットとして
形になっていきます。
現場の“あるある”と、ちょっとSFな要素の橋渡しに
なる回として楽しんでもらえたらうれしいです。
年末にむけて毎日更新行きたいと思います。
ぜひブクマしてご覧ください!




