第5話 肉じゃが煮崩れと涙で崩れた日 ②じゃがいも山と釜前にたつ私
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六時半。納品口には、山田青果店のトラック。
「おはようございまーす。」
「おはよう、今日は肉じゃがでしょ。」
「わかるんですか?」
「わかるんだよね。おじさん、しいなちゃんが
子どものころから納品してるんだから。」
じゃがいもの箱が、次々と台車に積まれていく。
泥が少し残った皮。ずしっとした重さ。
検収を終えて、球根皮むき機の前に立つ。
「……これで、合ってるんだよね、多分。」
この機械をちゃんと触るのは、今日がほぼ初めてだ。
今までは、パートさんや縣さんが回しているのを、横目でちらっと見ていただけ。
(じゃがいも入れて、スイッチ入れて少し経ったら皮がむけるいい子……だよね?)
レバーは、なんとなく横向き。
特に動かさないまま、わたしはスイッチの方に手を伸ばした。
「水、出てるし……じゃがいも、入れます。」
ざざっと投入した、その直後。
ガコン、と中で音がして――
次の瞬間、下のシンク側から「ドドドドドッ」と鈍い音が続けざまに響いた。
「えっ、ちょ、ちょっと待って!?」
皮がむかれるどころか、ほとんどそのままの形のじゃがいもたちが、
低いシンクのざるの中へ、勢いよく転がり落ちてくる。
丸ごとのじゃがいもが、あっという間に山になった。
「浅倉ー? なにその“じゃがいも山”、新メニュー?」
すぐ横から、縣さんの声が飛んできた。
「す、すみません、なんで……。」
混乱した頭のまま機械の前を見ると、
レバーは止めるべき位置に一度も動かされないまま、
ゆるい角度で止まっていた。
(ストッパー、そもそも“効かせてなかった”んだ……。)
「ここ。」
いつの間にか後ろに来ていた朽木サブが、レバーを指さした。
「“止まっててほしい時”は、カチって言うまで倒す。
で、入れる前に、『ストッパーよし、水量よし、スイッチオフよし』って、
自分に聞かせるつもりで声出し確認。」
「ちゃんと教えてなかったね。」
「……はい。」
「じゃがいもは入れなおせばOK。
時間だけは戻んないから、次からは“確認の時間”をすること。」
言い方はきつくない。
でも、胸のあたりに、じわっと染み込んでくる。
(また、やる前に聞かなかった。
できるだろーっていう自分の甘え。)
「浅倉さん、こっちでシンクのじゃがいも拾い直して。
縣くんは、皮むき終わった分をコンテナに回してて。」
「はい。」
「りょーかいっす。」と陸くんが言う。
じゃがいも山に両手を突っ込んで、一個一個コンテナに戻しながら、
心の中で何度も「ストッパー、ストッパー」と唱える。
(前だったら、絶対ここで泣いてたな。)
今は、泣いている余裕すらない。
とにかく体を動かして、リセットするしかない。
拾い直しが終わって、もう一度、球根皮むき機の前に立つ。
「ストッパーよし、水量よし、スイッチオフよし……じゃがいも投入。」
今度は声に出してから、じゃがいもを入れた。
機械が回り出し、表面の皮が少しずつ削られていく。
下のシンクには、もう“じゃがいも山”はできない。
(よし。さっきより、ちょっとはマシ。)
そう心の中で小さくガッツポーズをした、そのときだった。
休憩室の方から、会社携帯電話の着信音が鳴り響いた。
「はい、両国橋給食室、曽野です。」
曽野さんの声が、少しだけ低くなる。
しばらく相づちが続いたあと、短く「分かりました」
とだけ言って電話をぱたんと閉じた。
戻ってきた曽野さんの顔は、いつも通り落ち着いているけれど、
その目だけが、少しだけ忙しそうだった。
「浅倉さん、じゃがいもの様子見ながらでいいから、ちょっとこっち来て。」
「は、はい。」
機械のスイッチを確認してから、手を拭いて駆け寄る。
「今の電話、三浦さんから。朝から熱が出ちゃって、お休みになりました。」
「えっ……。」
思わず、声が漏れた。
昨日見た工程表。
肉じゃがのところに書いてあった「E三浦」の名前が、
頭の中でふっと消える。
「詳しい段取りは、あとで朝礼で全員に伝えます。
とりあえず、下処理と受け入れは予定通り。
浅倉さんは、まず目の前のじゃがいもを、
予定どおり終わらせることに集中。」
「……はい。」
返事をすると、胸の中で、何かがざわざわと動き出した。
(Eが抜けるってことは……肉じゃがの釜、どうするんだろ。)
いやな予感と、ほんの少しの期待と。
両方を抱えたまま、わたしはもう一度、球根皮むき機の前に戻った。
◇三章 五番釜と、ホロホロの肉じゃが
七時半を少し過ぎたころ。
じゃがいもが一段落して、全員がそろったタイミングで、
いつものように朝礼が始まった。
「手を止めて集まってください。」今日の司会は斎藤さんだ。
ステンレス台の前に、半円を描くように並ぶスタッフたち。
朝礼マニュアル通り、進めていく。
「それではチーフお願いします。」
「それじゃあ、連絡事項からいきます。」
その一番前で、曽野さんが、クリアファイルに入った
作業工程表を指さした。
「本日、三浦さんは体調不良でお休みです。」
肉じゃがの帯に、小さく書かれていた「E」の文字に、
赤ペンで小さく二重線で訂正されている。
「その関係で、肉じゃがの釜の担当を少し変えます。」
「一から四番釜は、朽木サブチーフメイン。
五番釜は、朽木サブチーフがフォローに入りつつ、
浅倉さんにも入ってもらいます。」
「……はい。」
自分の名前が出ても、口は動かなかった。
うなずくのが精一杯だ。
「五番釜は一釜だけ。
火加減と混ぜ方は、すぐ横で朽木サブが見るから、
『ひとりで背負わなきゃ』とは思わなくていいです。」
「了解です。」
朽木サブが短く答える。
「昨日も言った通り、『正式に回転釜担当』になるのは夏前の予定。
でも今日は、チャンスの方から転がってきた日、ということで。」
工程表の上。
「回転釜(煮物)」の帯の五番釜の時間帯に、
小さく「浅倉」と追記されるのが見えた。
(ほんとは、まだ早いって言われてたのに。
でも、やらせてもらえるんだ。)
胸の奥が、熱いような、怖いような、変な感じになる。
「じゃあ、いつものように、安全確認してから入りましょう。
今日も一日、よろしくお願いします。」
「よろしくお願いしまーす。」
全員であいさつをして、持ち場に散っていく。
切り物、味噌汁の野菜、いちごのチェック。
工程表どおりの流れが、あっという間に過ぎていく。
気づけば時計は、工程表の時間。
「浅倉さん、そろそろ五番釜こっち来て。」
「はい!」
二章は、球根皮むき機との初対面と、「じゃがいも山」の回です。
給食室の機械って、一見すると頼もしい相棒なのに、
ストッパー一つ、レバー一つの位置で、
一気に「ヒヤリハット製造マシン」に変わる怖さがあります。
実話私も上司も同じ経験をしていました。今では笑い話しですが、、、。
説明を「ちゃんと聞いていなかった」
「聞いたつもりだったけど、確認していない」。
このあたりのモヤモヤした失敗は、
実際の現場でも本当に多い部分です。
朽木サブの
「時間だけは戻らないから、“確認の時間”を用意しなさい」
というメッセージは、
この先もずっと椎菜の中に残っていく“基礎の一言”として書きました。
じゃがいも山は笑い話っぽく見えますが、
椎菜本人には、かなりグサッとくる事件です。




