第5話 肉じゃが煮崩れと涙で崩れた日 ③五番釜の肉じゃがと読みかけの本
切り物、味噌汁の野菜、いちごのチェック。
工程表どおりの流れが、あっという間に
過ぎていく。
気づけば時計は、工程表の時間。
「浅倉さん、そろそろ五番釜こっち来て。」
「はい!」
ヘラを持ち直して、回転釜の前に立つ。
目の前には、大人の腰の高さより少し
上まである巨大な釜。
中には、さっき皮むきとカットを
終えたじゃがいもとにんじん、
玉ねぎと豚肉が、それぞれきれいに
スタンバイされている。
鼻の奥に、ステンレスと油とだしが混じった、
「給食室の朝」の匂いがくる。
(ここに立ってる。ほんとに。)
胸が、少しだけ熱くなる。
「浅倉さん、まず豚肉から炒めて。
油はこれくらい。」
「はい。」
柄の長いカナヘラを握りしめて、油を回す。
豚肉を入れると、じゅわっと音が立った。
レストランのフライパンみたいな
“おしゃれな音”じゃない。
でも、体の芯まで“仕事してます”って
叩き込んでくる、
重たくてまっすぐな音だ。
「火力は、すこし下げて。」
(デジタルじゃない感覚だ。)
「給食の肉じゃがは“じっくり中火”。焦がさない。」
「じっくり中火……。」
肉の色が変わってきたところで、玉ねぎを入れる。
白い波がじわじわ透きとおっていくのを、
ヘラでかき混ぜながら見守る。
「いい匂いしてきたねー!」
横の方から、釜のフォローに入っている
パートの田中さんの声。
「浅倉さん、5番は、お砂糖から?
それともお醤油先に入れる派?」
「え、えっと……。」
専門学校の“家庭料理実習”では、
肉じゃがは「砂糖・みりん→醤油」の
順番で習った。
でも、給食のレシピでは――。
「砂糖と酒、しょうゆは、こっちの
コンテナで量っちゃってあるから、
レシピ通り、この順番で。」
朽木サブが、他の釜も見ながら
タイミングを書いた紙を指さしてくる。
「肉と玉ねぎがなじんだら、じゃがいもと
にんじん入れて、だし汁→砂糖→しょうゆ。
強火で一回グラッとさせてから、
中火に落とす。」
「はい!」
紙を一度見て、頭の中で繰り返しながら、
言われた通りに調味料を入れていく。
だしが入ると、湯気の匂いが
一気に“給食のかおり”に変わる。
砂糖と醤油が加わると、
それはもう、教科書通りの「ザ・肉じゃが」の
香りだ。
(いける。今日こそ、ちゃんといける。)
ヘラで底をさらいながら、強火で一度グラッと
煮立たせ、中火へ。
釜の表面には、じゃがいもとにんじんが、
ゴロゴロと顔を出している。
「ここからは、混ぜすぎると崩れるから、
“底だけさらう”イメージでね。」
「底だけ、さらう……。」
こわい。
でも、ちゃんとやりたい。調理もひと段落して、
煮込みに移る。
「浅倉さん、5番、ふた閉めて。」
朽木サブチーフの声に、
あわてて釜のふたを閉める。
朽木サブも周りに目をやりながら動いている。
チーフは相変わらず給食室中を、
走ってはいないけど、
駆けずり回っているという表現がぴったりだ。
ほっと息をついたとき、
そのときだった。パートさんが何か
戸惑っているのが目に入った。
「何かありました?」
「浅倉さん、ごめん、
このコンテナどこに置けばいい?」
「今、手、空いてる?」
「えっと、はい、ちょっとだけなら……!」
5番釜から一瞬だけ目を離し、
コンテナを受け取って棚の位置を説明する。
読みかけの本を開きっぱなしにして、
別の本棚を整理し始めてしまったみたいな感覚。
「浅倉さん、5番、ふた開けて。」
朽木サブチーフの声に、
あわてて釜のふたを開ける。
その時点で、中のじゃがいもはさっきよりもだいぶ柔らかくなっていた。
(……今、どのくらい混ぜたっけ。)
時間の感覚が、一瞬だけ抜け落ちている。
そのあとも、
「そのカゴ、先にこっち持ってきてもらっていい?」と声が飛んできたり、
細かい“頼まれごと”が、浅倉Fの頭上にぽつぽつ降ってくる。
(今は、釜。とにかく釜。)
そう思って戻ってくるたびに、
じゃがいもは、少しずつ角が丸くなっていった。
「浅倉さん、一回、火、止めましょう。」
朽木サブチーフが、五番の火をストンと落とす。
「カナヘラ、貸して。」
「す、すみません……。」
朽木サブチーフが、釜の底をやさしくさらう。
持ち上がってくるのは、味のしみた
“おいしそうな肉じゃが”――のはずなのに。
五番のじゃがいもは、一〜四番と比べて、
明らかに角が少なく、ホロホロと崩れ気味だった。
「味は悪くない。ただ、“形”がね。」
朽木サブチーフが、隣の釜の中身と見比べる。
そこに、曽野さんがそっと近づいてきた。
「うーん、ちょっと崩れちゃったね。」
戸惑うわたしに、
「千人分やってて、失敗ゼロの人なんていない。
私だって、煮崩れどころじゃないミス、
何回もやってる。」
五番のじゃがいもを一つ、そっとすくい上げる。
「でもね、“何度もしちゃいそうな失敗”は、
ここで止めないといけない。」
その言葉は、やさしいけれど、重かった。
「五番は、一〜三番と合わせて配缶して、
全体のバランスをなんとか整えます。
味はいいから、“今日はホロホロ寄りの日”って
ことで、子どもたちは喜ぶかもしれない。」
そう言いながら、
一〜四番の、しっかり形が残ったじゃがいもと、
五番の“ほろほろ”を、慎重に混ぜていく。
「でも、本当は、“結果オーライだからいいでしょ”
は、給食では通用しません。
子どもは一回しか食べないから。」
「……はい。」
分かっている。
だからこそ、痛い。
配缶時間は容赦なくやってきて、
肉じゃがは、曽野チーフとサブチーフでうまく
配缶され、事前に計算された
配缶表通りに分けられた。その後、
ワゴンに乗せられて、
教室へ向かうカートに積まれていった。
五番釜の肉じゃがが、
他の釜の“きれいなじゃがいも”に助けられながら、
なんとか「普通の今日の給食」の顔をしている。
(わたしのじゃがいも、みんなのじゃがいもに、
助けてもらってるだけだ……。)
そう思うと、胸の中で何かがぎゅっと縮こまった。
「浅倉さん! 今日は先生、
一年生のクラスの配膳で忙しいから、
校長先生の検食、職員室に持って行ってくれる?」
「はい。」
校長先生に会うのは二度目だ。初日に会社から
もらったばかりの真新しい名刺を渡した日以来。
子どものころから校長先生ってだけでなぜか
緊張する。
コンコンコン。
「失礼します。」ガラガラ。扉を開ける。
校長先生が、仕事をしていた手を止め、
にこやかに迎えてくれた。
「お疲れ様です。今日は王道の肉じゃがですね。」
「はい。わかめごはんと、春キャベツと油揚げの
みそ汁と、いちごです。」
「いいですねえ、“教科書のような献立”。
私は定食みたいな献立が好きなんですよ。」
「はい。」
「あっ、検食よろしくお願いいたします。」
頭ではシミュレーションしていたけど、
うまく言えた。
校長先生は、すぐに検食簿を出して、
肉じゃがを一口すくって口に運んだ。
「……うん。味は、いつも通り、
とてもおいしいです。」
「良かったです。」
ホッとしかけた、その次の一言。
「じゃがいも、今日はいつもより
“ほろほろ寄り”ですね。」
「っ……はい。少し、火が入りすぎてしまって。」
「でも、きっと新一年生は喜びますよ。
スプーンでもすっとすくえるから。」
フォローの言葉だって、頭では分かっている。
それでも、「いつもより」の一言が、
胸の奥に、じん、となにかを残していく。
「安全上の問題はありませんし、味もいいです。
ただ、“今日の状態”はちゃんと
記録しておきましょう。」
そう言って、校長先生は検食簿に
丁寧にペンを走らせた。
三章は、初めて回転釜を任された瞬間
そして「王道メニュー・肉じゃが」との初対面回です。
家庭料理としてはおなじみの肉じゃがですが、
給食になると、分量も責任も、一気に桁が変わります。
「煮崩れ」と「味がしみる」のギリギリの境目を、
新人が回転釜でつかむのは、
かなりハードルが高い仕事です。
ここで書きたかったのは、
・みんなでリカバーすれば“見た目”は整う
・でも、「結果オーライだからいいでしょ」は
通さない という、給食ならではの価値観です。
校長先生の「いつもより、ほろほろ寄りですね」と
いう一言は、
褒めつつも“いつもとの違い”をちゃんと拾う
プロの目線として入れました。
「五番釜のじゃがいもが他の釜に助けられているだけ」
という椎菜の自己評価と、
「それでも子どもたちはおいしく食べている」と
いう現実。
そのズレが、彼女の自己肯定感を大きく
揺らしていきます。
※今後は更新は毎日で進めていく予定です。
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