ep27 すみちゃんカレーと隅田川の夕焼け
そのころ、教室では。
「先生、なんかいい匂いしてきた!」
ライン・ビューワー・グラスに映る
三年生の教室で、
窓側の席の男の子が、ぴょこんと立ち上がった。
「カレーだ! 絶対カレーだ!」
「え、きょうカレーだっけ?」
「すみちゃんカレーじゃない?」
ざわざわ、と小さな土俵入りみたいに、
教室の空気が一気に色めき立つ。
スミチャンカレーブリーズは、
子どもたちの頭上を
ふわっと通り抜けながら、
今日だけの“すみちゃんカレーの匂い”だけを、
そっと鼻先に届けていく。
だしの香り。
根菜の甘み。
鶏肉と野菜から出た、ちゃんこ鍋みたいなうま味。
最後にカレー粉が「よっ」と顔を出す、あの匂い。
言葉じゃなくて、香りだけの
「今日の給食だより」
四年生の教室では、もっとざわざわしていた。
「ねぇ先生、やっぱ今日カレーなんでしょ!」
「お腹すいた〜。」
そこには、さっき南沢先生が言っていた
“有名な力士さん”の姿もあった。
大きな身体がおさまるように、
特別に用意された椅子。
でも、ライン・ビューワー・グラス越しの
お相撲さんは、
なんだか少し照れくさそうに笑って、
子どもたちの声を聞いていた。
(いいなぁ……。
すみちゃんカレー食べて、お相撲さんと
一緒に給食って、
ほぼ“両国フルコース”じゃん。)
わたしは、給食室で配缶のラストスパートを
しながら、
そんなことを考えていた。
「じゃ、浅倉さん、四年二組はこの缶ね。
ちょっと多めだけど、今日は特別ゲストが
いるから。」
「はい!」
配缶表に「4−2(+5名大人多め)」と
書かれていた理由も、
これでようやくつながる。
(ブリーズも、ちゃんと“前座”やってくれたよね。
あとは本番の力士……もとい、
すみちゃんカレーにがんばってもらおう。)
全クラス分の配缶が終わり、食缶と牛乳ケースと
食器カゴが、
順番に給食室を出ていく。
さっきまで人と物でぎゅうぎゅうだった
調理台が、少しずつ空いていく。
フルオーケストラが演奏を終えて
舞台をあとにしたあとの
コンサートホールみたいに、
給食室には、少しだけ静けさが戻った。
一通り配缶も終わり、立ち番に出ていた
スタッフのみんなも、
一人、また一人と戻ってきた。
ようやくわたしたちの給食タイムになった。
トレーの上には、
すみちゃんカレー。
かりかりサラダ。
タカミレッド。
牛乳。
「一学期、みんな本当にありがとうございました。」
曽野チーフがみんなに一礼する。
「はい! いただきます。」
まずは、かりかりサラダだ。
行司さんの軍配みたいに、
ワンタンの皮の「カリッ」が合図になって、
もう一番、もう一口、とお腹の中の
観客席をあおってくる。
さあ、大一番。
カレーは、配缶のときより少し冷めているが、
それでも、スプーンを入れた瞬間、
ちゃんこ鍋出身のだしの香りが、
カレーのマワシを締め直して土俵に上がってくる。
ゴボウは、土俵の真ん中をぐっと支える
俵みたいに、どっしり。
にんじんと大根は、勝負を支える審判員。
しめじと油揚げは、まわりを固める三役。
大関・鶏肉が、りりしく土俵に上がる。
そこへ横綱登場。日本の心、ピッカピカの白米!
土俵の上で見合う、緊張感。
「さあ、待ったなしだ。」
一口、口に運ぶと出汁の香りとうまみが、
全てを包み、観客の大歓声が上がる。
もう勝敗はそのこいる――
すべてが一体になり、
もう「すみちゃんカレー」が勝者!
(おいしい……。最高!)
一気に一皿食べあげる。もうカレーは、
ほとんど飲み物だ。
大歓声の余韻に浸りながら、両国の夕焼けの中、
大きな袋をさげて帰宅する観客のようだ。
タカミレッド。
夕焼け色の果肉をひと口かじると、
甘みがすっと押し出されて、そのままきれいに
後味まで隅田川の風へ運んでくれる。
最後に牛乳を流し込むと、
今日の取り組み全部をまとめて、
静かに胃袋まで送り届けてくれた。
(……ごっつあんです。)
心の中でそうつぶやいた瞬間、
ああ、これ、お父さんが応援団のくせで、
よく言ってたな――と、
胸の奥があたたかくなった。
「美味しかったね……。でもここからが、
大阪場所ね。」
曽野チーフが言う。
みんなの頭に「?」マークが浮かぶ。
「チーフそれ、相撲通しか知らないですよ。
一月の両国場所の次の大阪場所って
意味ですよね。」
「しいなちゃん、いいわよそのツッコミ!」
曽野チーフが、グーサインを作って少しはにかむ。
(なんだか、かわいい……。)
「じゃ、みんな、午後も最後までよろしくね。
水分補給忘れずに。」
「はい。」
みんなの声がそろって、笑顔になった。
食缶とバットが戻ってきてからの
「残菜チェック」と、
一学期最後の清掃タイムだ。
しばらくして、空になった(はずの)食缶たちが、
カラカラという車輪の音とともに、戻ってきた。
「じゃあ、今日も見ていきましょうか。」
南沢先生と斎藤さんが、記録用紙とペンを
持って並ぶ。
わたしは、ちょっとだけ息を止めた。
一年生のクラス。
食缶のふたを開ける。
(……おお。)
昨日までより、明らかにルウの残りが少ない。
ご飯も、底がちゃんと見えている。
「一の一、残りほぼ空ですね。」
「一の二も、よく食べています。」
チェックが進むごとに、
“昨日までの数字”と、“今日の見た目”の差が、
少しずつはっきりしてくる。
そして、四年二組。
「ここは、特別ゲスト込みだから、どうかな……。」
曽野チーフが、冗談めかしてつぶやきながら、
ふたを開ける。
「わっ。」
思わず声が出た。
食缶の底は、ほとんど“すりガラス”状態だった。
ルウも、ご飯も、きれいに削られている。
「四年二組、完食ですね。」
曽野チーフが、ちょっと目を丸くして笑う。
「すみちゃんカレーもそうですけど……
教室で“いい匂いがした”って、
子どもたちがずっと言ってましたよ。」
「匂い、ですか。」
斎藤さんが、記録表に数字を書き込みながら、
ちらっとこちらを見る。
「“ドア開けた瞬間にカレーの匂いがした”って。
お腹が鳴ったって言ってた子もいました。」
わたしの胸の中で、なにかがふわっと浮いた。
(……スミチャンカレーブリーズ、
ちゃんと仕事してくれたんだ。)
もちろん、だしの工夫も、根菜たっぷりの
ちゃんこ風の具材も、
みんなでがんばった仕込みも、
全部ひっくるめての結果だ。
でも、昨日まで胸に引っかかっていた
“最初の一口のハードル”が、
今日はほんの少し低くなってくれた気がした。
「全体的に、残菜はいつもより少なめですね。」
曽野チーフのその一言に、
わたしはこっそり、相撲で勝ち力士が土俵の上で、
行司から懸賞金を受け取るときのように、
右手を手刀にして中央・右・左、と小さく切った。
片づけと洗浄の段取りをつけていると、
給食室の出入口のところで、明るい声がした。
「おつかれさまです〜!
暑い中、今日もありがとね!」
塩崎……じゃなかった、はるかさんだ。
スーパーヨコヅナの袋を提げて、
ひょいっと現れた。
「わ、はるかさん。」
「一学期の給食最終ウィークだからね。
差し入れ持ってこないと、バチが当たるでしょ。」
中には、コンビニのそれとは明らかに
オーラの違う、
“ハーゲンダッツ級”のアイスバーがぎっしり
詰まっていた。
「すご……。」
「ほら、がんばった人には、ちゃんと“ごほうび”が
必要なの。
『よくやったね』ってことで受け取って。」
そう言って笑うはるかさんの顔は、
いつもよりちょっと“お姉さんモード”だった。
「南沢先生からも聞いたよ。
今日のすみちゃんカレー、残菜少なかったって。」
「……はい。昨日よりも、かなり。」
「ね、浅倉さん、顔がちょっと自慢げ。」
朽木サブが横から茶々を入れてくる。
「ち、ちがいます!」
慌てて否定するわたしを見て、
給食室のあちこちから、くすくすと
笑い声が上がった。
はるかさんが、アイスを配りながら言う。
「今年は本当に暑かったけど、
みんなありがとうございました。」
休憩室で着替え、給食室の通用口を出る。
夕方の西日が、校舎の角をオレンジ色に
染めていた。
門を抜けて少し歩くと、その向こうに、
隅田川の水面が
きらっと光っているのが見える。
「おー、しいな。」
声のするほうを見ると、
校門の脇のフェンスにもたれて、
陸が手を振っていた。
最近、給食室を一歩出ると、わたしは彼のことを
「縣さん」じゃなくて「陸」と
呼ぶようになっていた。
きっかけは、自転車通勤を控え、
帰りの電車が同じ方向だとわかった日だ。
そこからなんとなく、一緒に駅まで歩くのが、
暗黙の“いつもの流れ”みたいになっている。
「おつかれ。」
「おつかれさま。」
並んで歩き出すと、アスファルトの
照り返しは熱いのに、
さっきまでの給食室よりは、
いくらか空気が軽く感じられた。
「一学期、おつかれ。今日さ、顔色、
いつもよりよかったな。」
陸が、ぽつりと言った。
「え?」
「アイスベスト、ちゃんと効いてたっぽい。
最初のころ、マジで“倒れんじゃねーかな”
って思ってたから。」
「そ、そんなに?」
「そんなに。」
即答されて、思わず苦笑いがこぼれる。
「でも、今日のすみちゃんカレー、子どもたち、
けっこう食ってたな。」
「……うん。ほぼ完食。」
「南沢先生がさ、『匂いがよかったみたいですよ』
って言ってたぞ。
配缶で回ってるとき、廊下で『いい匂い〜』って
言われたもん。」
胸の奥で、スミチャンカレーブリーズの
小さな羽が、
ふるっと震えた気がした。
「なんかさ。」
陸が、少しだけ歩くスピードを落とす。
「最初に会ったときは、“なんか頼りねー新人きたな”
って思ってたけど。」
「正直すぎない?」
「でも、最近はちゃんと“現場の人”って
顔になってきた。
心配するネタが、減ってきたっていうか。」
からかうような、でもどこか本気の声だった。
(……最初は、こっちだって“なんかムカつく
先輩だな”
って思ってたけどね。)
心の中でつっこみながらも、
その言葉は少しうれしかった。
「ありがと。」
「なに、その素直な返事。
明日、雪でも降んないよな。」
「七月に降らないよ。」
二人で、くだらないやりとりで笑う。
駅までの道は、いつの間にか“気まずい沈黙”
じゃなくて、
こういうどうでもいい会話で、
ゆるく埋まるようになっていた。
恋とか、そういう感じとはちょっと違う。
でも、「同じ土俵で汗かいてる人」として、
だんだんちゃんと信頼している――そんな位置。
ホームに着いて、電車に乗る。
ドアの横の窓から、隅田川が一瞬だけ見えた。
水面の上に、オレンジ色の夕焼けが揺れている。
一学期の最後のカレーの湯気が、
さっきのタカミレッドの果肉と、
いま窓の外に流れていく隅田川の夕焼けと、
ぜんぶ同じ色で、ゆっくりと一つに重なっていく。
その色が、そのまま記憶に染み込んでいく
ような気がした。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第7話は、「香り」と「残菜」と「夏のしんどさ」が
テーマの回になりました。
現場で働いていると、同じ「おいしい」でも、
大人が食べて「うまい!」と思う味と、
子どもが「最後の一口まで食べ続けられる味」が、
びっくりするくらいズレることがあります。
味つけ自体は間違っていないのに、
暑さや行事の予定、その子の体調、
給食室から教室までの距離、
そして「一口目の気分」みたいなものに左右されて、
残菜が増えてしまう日も少なくありません。
夏は締めっきりの教室いつもよりも
匂いが伝わってないんじゃないかな、
そこで「匂いだけでも先に教室に
届けられたらな……」
と思ったことがあります。
スミチャンカレーブリーズは、その願望を
“ちょっと未来寄りのガジェット”として
形にした存在です。
熱中症対策の描写も、実際の給食現場の取り組みが
ベースになっています。
“おいしい給食”は、 安全と衛生と、作る人たちの
体調管理がセットになって、
ようやく成り立つものだという空気感が、
少しでも伝わっていればうれしいです。
そして、そんな現場で働いてくれている
すべての人たちに、心からの「ごっつあんです」と
「ありがとうございます」を込めて、
この話を書きました。
一学期ラストのカレーと、タカミレッドの色と、
隅田川の夕焼けが、いつかどこかで
読んでくださった方の記憶にも、
そっと残りますように。
引き続き、学校給食の現場と、スパイスである
ちょっとだけ未来SFをまぜた世界を
書き続けていきます。感想もお待ちしています。




